モモユキ

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 モモユキの一日は、冬の冷たい水を井戸から桶いっぱいに汲んで、せっせと運ぶことから始まる。かじかむ指先をこすり合わせ、口から洩れる白い息を吹きかけて、今日もなんとかやり遂げることができた。  まだ日も明けきらない、薄暗い朝だ。  それから「診察室」になる座敷をその水で拭いて、昨晩炊いた残りの飯と漬物、汁物をそろえた後、破れ放題の障子を全て開けて暖かい光を取り込む。この時間にはたいていすでに日は昇っている。    妖怪専用の町医者、「入月堂」の開店だ。  当の町医者・入月は、まだ奥の座敷で胸をはだけさせたまま、ぐっすり眠っていた。  「昼四ツ刻ですよ、入月さん」  入月は一見どころかいつ見てもだらしのない人間の男だが、「うしろめ」という妖怪だ。いつも布を巻いて隠している後頭部に、三つ目の目がある。  患者がたくさん来た時には、この三つ目を使って仕事をする。前側の目で人間と同じように手当てをして、後ろ側にはモモユキが座って、入月に言われた通り手を動かすのだ。仕事が早くてすぐ治してくれるということで、妖怪たちの間では、入月堂はかなり人気らしい。    入月はモモユキの声でようやく目が覚めたのか、まぶしそうに「前側の」目を袖で覆い、ううんと唸った。 「……患者は」 「まだ来ていませんけど」  入月はとたんに声を荒らげて、驚いたモモユキはびくっと体を震わせる。 「来ていないんなら放っておけ!」  固い枕をモモユキに投げつけると、布団を再び頭からかぶって、入月はまたイビキをかきはじめた。  モモユキは用意した朝餉を見つめながら、言われた通り放っておくことにした。というよりも、言われたことをその通りにするしか、今のモモユキにはできることがない。 「いいかい、妖怪は本来病気なんてしないんだ。病気をするのはね、お前のような人間のせいなんだよ」  ふとモモユキの頭に、いつも言われることが浮かんできた。  初めて入月堂に来たのはモモユキが物心つく前、親に捨てられてすぐの、六歳のときだ。それ以来、ずっと言われ続けていることだ。 「だから、おれに名前を取られたお前はもう終いだ。憎い人間を妖怪が手に入れたんだからな。逃げようなんて思っても意味はない。人並みの幸せがあると考えてもいけない。お前はここで一生、おれの言うことを聞いて死ね」  顔見知りの人間ならひどい物言いだとののしり、近所や患者の中に助けてくれる者がいたかもしれない。  けれど入月も患者も一人残らず皆妖怪だ。妖怪たちは人間の子どもを可哀そうだと思うことは絶対にない。それどころか、人間と分かると無視をしたり邪魔だと言ってわざと荒々しく突き飛ばしたりする。    入月堂の近所に住んでいるのは人間だが、看板も掲げず昼も家にいる入月を変わり者と見て、越してきて以来一度も話しかけてくることはなかった。  モモユキはこの五年ずっとひとりぼっちだったし、人並みの幸せというものを感じたこともなく、正直よく分からなかった。辛いとも思わないし、逃げようと考えたこともない。逃げたとしても、入月の三つ目ですぐ見つかることだろう。    ただ一つ、道を歩く親子を見て、親がモモユキを捨てなければ状況は違っていたのではと考えることもあった。あまり覚えていないが、親は百姓でとても貧しく、そのくせ子だくさんだった。今よりひもじい思いをしていただろうが、今よりも人並みの幸せとやらを感じていたかもしれない。  とはいえそれも、ほとんど親の記憶がないモモユキにとっては、あってないような妄想に過ぎなかった。  きっとおれもこのまま入月堂にいて、年老いて死ぬのだろう。  モモユキは常々、そう思っていた。 「いらっしゃい」  今日も患者がやって来る。  さて、今日一番の客は怪我をした狸だった。    狸や狐は、入月堂では最もよく見る顔ぶれだ。猟師の罠にかかったり、町に迷い込んで箒に打たれたりして怪我を負っていることが多い。ひどいと怪我を放置して病気になってしまっている者もいた。    今日は見るからに怪我をしたばかりで、尻のあたりから血を流しているのがすぐに分かった。 「おい! 早く手当をしてくれ! ふぐりまで裂けちまいそうだ!」  入月は、患者の声には敏感だ。  