口から凶器が出る話

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口から凶器が出る話

プロローグ 「…なに?」 「なに?じゃねぇだろ。」 放課後人気のない教室で、いつも行われる行為。 二人のクラスメイトが教室の隅で私を囲む。 「その顔むかつくんだよね。私なんでもわかってますよーみたいな。」 「なに言っ……いった……っ。」 右の女子に突き飛ばされ、後ろの掃除用具入れに思い切りぶつかる。 その様子を見て、二人は満足そうににやける。 この表情を見るのは何度目だろうか。 この二人以外にもたくさんたくさん見てきたこの表情は、強者の顔だ。 うんざりする。 私はいわゆるいじめというものを受けている。 何か言い返せればいいのだろうが私だって好きで黙っているわけじゃない。 声が出ないのだ。 考えていることはある。 言いたいこともある。 けれど肝心な時になると声が出ない。 声の出し方がわからなくなる。 でも、と思うのだ。 どうせ、もしも私の声が出ても誰も聞かないだろう。 だから言わない。 発さない。 ただそれだけなのに。 なんで、こんなことになったんだっけ。 もう思い出せない。 思い出したくない。 でも、私が悪い。 その思いだけが漠然としかし確かに胸にあるのだ。 2 「声が出るようになる本、ね。」 図書室で借りた本だ。 なんとなく、どうしても読みたくなって借りてしまった。 二人から解放された後に向かうのはいつも図書室で、そこで本を借りていくのが日課。 本はいい。 誰にも邪魔されず、言いたい言葉も聞きたい言葉も自分のペースで読める。 私の出せない言葉も声も文字で出てくればいいのに。 何回そう思ったかしれない。 文字ではなくてもせめて相手に届くようになればいいのに。 誰か私の心を知ってくれれば、いいのに。 間抜けなほどに安直な題名の本を何気なく開いてみる。 「なにこれ……。」 中身は真っ白で何も書いてない。 どれだけめくっても、どのページにも一文字も書いてない。 印刷ミス? いやいや、それにしても全ページ真っ白はおかしいでしょ……。 ああ、変なの借りちゃった。 私の唯一の現実逃避の手段が……。 隣の部屋から父親と母親の怒声が聞こえてくる。 まただ。 私のことで喧嘩してる。 母さんは私を優秀な子供でいさせようとするので必死だ。 何故かは知らない。 知りたくない。 知りたくもない。 父さんは母さんの意見に反対のようで、それで毎日のように言い争っている。 二人がどれだけ価値観や意見を反対しようが押し付けようがどっちにしろ私に決定権はない。 二人の目に私は映っていない。 学校にも家にも私の居場所はない。 そんな現実から逃げるために本を借りてきたのに肝心のそれは真っ白で。 イライラが募り深いため息が出た。 そしてその感情は本に向いた。 力いっぱい乱暴に閉じた時。 急激な眠気に襲われた。 ほんの数秒もしないうちに視界は真っ暗になった。 3 「ね、ぇ。」 誰かが呼んでる。 「ねぇ。」 呼んでる。 耳元で誰かが。 「ねーぇー!!」 「うるさい!」 怒鳴ったのと同時に開かなかった瞼が開いた。 「いいツッコミ~。でも急に大声出したら鼓膜破れちゃうわ。」 寝ぼけまなこのまま、声のするほうに顔を向ける。 目の前にはしかめっ面の二十代くらい女性だった。 黒く長い髪は一つに編まれ、容姿はそこら辺のモデルよりも整っている。 着ている黒い服はごくごくシンプル。 悪く言うと壊滅的に古臭くダサかった。 これは夢か? ごしごしと腕で目をこすったが何も変わらなかった。 「誰!?」 「本住よみ子。ちなみに名字の漢字は本に住むでほずみね。よみ子は平仮名に子供の子。」 「いや、名前を聞いたわけじゃなくて……。」 「わかってるわよ。」 「じゃあなんで名乗ったの!?」 「呼ぶときに困るでしょ。呼び方はフレンドリーによみ子さんでよろしく。」 訝しげな目を向けながらゆっくりと体を起こす。 飄々としているこの女性は一体どこの誰なのだ。 ほずみよみこ、と名乗ってはいるが、素性が全くわからない。 「素性が全くわからない、って思ってるわね。」 「なんでわかったの!」 「そういう顔してるもの。」 これが漫画の世界ででもあれば思わずずっこけていそうだ。 「……憑いてるわね。」 よみ子さんの様子が急に変わった。 目線は私の後ろだ。 「憑いてる、って。」 辺りの温度がすっと下がった気がした。 薄々なんのことかはわかっていたが、信じたくない思いから一応確認をとる。 「いわゆる生霊ね。」 「生、霊。」 「茶髪で髪が長くて、色白。顔つきはあんたに少し似てる。……ああ、あんたの母親ね。」 私のさほど大きくない目がいっぱいに開いた。 なんで母さんが生霊なんかに。 というか、今のは事実なのか? 口から出まかせなんじゃないか? そうとも思ったが特徴は全て母さんに当てはまっている。 「本当のことよ。……あんた、今何か、母親の悪口でも言ってごらんなさいな。」 「……っ!?」 言われた通りにしてみようとした、が。 声が、出ない。 「声が出ないでしょう。その憑いてる母親の生霊のせいよ。」 「ちがう!」 「否定の言葉は出るのね。性質が悪いわね。大方逆らわないように育てられたんでしょ、あんた。」 目の前の女が何を言っているのかわからない。 「音は聞こえてるはずなのに、今私がなんて言ったかわからないでしょう。最悪私の名前も忘れてるでしょうね。まあ、これもわからないでしょうけど。」 わからない。 わからない。 何故かと尋ねたいのに声が出ない。 焦りと不安から涙がにじむ。 俯いた私の額に不意に女が触れた。 「母親の生霊があんたの声を奪っているの。自分の都合の悪いことを言わせたくないのね。」 今度は不思議とわかった。 「どうしたらいいの?」 声も出た。 よみ子さんが触れているせいなのだろうか? 顔を上げると、よみ子がクスリと笑い、背後を指差した。 「それ、いる?」 首を横に振る。 よみ子はまたクスリと笑った。 「躊躇いがないのね。ま、いいわ。」 よみ子の手が背後の何かを掴んだ。 そのまま、机に歩み寄る。 そして机の上にその何かを押し付けた。 押し込んだようにも見えた。 「さて、これで生霊は封印されたわ。」 よみ子が差し出したのは図書室で借りたあの中身が真っ白の本だ。 しかし、今は真っ白ではない。 ページの最初に母のプロフィールが書かれていた。 「言ったでしょ?封印したって。」 「え、じゃあ母さんはどうなるの?」 よみ子が隣の部屋を指差す。 すると、いつもと変わらない怒声にも似た母さんの声が聞こえた。 「生霊でも封印されると精神的に何らかの支障が出るんだけど、あれだけ我が強いとね。生霊の一体や二体封印されたって何も問題ないわ。」 「そ、か。」 「残念、って顔ね。」 「え。」 「母親が変わらなくて安心した、じゃないのね。」 よみ子はまたまたクスリと笑う。 「ヒステリックな母親が変わらなくて残念?」 「違う!」 反射的に出た言葉だった。 「違くないわ。あんたは、母親に変わってほしかったのよ。自分の都合のいいようにね。やっぱり親子ねー。」 「違う!!……なんなのよ、あんた……。」 「この本に憑いてる妖怪?魔物?魔女?よ。うん、そうね。お洒落に魔女にしましょう。服も黒いし。」 「ふざけないで!」 「ヒステリックにならないでよ。母親そっくりよ?」 「……っ。」 母さんそっくり? ……そんなの嫌だ。 思わず言葉がつまった。 「私は本住よみ子。この本に憑いてる魔女よ。あんたが借りてきたこの本はね、なんでも願いが叶う魔法の本なの。で、その願いを叶える魔女が私ってわけ。」 「魔女……魔法って、そんな。」 「非科学的で信じられない?でも実際にあんたの願いは叶えたでしょ?」 「願い?」 「声が出るようになりたいって願ったでしょう。」 暗闇の中での出来事が脳裏をよぎる。 あれはよみ子さんの声だったのか。 「あんたの声が出ない原因は母親の生霊。で、それも本の中に封印したしこれで願いは叶ったってこと。で、願いが叶ったことだし私は帰るわ。」 ひらひらと手を振って本に片足を突っ込もうとしているよみ子さんを見送る。 見送、みおく、みお……。 「帰らないの?」 「あっれぇ?おかしいな。あれ?」 いくら冷や汗を垂らして繰り返してもよみ子さんの足は本を踏んずけているだけだ。 「帰れないの?」 「いつもは願いが叶ったら帰れるはずなのに!なんで?……まさか。」 よみ子さんの顔が青ざめる。 「まだ願い叶ってないってこと!?ちょ、ちょっとあんた!もう一回何願ったか教えなさいよ!」 「え、え?だから声が出るように、って。」 「もっと具体的に!」 具体的に。 と、言われても。 思い当たる節がなかなか……。 ぐるぐると頭を巡らせる。 「あ。」 「なに!?」 「私の出せない言葉も声も相手に届くようになればいいのに。って、本を開く前に思ったかも。」 よみ子さんは一瞬ぽかんとした顔をした後、崩れ落ちた。 「はぁああ?何それ、まさかそれ込みで?嘘でしょ……範囲広すぎでしょ……あんたどんだけ強欲なのよ……。」 「な、なんかごめんなさい……。」 「……仕方ないわ。さっさとあんたの願い叶えて私は帰る!だからそのためには……。」 よみ子さんがじろりとこちらを睨んだ。 「あんたが変わるしかないわ。あんたが抱えている問題が解決すれば自然と願いも叶うでしょ。」 簡単に言ってくれる。 人はそんなに簡単に変われない。 っていうか変われてるくらいなら今頃こんな状況にもなってない、のに。 「あんたの願いなんだから、あんたも協力するんだからね!」 4 「さて、生霊もとれたことだしとりあえずあんた。もう一回、なんでもいいから母親の悪口とか文句とか言ってみなさい。」 「そんなこと言われても……。」 記憶にある限り産まれて一度も母さんに文句を言うどころか愚痴すらも言ったことがないのに急にそんなこと言われても無理だ。 戸惑う私を見て、よみ子さんはクスリと笑った。 「わかったわ。私が魔法かけてあげる。」 そう言うとよみ子はふわりと宙に飛び上がり、私に抱きついた。 「そう。日暮楓、ひぐらしかえで。楓、ね。まさにあんたって感じ。」 「なん、で名前。」 目を丸くする私に、よみ子さんはクスリと笑う。 「あんたを読み解いただけ。名前ぐらい簡単にわかるわ。時には感情や気持ちもね。」 よみ子さんはまたクスリと笑う。 読み解いた、とはいまいちピンとこないがなんらかの魔法を使われたようだ。 「魔法はまだ使ってないわよー。」 「また!」 「だからわかるんだってば。……魔法はこれからよ。あんたの願いを叶えるための魔法。」 耳元で何かが聞こえる。 ぶつぶつと、何か呟いているような。 それを聞いているとなんだか不自然な眠気に襲われた。 あの時と同じだ。 「ヒグラシカエデ。そなたの願いを叶えるためには、我は手段を選ばない。選べない。そなたはそれでも願うのか。」 「は、い。」 口が、勝手に動く。 よみ子さんが何かを言っているのは聞き取れるが、内容が頭に入ってこない。 「それは絶対に?」 また。 「は、い。」 「では、我が隷属することに同意を。」 頭が働かない。 眠い。 なのに口が、勝手に。 「……はい。」 5 「と、いうわけで。たった今からあんたにとり憑いたから。」 「はあああああ!?」 隣の部屋から壁ドンされ、慌てて口を押える。 「契約に同意したでしょ?」 ベッドにあぐらをかきながら、よみ子さんは口をとがらせる。 契約って。 契約って。 まさか。 「そのまさかー!」 「あれカウントなの!?私ほぼ眠かった記憶しかないしあれは口が勝手に動いて!」 今度はなるべく声量に気を付けたおかげか壁ドンはなかった。 それでも食い気味に前のめりになったと同時に、私の唇によみ子さんが人差し指をあてた。 神妙な、なのにどことなく色気のある薄い笑みに思わず見入った。 「それだけ叶えたかったんでしょう。願いを。」 よみ子さんの指が唇をなぞる。 そしてにっこりと笑った。 「キャンセル受け付けてないし!」 「えぇ!?」 「これからよろしくね~。」 う、嘘でしょ……。 私はがくりと項垂れ、頭を抱えた。 「ふざけんなー!……!?う、え!ゴホゴホ!!」 「あ、もう魔法が効き始めた。」 急激な吐き気に襲われ、堪えきれず吐き出したのは一本のナイフだった。 「なんで……。」 「これからはそれがあんたの声代わりだから?」 「ちょ、そんなの困るよ!」 思わずよみ子さんの胸倉に掴みかかったところで気付く。 「あれ?出ない?」 「いつも出るわけじゃないわよ。」 よみ子さんに掴みかかった手を優しく離され、冷静になる。 「そのナイフはね、あんたの心の声。私が憑いたことであんたの声には魔力がこもったの。だから声が、言葉がそういった凶器に具現化されるようになったのよ。」 「凶器……。」 「よく言うでしょう?言葉を選ばないとそれは凶器と化す。……あんたを苦しめる、こともあるかもね。」 「こ、こんなん呪いじゃん!まだ声出ない方がマシだったよ!……うぇっ!」 小ぶりのナイフが数本口から零れ落ちた。 本当に、言葉を選ばない、からなのだろうか。 よみ子さんの手が頬を撫でた。 「それでも、出したかったんでしょう?声を。」 そしてやっぱりクスリと笑った。 頑張る理由 私は一学期一発目の小テストの勉強に励んでいた。 このテスト、小テストというのは名前だけで範囲は中間テスト並み、そして難度も嫌がらせ並み。 流石は県一の名門進学校。 小テストでも手は抜かない、どころではない。 そのため私はこうして机に向かっているのだ。 「頑張ってるわね。」 机に腰かけたよみ子さんが言った。 「邪魔しないでね。……うぇっ。」 吐き出したのはフォークだった。 フォークって、凶器だっけ? いや、そんなことより勉強だ。 頑張らないと。 「……なんで頑張ってるの?」 「え?」 嫌な予感がした。 「あの、今頑張らないとだから……。」 「なんで?」 「なんでって……。」 聞かれてる意味がよくわからない。 私の手からシャーペンを取り上げ、よみ子さんはそれを弄ぶ。 「頑張るっていうのはね、自分が幸せになるためにする努力なの。誰かのためにするもんじゃないわよ。」 「で、もでも母さんが!」 反射的に出た言葉だった。 「母親が、なに?」 こちらを見据えるよみ子さんから威圧感にも似た何かを感じた。 「母さん、が……。」 そして、私の中に言い返せる言葉はない。 「失敗したら誰かのせいにするの? 」 失敗したら。 将来のことだろうか。 母さんは、公務員になって、安定した給料と生活、将来性がある男性と結婚して子供を産めと言った。 ざっと考えてみたが、その将来の中に自分の目標も中身も何もない。 すっからかんで空虚なものだった。 「頑張って出た結果に責任を持つのは自分よ。」 結果、責任。 言われた言葉は全くピンとこなかった。 「これは時間がかかりそうね。」 よみ子は深くため息をついた。 聞き上手 放課後、私は数少ない友達にいじめについて相談をしていた。 「で、またどつかれて超痛かったよ。どうすればそういうこと、やめてくれるのかな。」 「うーん。なかなかそういうのって難しいよね。」 「でね、この前なんか!」 2 「……聞いてたわね。」 帰り道、横をいつのもように浮いていたセーラー服を着た中学生姿のよみ子さん(彼女曰く私にサイズを合わせているだけらしいが、本人があまりに気に入りすぎているように見えるので実は興味があっただけかもしれない。)がおもむろに口を開いた。 「友達のこと?うん。聞いてくれてたし相談にも乗ってくれたけど、それがどうかした?」 