モモユキが入月を起こそうと振り返った時には、入月はもう戸口に立っていた。 「狸を抱えて家の中に入れろ。そこで騒がれちゃたまったもんじゃない」 「はい、入月さん」  モモユキは言われた通り、暴れる狸を抑え込んで、着物が狸の血に染まるのも構わず座敷に連れて行った。  傷は案外浅かったようで、手当はあっという間に終わってしまった。 「そいつは罠にかかったんじゃあねえなぁ。お前さん、何で怪我したんだ?」  入月が頭をひねって尋ねると、狸は恥ずかしそうに言った。 「べっぴんの猫又がいたんで、ちょっかいかけただけでい」  入月は少し考え込んでから、思い当たる節があるのかにやりと笑った。 「そりゃあいい傷だな。間違いなくいい傷だ」 「いい傷なもんか! あんたは好色すぎるね」    狸が帰ってからの入月堂は大繁盛だ。午後からはまた狸、それから家族連れの狐、それに少しやっかいでモモユキが苦手にしている「河童」と「白粉ばばあ」がやってきた。  今日の河童は、川で泳いでいたら人間の乗る船に潰されてしまったらしく、皿は無事だったものの額にたんこぶが出来てしまっていた。皿なら致命的な傷だから河童も大人しくしているが、たんこぶだけなら話は別だ。 「なんだお前、人間か?」  そう言って顔をのぞき込んでくる河童に、モモユキはきれいにできた二つのたんこぶを見つめながら、必死に平静を装う。 「お前今笑ったな? おれのたんこぶを見て笑ったな?」 「笑ってません」 「いいや、笑ったね」  本気でそう思ったのか、モモユキをいたぶる口実だったのか。河童は次の瞬間モモユキを持ち上げて背負い投げし、畳に叩きつける。 「ほうれ、違うってんならかかってこい」  入月は手当ての準備をして、モモユキを見ようともしない。  しばらく相撲を取らされたが、河童は反抗しないモモユキにすぐに飽きたらしかった。大人しく手当てを受けて帰っていき、モモユキは叩きつけられたところをさすりながら、ホッと一息ついく。  次に来たのは「白粉ばばあ」だ。    白粉ばばあは厚く白粉を塗りたくった、恐ろしい顔をした妖怪だ。その顔を自分では美しいと思っているのだが、たいていの人間は白粉ばばあを見ると悲鳴を上げながら逃げて行ってしまう。モモユキも最初は怖いと思っていたが、本当に白粉を塗りすぎているだけなので、よく見るとどうしても笑いがこみあげてくるのだった。  白粉ばばあが来たら、河童のときよりももっと笑わないようにしなくてはならない。以前耐えきれずにモモユキが笑ってしまったとき、人間だとばれたのもあってか、いつも携えている杖でアザができるまでぴしぴしと叩かれ続けたことがあるからだ。しかも「ぶさいくなガキだね」と延々と続く文句付きだ。 「なあ入月や、人間どもはなんだってあたしの顔を見て逃げるんだろうねえ」 「あんまり美しくて、とても見ていられないからですよ、きっと」 「あたしよりも猫又をかわいがるんじゃが、どうなっているんだろうねえ」 「猫はどこにでもいますからね。あなたのようなとびきりの美人はそう見られるものじゃないから、どうしていいのか分からないんですよ、きっと」  白粉ばばあは、あまりにも人間に恐れられることが続いたため、少し心を病んでしまっていた。入月堂に来るのは、その心を入月のおべっかで癒してもらうことが目的だ。  そんな目的だから、白粉ばばあは長く居座る。客が来ないのをいいことに、結局閉店の時間まで居座っていた。入月がいい加減帰るようにと促してようやく帰った時には、すでに日が傾き始めている。  戸口で白粉ばばあの姿が消えるのを見届けると、入月はすっかり仕事を終えて、お楽しみ気分になっていた。 「じゃ、今日はおれ飲んでくるから」 「えっ、夕餉は」 「店で済ますに決まってるだろう」 「あっ……はい。分かりました」  入月は鼻歌混じりで調子良さそうに、町に繰り出していった。  モモユキはぺったんこの腹をさすって、何か食べるものが残っていただろうかと考えを巡らせた。      * 「昼四ツ刻ですよ、入月さん」  今日もまた、同じような一日が始まる。  入月は昨日よく飲んだせいか、声をかけてもぴくりとも動かなかった。いびきをかいて、いつものように胸をはだけさせてぐっすり眠り込んでいる。 「こんにちは」  開店してすぐに客が呼ぶ声が響いた。  