「……聞いていただけだったって言ってるのよ。」 「え?」 聞いてただけ? 私は首を傾げる。 「彼女、ずっと頷いて相槌を打ってただけだったわ。時折時計も見てた。」 「だから、それがどうかしたの?」 「……彼女はあんたの話を聞き流してたのよ。相談にも乗ってない。おそらく話の内容もろくに覚えてない。」 いつものように飄々と言ってのける。 言っている意味に気付き頬を紅潮させる私を見て、よみ子さんは呆れたようにため息をついた。 「そんなことない!」 結構な大声が出たが、よみ子さんの態度は変わらない。 「そうじゃなきゃ大事な友達の相談中に何度も時計なんか見ないでしょう。」 時計、時計。 確かにあの子、今日は塾があるって言ってたけど……だったら断ればよかったのに。 「それでは角がたつと思ったんでしょう。喧嘩をするのと話を聞き流すの、どっちが早く終わるか彼女は考えてあんたの話を聞いたのよ。」 「そ、んな。」 「あの子は最初からあんたの相談に乗るつもりなんかなかった。あんたが話してる最中ずっと早く解放されたいって、そればっかり。」 よみ子さんは私の周りをぐるりと一周周った後、元の姿で目の前に立った。 「あの子はね、自分を聞き上手だと勘違いしている人なの。」 「ど、いうこと?」 「相槌は意見じゃない。相槌だけを打っているのは最早会話ですらない。……彼女、多分そういう人種に好かれやすいのね。人間は話を聞いてもらうのが好きだから。」 クスリとよみ子さんは笑う。 「話の内容を聞いてても聞いてなくてもかまわない。ただ聞いてもらいたいだけの人種に。」 「わ、私は違う!」 「本当に?」 ドキンと胸が鳴った。 本当に? 私は相談をしたかった? それとも愚痴を聞いてもらいたかっただけ? 「話の内容を聞かないということはね。相手が自分に伝えようとしていることをないがしろに扱うということなの。それは相手に誠意がない行動。相手に興味がない。自分の時間を使う価値すら感じない。そう思っているのと同じなの。いいえ、気付いていなくとも無意識に思っているものなのよ。」 「あの子がそんな、こと。」 信じたく、ない。 「全ての人間が同じことを考えているわけではない。けれど少なくとも彼女の対応には誠意がなかった。それだけは確かね。」 あの子がそんなこと。 思ってるはずがないと言いたい。 けれど言い切れない。 だって、だって私も、あの子が時計を気にしていたのに気づいていなかった。 私、あの子のこと考えてなかった。 「そう。言い切ることはできない。人間はそれほどに難しい生き物。そして変わっていく生き物でもある。今、あんたは気付いたでしょう。自分のことを客観的に見てどう思った?」 気付かなかった。 相手の事を考えない行動をした。 「最低、だと思った。」 「……そう。気付けたのならば変わらなければ。興味を持つのに値しない人間だと思われなくなるには自分が成長するしかない。成長して、彼女がまだあんたの友達と名乗っていて、それでも彼女が誠意を示さなければその時は離れるも近付くもあんたの好きにすればいいわ。」 成長。 私ができるんだろうか。 今だって、本心ではイラついてる。 なんで私だけが変わらなければならないのかって思ってる。 「楓。人は簡単には変えられないのよ。自分が変わろうとしない限りね。」 それはあんたが一番わかっているでしょうに。 その言葉を、よみ子は飲み込んだ。 今はまだ、その時ではないのだと。 「わかる」と「理解」 晴れやかな空、白い雲、初夏の爽やかな風。 本来であればその爽やかな風と同じようだったはず。 なのに私の気分はそれとは、真逆だった。 「いい天気ねー。」 「ちょっとよみ子さん!静かにしててよ!……うぇ!」 原因はこの隣を浮いているポニーテールの少女だ。 見た目は中学生くらいで服もセーラー服なのに胸元には派手なネックレスという一見違和感満載のこの少女は何を隠そうあのよみ子さんだったりする。 最近は家以外でも話しかけてくる。 そして返事をしないと不貞腐れてしばらくはご機嫌ななめでめんどくさいので対応するのに一苦労どころじゃないのだ。 口から落ちたナイフを拾い、少女の姿をしたよみ子さんはにやりと笑った。 「うざい、とでも思ったのかしら。」 わかってて言っている。 「顔に書いてあるからね。」 「人の心勝手に読まないでよ!……っうぅ。」 「あらあら。」 また小ぶりのナイフが一本落ちた。 絶対楽しんでいる。 そうとしか思えない笑みだ。 よみ子さんはナイフを拾いながら鼻歌なんか歌っている。 いい気なものだ。 「何度も言ってるでしょう?あんた以外の人間に私は見えないし声も聞こえない。なのに熱心に気にしてるのはあんたよ。」 「返事しないと不貞腐れるくせに!うぇ!!」 「この凶器も通常他人から見えることはないからわざわざ拾わなくていいのに。なのにわざわざ拾って。なに?新しい剣でも作るの?某ゲームみたいに。」 「……そんなわけないでしょ。ていうかどっから覚えてくるのそういうの。」 家にゲームなんてないのに。 よみ子さんは、ほぼ常に私の傍にいるはずなのに流行りのゲームや漫画のことをいつの間にか知っている。 「だーから。友達に教えてもらってるんだってば。……あ!噂をすれば!」 よみ子さんが嬉しそうに手を振った先は見慣れた塀。 そこに一匹の黒猫が座っていた。 心なしか猫も嬉しそうだ。 猫は一声鳴いて塀を飛び降り、こちらに近寄って来た。 「久しぶりねぇ。」 なぉん、と猫は鳴く。 「楓、あんたも挨拶しなさいよ。」 「え、あ、おはようございます。」 なんとなくしゃがみ込み、猫と視線を合わせた。 ついでに頭も下げてしまった。 すると。 「お前が楓な。はい、おはよう。」 少年のような、聞き慣れない声がした。 しかし辺りを見回しても誰もいない。 「だ、誰?え、まさか?」 よみ子さんの友達。 あり得る。 「もしかして、今のはあなた?」 「物分かりが早いな。」 「そうなのよ。仲良くしてやってね~。」 猫とよみ子さんは勝手気ままに盛り上がっている。 聞こえてくる内容はよくわからないが、良くない事という事だけはわかった。 「わかったわ。ありがと。」 よみ子と猫はハイタッチをかわし、去り際に猫がこちらに振り向いた。 「お前、気を付けろよ。」 2 猫の言葉通り確かにその日一日はいつもよりいじめが酷かった。 どつくくらいで済んでいたのが、日中は筆記用具がなくなったり教科書がペンで塗りつぶされてたり。 おまけに今日は頭からバケツで水をかけられた。 おかげで帰りはびしょ濡れの制服にジャージを羽織るはめになった。 初夏とはいえ、日が落ちればまだ冷える。 震えながら薄暗い通学路を歩く。 「大丈夫?」 「大丈夫。」 いつもなら軽口を叩くところなはずのよみ子さんはその後は黙ったままだった。 3 家に帰り、足早に部屋に向かう。 幸いこの姿を母さんに見られることはなかった。 「猫が言ってた気を付けろって、今日のことだったんだね。」 濡れた髪を脱いだジャージで乱雑に拭きながら呟くと、隣のよみ子さんが口を開いた。 「いいえ。違うわ。」 「え?」 「まだこのくらいの被害なら警告しない。…彼、サディストだから。」 「私は何を聞かされてるんだ?」 思わず見たよみ子さんの表情は見たこともないくらい真剣で、眉間にしわを寄せていた。 「これも、きっかけになればいいけれど。」 「言ってる意味がわかんないんだけど……。」 よみ子さんはいつものようにクスリと笑った。 「今はわからなくていいわ。」 その笑顔はいつも通りのはずなのに、私の中に何故か違和感を残した。 次の日、ドライヤーで無理に乾かしたために若干のしわがついた制服を着て私は登校した。 廊下で眼鏡をかけた女子生徒と目が合った。 昨日目が合ったその少女は、びしょ濡れで帰る私を目撃したらしい。 すれ違う間ずっと不憫そうな表情を浮かべていた。 4 昼休み、中庭でコンビニのおにぎりをかじっていた時だった。 「あの!」 今朝目が合った女子生徒が話しかけてきた。 「……なんですか?」 この学校の中庭は奥まった場所にあり、来るのはかなり面倒くさく用務員くらいしか近付かないような場所なのに。 こんな所までわざわざご苦労なことだ。 「き、昨日、あの後大丈夫でしたか…?水、かけられて…。」 もじもじと話すその態度にイラつく。 「大丈夫です。」 唯一一人に……ではないが、学校の関係者と関わらなくて済む時間を台無しにされ、更に怒りは募る。 「私、雨野あやめっていいます。吹奏楽部で……自主練の時いつも日暮さんが何かされてるの見えて、昨日はいつもより酷かったから心配だったんです。」 「だからなに?……ぉえ!」 飲み込みかけていたおにぎりと小ぶりのナイフが口から零れ落ちた。 「大丈夫ですか!?」 背中をさする手を振り払い、言い放つ。 「放っといてよ!見ているだけで……っあんただって何もしないんだから!……ゴホゴホ!!」 何本ものナイフを吐き出した。 中には錆びたものもあった。 しかしそんなものは最早どうでもよかった。 みんなそうだ。 自分が被害を被らないために、私のことは見ないふり。 何も見ない、何もしない。 心配そうな顔でこちらを見つめるあやめを睨みつける。 「放っといて!この、臆病者!!」 あやめは涙を浮かべ、唇をかんでこちらを見ていた。 しかし、しばらくすると頭を下げ、走り去っていった。 「凶器、出なかったわね。」 「うるさい。」 「臆病者は、あんたじゃない?」 私は言い返せなかった。 5 その日の放課後、いつものようにいつものニ人に昨日と同じように水をかけられた。 「こんだけされても何も言い返さないのがまたムカつくんだよね。それとも喋れないの?ねぇ!」 そんなことを言われながら左の少女が私の頬をはたいた。 正直、ムカついた。 けれど、言われたことが半分図星で、やっぱり何も言い返せなかった。 私はそのまま何発か殴られていた。 仕方ない。 これも私が、何か悪いのだから。 「やめて!」 唐突に響いたその声の主は私を抱きしめた。 「あー、あやめじゃん。久しぶりー。」 なんて軽口でも叩くように一人があやめを蹴飛ばした。 小さなうめき声が聞こえたあたり、結構な威力だったのだろう。 二人はそのままあやめを痛め続けた。 私は何が起こっているのかわからなかった。 衝撃がある度に、あやめのうめき声が聞こえる。 「なんで……。」 「ごめんなさい……ごめんなさい……。」 ずっと、ずっと。 その言葉だけが響き続けた。 どのくらい経っただろう。 気が済んだのか二人が立ち去った瞬間、あやめが崩れ落ちるように座り込んだ。 「ごめんなさい……ごめんね……私、知ってるはず、なのに。」 「どういうこと……?」 それからあやめは話してくれた。 去年、私がいじめられる前にいじめられてたのは自分で、クラスが変わってから私にいじめが移ったこと。 ずっと見てたのに、臆病者な自分は助けにいく勇気がなくてずっと申し訳なかったこと。 「わからないかもしれない。けど、辛いって理解はできるから。なのに、ごめんね。ずっと、ごめんね……っ。」 「……ううん。私も、ごめん。」 夕暮れの放課後。 教室の隅で、二人で声をあげて泣いた。 あやめは私が泣いてる間中もずっと抱きしめてくれていた。 その温もりは何よりも優しくて、ずっと私が欲しかったものだった。 6 帰り道、よみ子さんが口を開いた。 「あやめちゃんが言っていた意味は、理解できた?」 「…完全には。」 「そう。他人を完全にわかる者などいない。けれど理解はできる。彼女はね、あんたに言われたことや経験の中の自分の感情などから、あんたを理解しようとしたの。」 どういうことなのか、泣き終わってぼーっとした頭では余計にわからない。 「あやめちゃんが言ってた『わかる』は共感のこと。そして『理解』は一度受け取って、考えるってこと。あやめちゃんはあんたを『理解りたい』と思ったの。『聞き上手なあの子』とはちがって、あんたに価値があると思ってくれたのよ。」 よみ子さんが前に言ってた。 あの子は私に誠意がないって。 あの子とあやめは確かに、「確かなモノ」がちがう気がした。 「これが、認められるってことなのよ。誠意を示してもらうのは嬉しいでしょう?」 「……うん。」 嬉しかった。 とても嬉しかった。 「よみ子さん……。」 「なぁに?」 よみ子さんはクスリと笑い、私の頭をポンポンと撫でた。 「一歩成長、おめでとう。」 そして、頬をつついた。 「なにかした?」 「花丸あげただけよ。」 戸惑う私を見ながら、よみ子さんはクスクスと笑う。 そして言った。 「私は人間ではないけど、人間の感情は理解できるわよ。」 「そうなの?」 「だって私は―。」 ゴクリ。 固唾を呑んで言葉を待った。 「あ、お腹すいたー。」 思わずずっこけた。 「もー!」 「あらやだ。牛みたいよ。」 「誰が牛よ!この……っうぇ!」 この時、私は忘れていた。 そしてわかっていなかった。 「気を付けろ」の意味が。 魔法の金のコイン 「やれやれ、面倒なことになってきた。」 黒猫は金のコインがあしらわれた首飾りをくわえて塀の上を歩く。 「やれやれ、だよなー。」 揺れるコインが鈍く光った。 にわかに蝉の鳴き声が聞こえる。 ああもう夏か、なんて。 いじめの最中、私はぼうっと相手を見つめていた。 もしかしたら熱中症だったりするんだろうか。 そんな私が気に入らなかったようで。 「なに見てんだよ!」 殴られた私は半分ふっとんだようなもので、腫れだした頬はじんじんと痛んだ。 痛いなぁ。 暑さのせいもあり、イラつきからピクリと眉が動く。 やばい。凶器が出てしまいそうだ。 慌てて固唾と凶器を飲んで事の成り行きを見守る。 「……っと……。」 「え?」 「ちょっと優秀だからって調子に乗ってんじゃねえよ!」 たった今私の顔をぶん殴ってそう叫んだ同級生の目には涙が溜まっていた。 そこで思ったのだ。 ああ、この子も自分と同じなのだと。 2 その子の異変に気付いたのは次の日だった。 「ねぇねぇ。」 声をかけてきたのは例の「聞き上手だと勘違いしてる人」だ。 「あの子、今日やばくない?あの子の親、成績に関してかなり厳しいらしいよ!だーから!いつもクラスで一番の楓のこと妬んでるんだよ。たまに頬が腫れてるのも、キレた親に殴られたからだって噂だよ!」 その子は口早にそう言うと廊下を駆けていった。 一体何がしたかったのかはわからないが、とりあえずいじめの原因は八つ当たりで理不尽だという事実はわかった。 わかったところで、どうにもしないけれど。 ただ、なんとなく虚しくなっただけだ。 「……楓、大丈夫?」 隣から声をかけてきたのはあやめだ。 心配そうにこちらを見つめている。 「……うん。大丈夫、だよ。」 声は今にも消え行ってしまいそうだった。 「大丈夫、だよ。」 私は笑って見せた。 それが強がりなのか思いやりなのか、私はわからなかった。 3 時は昨日の朝だ。 自分と話しすぎて遅刻ギリギリに家から飛び出していく楓を楽しげに見つめながらよみ子はクスリと笑う。 「なあ、よみ子。いいのか?」 「ええ。持って行ってちょうだい。……必要でしょうから。」 よみ子に渡された首飾りをくわえ、黒猫は歩いていく。 「あとで怒られたってしらねえからな!」 ぴょんと塀を飛び越え、黒猫は去っていった。 「優秀、ね。」 黒猫は一匹、ひとりごちた。 という昨日の出来事を赤裸々に語った後、猫は言った。 「っつーわけで!首飾りはヤツんとこだ!わかったな。」 夜に紛れ、黒猫はするりと窓の隙間から忍び込んできた。 声量は全く紛れられていないが、これも楓とよみ子以外には聞こえてないらしい。 「わ、わかったけど、それとこれとどういう繋がりが……?」 「お前は馬鹿か?」 「んな!?」 「お前は馬鹿かと聞いている。」 「馬鹿じゃない!」 いいか?と黒猫は言う。 「お前は馬鹿だ。」 「んなあああ!?っうぇ。」 猫は吐き出したフォークをさっと避ける。 まあとにかくだ、と猫は続ける。 「このコインには触った人間の欲望を引き出し、願いを叶える力がある。」 「願いを叶える?」 ちらりとよみ子さんを見ると、よみ子さんはにこりと笑った。 「願いって、まさか……。」 「そうよ。」 よみ子さんはクスリと笑う。 「妬んだ相手の能力と自分の能力が入れ替わる魔法のコイン。」 「なにやってんのよぅ……。」 彼女の成績はいつも私の次だった。 妬んで、妬んで、妬んで。 親から優秀であることを強いられている。 そして先日の涙。 おそらく、妬みの対象は私だ。 彼女の手にコインが渡った今、もう能力は入れ替わった。 今回の場合は学力だ。 期末テストを控えた私にとっては死活問題だった。 期待をされる。 果たしてそれがいいことなのか、悪いことなのか。 わからないまま事態は悪化していく。 しかし何も私にはわからない。 ……どうしていいか、わからない。 ただ、自分と似た境遇が少し哀れに感じた。 現在のコインの持ち主を思い、私は途方に暮れた。 「なんとかしなきゃ……。」 4 悩んでいる間に、学生全員が待ちに待っていない期末テストの日はやってきた。 後ろの席の自分からは幸か不幸か机の中の金のコインがよく見える。 コインはまだ彼女が持っている。 ということは、学力は入れ替わったまま。 彼女も十分優秀だ。 しかしこのまま通常時と学力が同じだったと考えれば私は一番がとれない可能性が高い。 どうする。 どうすればいい? よみ子さんには先ほどコインを取り返してくれと頼んだが、願いは一つまでだと断られたし。 わからないまま、残酷にもやはり時間はやってきた。 テスト開始のチャイムが鳴った。 5 学力が入れ替わったせいかテストの回答は納得がいかないものばかりだった。 今回の出来ではおそらくよくて十位以内だろう。 このままでは。 先の展開を予想し、ため息が出た。 「ねえ、落ち込むのもいいけど、学力取り返さなくていいの?彼女、帰っちゃうわよ?」 よみ子さんが指さした先には帰り支度を終えた例の彼女が今にも教室を出て行こうとしている。 「ちょ、ちょっと待って!」 いつもだったら絶対にしない行為に周りが驚く中、私は彼女の肩を掴んだ。 目立つと周りがうるさくなる。 仕方なく私は彼女を中庭に呼び出した。 断られるかもしれないという不安とは裏腹にコインを大事そうにポケットにいれて少女は大人しくついてきた。 彼女の様子は目に見えておかしかった。 いつもの感じは見る影もない。 こちらを見る目は焦点が合っておらず、浮かべた笑みは歪。 一言で言えば不気味だった。 「丁度よかった。あたしもあんたに言おうと思ってたことがあったんだ。」 少女は歪な笑みを更に歪にした。 「これで私が一番よ。」 彼女は声高らかに笑った。 そして私を見下すように顎をひいた。 「あんたは敗者!私は強者なの。」 少女は真っすぐに私を指差すが、その手もゆらゆらと不安定に揺れている。 想像していたよりあのコインは厄介なものだったらしい。 「ねえ、なんとか奪えないの!?」 傍らで呑気に浮いているよみ子さんに小声で問いかけるが、首を横に振られた。 「あのコインは、手放そうという意思がないと捨てられないの。」 「じゃあ、そう思わせる必要があるってこと……?どうすれば……。」 どうすればいい? 私に魔法なんて使えない。 人の意思なんて私には、それこそ魔法でもないかぎり変えられない。 「ん?魔法?そうだ!魔法!よみ子さんならできるでしょ!」 「だから、願いは一つまでだってば。」 「えぇ……。」 焦る私なんか意に介していないのかよみ子さんは相変わらず隣で浮いているだけだ。 手詰まり感に苛まれながら、私は更に悩むことになった。 「誰もあんたなんか見てない。見てないのよ!」 少女が私に言い放った。 「母、さん。」 体が硬直して、動かない。 ぽろりと涙が零れ落ちそうになった時だった。 「なんて顔してんのよ。あんたはもう一人じゃないでしょう。」 その言葉にハッとした。 脳裏にはあやめの心配そうな顔が浮かんだ。 「……そうだ。あったよ。私にもできること。」 深く息を吸い、口を開いた。 伝えるべきことを、伝えたいことを、彼女を理解しようという思いを伝えよう。 「あなたは私とよく似てる。だから、あなたの気持ちわかるかもしれない……けど、わかんないかもしれない。だって私はあなたじゃないから。同じじゃないものを完全にわかることはない、から。けど、今の私はあなたを理解しようとすることはできる。」 息を軽く整え、更に続ける。 「私も、母さんに優秀でいることを強いられてる。言われるままに勉強してきたけど、なんのために頑張っているのかわからないままだった。」 少女は冷めた目でこちらを見据えている。 それはまるで私を鑑定しているかのような目つきだった。 「多分、母さんに怒られないためだけに頑張ってた。でも、わかったの!それは私の幸せじゃない。頑張ることは自分が幸せになるための行動なんだって!……あなたの幸せはあなたが決めることだから、私にあなたの行為を止めることはできない。でも、考えてみて。あなたは今本当に幸せなのか。」 一息で言い切った。 伝わっただろうか。 祈るしかない。 やや上がった息を整えながら出方を待つ。 しかしやっぱり彼女は彼女だった。 「……私は……っちがう!この力があれば、私は!一番になれる!!」 少女は目をギラギラと輝かせ、こちらへ見せつけているようにも見えた。 何が彼女をそうさせるのかはわかりそうで、わからない。 けれど、一つだけ。 「もう、大丈夫だから。」 私は、どんな形でもあなたを見る。 少女の髪を撫でるとゆっくりと瞼が降りた。 「一、番……に……。」 その姿が見るに堪えず私はそっと目をそらした。 あれは、私だ。 「楓。」 「……うん。」 「帰りましょ。」 「うん。」 今にも泣きそうな私によみ子さんは語り掛ける。 「見た目で笑っているから、泣いているからといって平気なわけでは必ずしもないことを彼女たちは知らなければならない。……他人から横どったものになど価値はないのよ。」 何故か母さんの顔が頭に浮かんで胸が痛くなる。 価値のないもの。 この世界に価値のあるもの、ないもの。 それはどちらがどのくらいあるのだろうか。 この頭を巡る考えは、一体どこまで続くのか。 ……よみ子さんがいる限り、続くのかな? その問いに誰も応えることはなかった。   6  静まり返ったいつもの帰り道。 珍しく元の姿で隣を歩いているよみ子さんに問いかける。 「私、よみ子さんみたいにできたかな?」 よみ子さんはクスリと笑う。 「さあね。及第点ってとこかしら。」 「……そ、っか。」 よかった、と思った。 私はよみ子さんみたいに上手に人を諭すことはできない。 できるのは、ただ想いを伝えることだけ。 あの子が私にしたことは許せない。 それでも、私によく似た目をしたあの子を理解したいと思った。 それだけでも、前に進めたと思いたい。 「ようやく、私のお気に入りも返ってきそうね。」 そう言いながら、よみ子さんが私の頭をポンポンと撫でる。 「いい子へのご褒美はやっぱこれだからね。」 「なによぅ……。」 なんだかちょっと照れる。 よみ子さんが指先で頬をつつく。 「花丸あげなきゃね。……よく頑張りました。」 「……うん。ありがとう。」 その日珍しく私の口からは凶器が出ることはなかった。 幽霊ブレスレット うだるような暑さが和らいできた9月の終わり、の放課後。 今日も一名減ったいじめが終わり私は帰り支度をしていた。 あれからコインは無事よみ子さんの手元に返って来た。 そして彼女は私に対するいじめを辞めた。 何も言ってはなかったが、私の想いが伝わったんだと思いたい。 「止めたりとかないのかしらね。」 「つるんでただけで友達なわけじゃないんじゃない?そんなことより早く帰ろうよ。」 「それもそうね。」 クーラーが恋しいわぁ~、なんて言ってるよみ子さんを横目に鞄を手に取る。 「ん?」 さあ帰ろうかと声をかけようとしたよみ子さんの先に何かが光った。 自分の机に何かが乗ってる。 見るとそれは鈍い光沢を帯びたバングルだった。 「あ、それ私の~。」 「え!?ってことは、なんかいわくつきだったり……?」 よみ子さんならありえる。 「せいかーい♪」 よみ子さんが満面の笑みで返す。 「ちょっと!しまっといてよ!!」 前回どうなったか知ってるでしょ!と慌てて手渡そうとバングルに触れようとしたが、よみ子さんの手がそれを制止した。 「だめよ。」 「え。」 「それ、憑いてるから。」 「ついてる、ってまさか。」 「そ。」 よみ子さんはクスリと笑った。 「幽霊。」 よみ子さんはにこりと笑う。 「触ったらとり憑かれちゃうわよぉ。」 「だったら尚更しまっといてよ!」 バングルを触れないよう慎重にハンカチで包む。 そして手渡そうと思ったのだが、そこで思い出した。 「……ごめん。トイレ行ってくる。」 今はトイレなど行っている場合ではないのだが、いじめの最中ずっと我慢していたのだ。 思い出してしまった今、もう耐えられない。 迷った結果バングルは仕方なくハンカチに包んだまま机の中にそうっと隠した。 トイレへ駆けていく私をクスリと笑う声が声が聞こえたが、いつものことだと放っておいた。 それがいけなかったのだとも知らずに。 2 よみ子さんの友達だという黒猫が訪ねてきたのはその日の夜だった。 「助けてほしい。」 猫は器用に細く開いた窓の隙間から入ってくるなりそう言った。 「なにかあったの?」 「……んー。」 猫は私の問いかけには答えず、しばらく俯いて難しそうな顔をしてなにやら悩んでいた。 「言ってごらんなさいな。」 よみ子さんの言葉に猫が顔をあげた。 「……実は……。」 その顔は大層深刻そうだった。 猫の話をまとめるとこうだ。 私がトイレに行く前の一連の行動をいじめっ子が見ていて、例のバングルを持ち帰ってしまい、それから様子がおかしいと。 あの時の笑い声はその子だったのだ。 トイレに行ったことと無視してしまったことの二つを後悔した。 「……そう。触ってしまったのね。バングルは?」 「ああ。腕につけていた。今もだ。」 「え、と。前みたいにバングルにとり憑かれてるってこと?」 「いいえ。」 よみ子さんがため息をつく。 「憑いているのは幽霊よ。しかもちょっと厄介な、ね。」 「よみ子さんが言うほどの!?うぇ!」 「まだその癖直らないのか。」 猫が呆れた顔で私を見る。 吐いた出刃包丁を拾いながら、余計なお世話だ、と視線を返した。 「私のアクセサリーは人が不用意に触っていい物ではないのよ。」 「いわくつきだから?」 よみ子さんはじっと私の目を見据えた。 「物には想いがこもりやすい。その中でも特に身に着ける物にはね。だからこの世のものではないものも憑きやすいのよ。」 そして。 よみ子さんは言った。 「人に害を及ぼす想いを持つ中で一番業が深いのは人。」 その言葉は私の中でこだました。 そして何も言えなかった。 「呪い、恋愛のおまじないなんかもそう。最初は危害を加えるような想いや気持ちでなくても手段を得ることで形が変わることもある。」 ある意味今の私と同じだ。 私の声と言葉はよみ子さんの魔法という手段によって形が変わってしまっている。 私は小さく頷いた。 「何代も祟るおれら猫よりも業が深いだなんて、人間は本当に怖いよな。」 「そう、だ、ね。」 それしか言えなかった。 3 事はかなり切迫しているということでそれからすぐに猫が飼い主を連れてきた。 かなり苦労したらしい。 猫の息があがっている。 そして飼い主のほうも。 目は虚ろで足取りもおぼついていない。 今にも倒れそうだ。 「お父さんと、お母さん……返して。」 飼い主はうわ言のようにそれを繰り返していた。 よみ子さんが言うには、彼女にとり憑いているのは数十年前に亡くなった少年の霊らしい。 彼の両親は少年が幼いころに他界している。 そして思いのほか繋がりが強いのだと。 「彼女、親が亡くなっているでしょう。」 彼女には両親がいない。 そのことを伝えると、よみ子さんは深いため息をついた。 おそらく彼女の両親も同じく他界しているためだろうと。 そして私を見た。 「じゃ、やっぱりね。よろしく。」 「や、やっぱり無理があるんじゃ……。」 「あんたが適任なのよ。」 この世ならざる者にはよみ子さんの姿は見えるし声も聞こえる。 ついでに何かを説明するのは得意なはずなのに。 なのに、よみ子さんは私に幽霊を説得しろと言う。 幽霊相手に一体何を話せというのだ。 隣で浮いている中学生姿のよみ子さんをじろりと睨む。 しかし、もう、やるしかない。 私は肺いっぱいに息を吸う。 ダメ元だが、説得するしかない。 「私には両親がいる。けれど、私を見てくれてはいない。両親がいない気持ちはわからないけど、寂しい気持ちは理解できる。でもだからといってそんなことしちゃいけない。 そんな風になんの罪もない、……人、を。」 罪もない? こいつが?本当に? そこで言葉がつまった。 首を振り、ちらつく憎悪を散らす。 今はそんなことを考えている場合ではないはずだ。 必死に頭を働かせる。 「関係ない人を巻き込んじゃだめだよ。……ね?」 「嫌だ。」 「そんなこと言わないで。」 「お前、理解できるって言った。なのになんでオレからまた何かを取り上げようとするんだ……。なんで、なんで、なんで!!」 「ちょ、落ち着いて!」 雷鳴が辺りに鳴り響き始める。 「まずいわね。」 「へ!?」 よみ子さんに襟首を引っ張られ、よろける。 足元から数センチの場所の地面が焦げている。 今よろけていなかったら今頃黒焦げになっていたのは私だ。 「お、落ち着いて。」 「うるさい!お前も、お前も死んじゃえ!」 また雷鳴だ。 今度は雷光が見えた。 「なにか、気がそれるものがあればいいのだけれど……。」 よみ子さんが何か言っている。 あ、死ぬ。 そう覚悟した時。 「まったく、お前の癇癪持ちは変わんねえなぁ。」 目の前に現れたのは黒猫だった。 よみ子さんの友達の、あの猫だ。 「く、ろ?」 「そーだよ。日向。忘れたのか?」 猫はとことこと少年に近付いていく。 「く、来るな!……オレは、お前が知ってた時の、オレじゃない。今のオレは何をするか!」 「そうだな。前と違ってお前とこうして言葉で話せる。こんなに嬉しいことはないや。」 猫は少年の足に体をこすりつける 。 「く、ろ……。」 戸惑いからか少年の瞳が揺れた。 「なあ、日向。返してやってくれ。そいつも大切な飼い主なんだ。……な、頼むよ。」 黒猫が説得を試みる、が。 「……んで。」 少年が何か言っているようだが、口をパクパク動かすだけで聞こえない。 「頼むよ。」 猫が座り、頭を下げた。 それを見て少年は声を張り上げた。 「なんで!なんでくろまで奪われなきゃいけないんだよ!絶対に嫌だ!」 少年は猫をぎゅっと抱え込んで離さない。 それでも猫は表情を変えなかった。 「日向。」 「嫌だ!」 「日向。……頼む。」 恐らく相当な力で抱きしめているのだろう。 猫の声がか細くなっている。 「このままじゃ!」 「待って。」 駆け寄ろうとした私をよみ子さんが制止した。 「でも!」 「もう時間だから。」 「え?」 何を言ってるんだ。 私は一瞬顔をしかめたがすぐにその意味がわかった。 「日向。」 その声は猫のものではなかった。 「父さん、母さん……?」 「遅くなって、ごめんね。」 少年の前に中年の男女が立っている。 その体は透けている。 「彼の実の親よ。」 もう安全と確信したのかよみ子さんから緊迫感がなくなった。 「お前を置いていってしまって、本当にすまない。今度は、ちゃんと一緒に。」 父親が手を差し出した。 少年は力強くその手を握った。 4 「一緒に逝かなかったんだね?」 帰り道。 猫は隣の塀をすまし顔で歩いている。 そして呆れたようにこちらを見た。 「おれはまだにゃん生残ってるっての。……飼い主もいるしな。」 「そっか。」 幽霊が抜けた後、彼女はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていたが、私の顔を確認するなりいつも通りうざったそうな顔をして帰っていった。 「それにしても、なんで日向君はあそこまで彼女の体に固執したんだろう。」 とり憑くだけなら誰でもいいだろうに。 しかしその考えをよみ子さんが否定した。 「相性っていうのがあるのよ。彼の場合は両親がいないっていう境遇と、あと名前ね。」 「名前?」 ああそうか。 彼女の名前は。 「じゃーな!」 猫は私が何かに気付いたのを察したのか、気まずそうにそう吐き捨てていった。 「またね。」 彼女の名前は、日向 葵だ。 「ねえ、もしかして彼って……。」 いたずらっ子な笑顔で、よみ子さんはクスリと笑った。 くろは一匹塀の上を歩きながら、彼にとってはるか昔の大切な記憶を思い出していた。 「あのな、くろ!オレの名前はこのひまわり畑からとったんだって!」 猫はふふっと笑った。 5 猫と別れた後、私たちは真っすぐ帰路につき自室へ駆け込んだ。 ドンッ。 運悪く両親が隣の部屋にいたようだ。 強めの壁ドンが聞こえ、なるべく音を出さないように戸を閉めた。 途端に緊張がとけ、その場に座り込む。 同時にどっと疲れが押し寄せた。 「風邪、ひくわよ。」 中学生姿のよみ子さんが、頬を膨らませ、こちらを覗き込む。 その頬をつつきながら、私は口を開いた。 「彼の両親が迎えにくること知ってたんだね?」 「まあね。」 だったら私の説得いらなかったじゃない、と私はむくれた。 「時間稼ぎも必要だったし、あんたの言葉がなかったらもっと早くに雷落ちてたわよ。」 どう見ても怒らせただけにしか見えなかったけど。 なんだか色々納得いかない。 よみ子さんの頬から指を離す。 「ねぇ、よみ子さんって魔法が使えるんだよね?」 「使えるけど、急にどうしたの?」 不意な私の質問に、よみ子さんは首を傾げた。 「……魔法で人間を変えることって、できるのかなって。」 幽霊の言ったことが頭を巡っていた。 両親を返して、か。 人に見てもらえないのは辛い。 だからそう言った。 でもそれ以上に、見てくれる人がいないのはもっと辛いことだと思った。 よみ子さんはしばらく黙って私を見つめていて、そして目を細めた。 それは笑みではない。 「魔法で変えるって、例えばどんな風に?……あんたの母親好みの人間?」 胸がドクンと鳴った。 それも以前確かに考えたことだったから。 図星から何も言えず俯いた。 「本来人が変わるのに魔法なんて必要ないのよ。それにいくら使っても、本当の意味で本人が変わろうという意思がなければただの蛮族な行為と同じだしね。そんなの、洗脳と大差ないわ。」 ため息交じりのその返事は憂いを帯びていた。 何故かはわからないが、それがとても辛かった。 「私ね、よみ子さんの教えてくれる話……わかりやすいからかもしれないけど、すっと胸に入ってきて疑問も違和感も何もなかったの。不思議なくらいに。……でも、あやめや、さっきの幽霊を見て、なんか……不思議だと感じるのが怖くなって。」 不思議だと感じることが、不安に感じてきた自分は、魔法で変わったのだ思った。 しかし違う。 なら何故私は不安なのだろう。 よみ子さんはクスリと笑った。 「ちょっと成長したわね。」 「え?」 「今、不安なんでしょう?それは何故?」 「わかん、ない。」 「……あんた、自分で言う通りね、ちょっと前まで私の言う事全部真に受けてた。まるで私の言う事が世界の心理だとでも信じてるみたいにね。けれど、あんたが今不安なのは、あんたが自力で変わったからなの。あんたが他人を見始めたから、色々な意見や意思を間近に感じて、自分で考えるようになったからなのよ。」 成長。 成長、したんだろうか。 そう言われてもいまいち実感がない。 しかめっ面の私を見て、よみ子さんがまたクスリと笑った。 「ねぇ、楓。私が何者か気になる?」 「自称魔女、じゃないの?」 よみ子さんは笑ったまま私を見つめている。 その頬をもう一度つついた。 「……気にならない!……何者であってもよみ子さんはよみ子さんだから。」 そう思えるうちは、知らなくていい。 「そう。」 よみ子さんの目は特別優しく私を見つめたままだった。 「両親、か。」 「どうかしたの?」 「よみ子さん。私、決めた。」 私は進む。 「母さんと話しあう。」 「お母さん」 母さんと話し合う、とは言ったものの。 思い立ったが吉日、とも言うがいざとなるとなかなか行動に移せずあっという間に月末になってしまった。 今までまともな会話などしてこなかったのだ。 まず話を切り出すタイミングすらわからない。 散々考えてみたが、答えは出ない。 だったらもういつでもいいや。 と、やけくそになり変な方向にある意味前向きになった私は黙々と食器を洗っている母さんの背に話しかけた。 「母、さん。」 こうなってみると目が合わない分向かい合うより気が楽だと思った。 母さんは手を止めず皿を見つめたまま言った。 「なに。今度は満点とれたんでしょうね?」 皿を洗い続ける母さんに私は問い返した。 「母さん。優秀であるって、そんなに大事なことなのかな?」 母さんはいつも通りだった。 「当たり前でしょ。そうじゃないと誰も見てくれないのよ!!」 皿が割れた音がした。 感情に任せてどうやら叩きつけたようだ。 「母さ、ん。」 ……私を見ないのは私が母さんの考える「優秀」になれていないからなのか。 聞き慣れたセリフが初めて心に届いた気がする。 母さんはいつもこのセリフを吐く。 そしていつもこのセリフで声を荒げる。 私は理解した。 「母さんも、誰かに同じことを言われたことがあるのね。」 皿の割れる音がした。 ※ ※ ※ 母の中で、一つの記憶が蘇った。 忌まわしい、忌まわしい、自分を縛る記憶が。 小学生の時、初めての学力テストで一番をとった。 それが嬉しくて一番先にお母さんに報告した。 「お、お母さん、あのね。今日テストがあって……それで……私一番とってね!」 「100点だったの?」 返ってきた声は期待とは裏腹に冷たかった。 「え?」 「満点だったかって聞いてるのよ。」 お母さんは食器を洗いながら続ける。 「100点では、なかったんだけど……。」 学年では一番だった。 けれど点数は96点だった。 満点では、なかった。 「あのね、一番とるのなんて当たり前なの。満点とって、更に一番。常に、誰より、優秀でなければ誰も見てくれないのよ!」 誰も、見てくれない。 それは嫌だった。 「……ごめんなさい。お母さん。」 私もまた、「お母さん」の求めてる「優秀」になれなかった。 そんな記憶が頭をよぎったのだった。 2 初めての娘の反抗。 それは母さんの逆鱗に触れたらしい。 「うるさい!あんたは私の言うこと聞いてればいいのよ!」 「母さん……。」 「うるさい!黙りなさい!!」 こっちに向かって投げたらしい。 真後ろで皿が割れる音がした。 よみ子さんが腕を引かなかったら当たっていただろう。 「母さん……。」 なにが母さんをここまでさせるんだろう。 見てこなかったからかもしれないが、今まで子供に物理的な危害を加えるようなことはしなかった。 「母さん。」 「うるさい!」 また割れた。 このままだと家の皿がなくなりそうだな、とぼんやり思った。 そして、抑えていた怒りが火を噴いた。 「いい加減にしてよ。」 母さんから、ひゅっと息を飲む音が聞こえた。 「ずっと、ずっと我慢してきた。母さんは他人に優秀を求められるほどすごい人なんだと無意識に思ってた。でも今していることはなに?幼稚で小さな子供みたい。」 開いた口は閉じられなかった。 口から何本もの刃物が零れ落ちていく。 そして、その中に一丁の拳銃が混じっていることに気が付いた。 もうなにも考えていなかった。 拳銃を拾い、母さんへ向けた。 「自由にしてよ。」 引き金を引いた、はずだった。 しかし弾は出なかった。 何回も、何回も引き金を引いた。 けれど、諦めて拳銃を床へ叩きつけるまで弾は出なかった。 「錆びてたみたいね。」 投げ捨てられた拳銃から錆びた弾が一発転がり出た。 よみ子さんがそれに触れると、弾は粉々になって消えた。 「黙りなさいよ……。」 今度は割れなかった。 手元の皿がなくなったようだ。 向かい合うこともせず、私たちはそのまま立ち尽くした。 「自由にしてよ」 それが母さんに対してずっと思ってきたことだった。 趣味をする暇もないくらい勉強をしろ、優秀であれと教えられてきた。 それでも私に一つだけ趣味があった。 私は、小説家になりたかった。 まだ小学生低学年の時だ。 一度だけ母さんが褒めてくれたことがあった。 学校の行事だった。 物語を書いて、優秀だった作品を実施した複数の小学校から集めて雑誌にするという企画で優秀賞に選ばれた時だった。 その時から漠然としたものだが、夢が出来た。 それは母さんに受け入れてもらえるものではなかったけれど、今ならわかる。 あの時、私は確かに認められたのだと。 そして、母さんが求めることも。 「私は、母さんを見てるから。」 自分が見てもらいたいから言ったわけじゃない。 哀れみでもない。 あやめや、日向や、私をいじめていた子、いじめる子を見て理解ったことだ。 人に見てもらえることは、認めてもらえることはとても幸運で嬉しいことで。 きっと母さんは誰にも見てもらえなかった。 だから私が見てあげたい。 言ったことに嘘偽りはない。 結局母さんが振り向くことはなかった。 3 自室に戻り、ベッドに転がった。 心なしか少しすっきりしたような胸の中にある確かな虚しさ。 胸に手を当ててみても、それが何かはわからなかった。 ぼんやりと天井を見つめていた。 不意にそれが天井からよみ子さんに変わった。 大人の姿だ。 よみ子さんが優しく微笑んだ。 「いい子ね。本当にいい子。」 その言葉を聞いた瞬間、目から大量の涙が溢れだした。 「母さん……っ。」 母さん、かあさん、おかあさん ……。 なんで、わかってくれないの? ……寂しいよ、おかあさん。 もしかしたら。 全部私が悪いのかもしれない。 おかあさんが求める優秀になれなかった私がだめだった。 そして今もなれていない。 だから、おかあさんは私を見ない。 「相手をかばえば罪が消えるわけではないのよ。自分も、相手もね。」 よみ子さんの声が上から降ってくる。 なんでいつも私の考えていることがわかるんだろう。 ぼやけた視界の中のよみ子さんの表情はわからない。 「どうしても自分を責めるのね。自分が悪いかも悪くないかももうわかってないのに。」 よみ子さんの手がゆっくりと床に積み重なった刃物たちを撫でる。 「いえ、見えないふりをしているのね。」 図星だ。 なんだかいつも以上に気まずくなって枕に顔を埋めた。 「これじゃ親と同じね。他者を見ようとせず、己も見ようとしない。それによって引き起こした事が今のあんただともわからずに。」 悔しくて?悲しくて?虚しくて? よくわからない感情が溢れてきて、凶器の代わりに溜まった涙が流れ出た。 「時には出すことも大切なのよ。……己が消えないために。」 よみ子さんの手がゆっくりと髪をとく。 目をこすると、よみ子さんが優しく微笑んでいた。 「消えてしまった己のために成長しなさい。大丈夫。あんたは確かに進んでいるわ。」 こめかみに軽いキスが落ちた。 よみ子さんの唇が涙で濡れている。 「でも今は休みなさい。出してもいいの。休むことは悪いことじゃない。自分を出すことは悪いことじゃないのよ。」 本当に? 休んでもいいの……? 「母さん……。」 錆びたスプーンが口から零れ出た。 「残ったの出しなさい。大丈夫。ちゃんと、聞いてるから。」 その夜、何本のスプーンが出たか私は知らない。 4 「楓。」 翌朝目を覚ました早々よみ子さんの声が聞こえた。 「よみ子、さん?」 大人の姿のよみ子さんは、透けていた。 「どうしたの!?なんで透けてるの!?」 よみ子さんは笑った。 「帰るだけよ。」 「かえ、る?」 言っている意味がわからなかった。 「願いは叶ったの。今のあんたなら一人で頑張っていける。わからないけど、いつかお母さんとも丁度いい距離感を見いだせると思う。」 「か、叶ってなんかない!だって私、母さんとまだ……っいじめだって!」 「楓。分かり合うだけがゴールじゃないのよ。……大人はね、子供より長い時を人の中で過ごしてだんだん自分が凝り固まって身動きができなくなってしまう人が多いの。あんたのお母さんもその一人。」 昨日の母さんの様子を思い出し、納得した。 「人は簡単には変わらない。それは一番あんたがわかってるでしょう?」 私は頷いた。 ……私は、変わった。 けれど、変わるにはいじめや友人との出会い、それ以外にも色々な経験をしたからだ。 困難も、嬉しいこともあって。 今まで目を向けなかったことに目を向けて。 そして、世には自分以外の人も生きていて、その人たちもまた自分と同じく考えたり悩んでいたりすると知ったのだ。 「それでもあんたは変わった。……成長した。もう、私がいなくても大丈夫。」 心のどこかで、母さんとはきっと分かり合えなくて、ずっとよみ子さんはいて……そう思ってたのに。 「いかないで……。」 「楓、ありがとう。あんたと一緒にいれて、私も知らない事いっぱい知れたわ。……私も成長できた。」 これ内緒のつもりだったのよ、とよみ子は見慣れた顔でクスリと笑う。 「もう凶器も出ないし、私もいなくなる。でも、あんたなら大丈夫。」 「……大丈夫、ばっかりじゃわかんないよ。いつもみたいに……っいつもみたいに説明してよ!」 「楓……。」 どんどん透けていく体で、よみ子さんは私を抱きしめた。 「大丈夫、大丈夫。」 「よみ子さん……っ!いかないでぇ!」 幼子のように泣きじゃくる私を見て、よみ子さんは苦笑する。 「お別れの時は笑顔がいいわ。」 優しく私を見つめるその目を見つめる。 ああ、と声が漏れた。 なんで今頃なんだろう……。 「よみ子さんは、ずっと見守ってくれてたのにね。」 よみ子さんはクスリと笑う。 「面白かったわ。牛みたいで。」 「お別れの、時までそれ?」 涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔で笑って見せる。 よみ子さんは優しく微笑んだ。 「ありがとう、楓。」 その言葉を残して、よみ子さんの体は見えなくなった。 5 目を覚ますとそこは勉強机だった。 なぜ自分はこんなところで寝ていたのだろう。 手になにかあたった。 見てみるとそれは、見覚えのある本。 中身は自分が趣味で書いた小説だった。 「ん?」 見覚えのない字で最後の行に文章と花丸が書き足されている。 「よく頑張りました」
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