今日も同じような顔ぶれだろう、寝ている入月を無理やり起こすのは嫌だな……そう思って戸を開けると、そこにいたのはこの五年で一度も見たことがない妖怪だった。  それは人間の女の姿をしていた。旅中のような装いだ。すんすんと鼻を鳴らし、においを嗅ぐしぐさをしている。  すると瞬きをしている間に、飛び上がる様に着物から抜け出し、藁傘を落とした。ぽとりと音がして、小さなものが床に落ちる。    近づいて見てみると、それは猫の姿をしていた。  しっぽが二股に分かれた猫――「猫又」だ。 「いらっしゃい」 「あんた、人間かい」  猫に戻ってもまだにおいが気になるのか、鼻をひくひくと動かしている。 「はい」 「あいつに名前を取られたのか。かわいそうに」  そんなことを言われたのは初めてだったので、モモユキは目をぱちくりとさせる。  おれがかわいそう?人間にも言われたことがないのに。  猫又はモモユキの脇をするっとすり抜けて、制止の声も聞かず、普通の猫のように座敷のあちこちを嗅ぎまわり始めた。見た目だけなら、本当に初めての場所に来た猫と変わらない姿だ。  その間も入月は起きることなく、ぐうぐうとイビキを立てている。患者が来たら起こせと言われているが、これまでの経験上、イビキを立てている時に起きることはない。 「昨日こいつと飲んでいたのはあたしでね」  突然猫又が話し始めた。 「え、患者さんではないんですか」 「猫は人間によくお世話してもらえるからね。妖怪の医者に来る前に、人間の動物を診る医者の所に連れて行ってくれるのさ。だから入月からあんたの話を聞いた時、不条理だと思ってね」  猫又はどうやら何かを探しているようで、物音も立てずに引き出しを開けたり閉めたり、投げ捨てられた着物をめくったりしている。 「あんた分別もつかない小さい頃に、入月と契りを交わしたんだって?一度交わした契りをひっくり返せる妖怪はいないけど、うまくやれば対等くらいには持ち込める。でもあんたは契りを交わした時、自分でものを考えられないくらい幼かったって言うじゃないか。そんな不条理は、人間に恩のあるあたしにゃ無視できなかったのよ」  モモユキは話の筋を飲み込めないまま、猫又の二本のしっぽが別々に動くのをぼうっと見ているしかできなかった。  ついに、猫又は目的のものを見つけたようだ。  入月がいつも持ち歩いている平包の中から、一枚の紙を取りだしたのだ。   「入月はマメだからね。普通は紙になんて書かないもんさ。口頭で契りを交わして、名前を奪って、終いにゃ忘れてしまう。そうなれば契りを解くことはできなくなる」  猫又はその紙の端をくわえて、とことこモモユキのところまで運んできた。取ってと言わんばかりに口を突き出したので、受け取ってやる。 「もしかしたら、入月は契りを解くつもりだったのかもね。意図は分からないけど。さあ、見て、思い出すんだよ」  猫又が見つけた紙にはたった二文字の漢字が書かれていた。 『百幸』  その瞬間、頭の隅に隠されていた、忘れられるわけがないのに忘れてしまった輝かしいものたちが勢いよく噴き出てきた。誰かの声や顔、思い出深い出来事……それらがごちゃまぜになって、からっぽだった頭を覆い尽くしていく。  その勢いはあまりに強く、モモユキはよろけて座り込んでしまう。 『百の幸せが、お前を助けてくれますように。そんな願いを込めて付けた名前だよ』  もう二度と触れることはないであろう、温かい声と肌。優しく柔らかい髪を撫ぜる手。働きづくしで疲れ切った目と肌。  母ちゃんだ。あれは母ちゃんだ。おれにもちゃんと母ちゃんがいたのか。  百幸は親に捨てらたわけではなかった。飢饉で生活が苦しく、ろくに食べずに働く母と父、それにお腹が空いたと泣く弟や妹たちを見て、四男だった百幸は自ら家を出て行くことにしたのだ。  身寄りもないただの百姓の息子が、ぽっと町に 出て奉公先を見つけられるわけもない。百幸はしばらく路頭に迷っていた。誰にも出会わなければ、そのまま死んでいたかもしれない。    それを拾ったのが入月だったのだ。   『あたしたちは自分の手でお前を幸せにはできないからね。知ってたかい?百ってのは、百以上のいっぱい、って意味もあるんだよ』    ――おれにも幸せがあっていいのか。もっといっぱい、幸せを感じてもいいのか。  入月にどんなに手ひどく扱われても、妖怪の患者にアザができるほどどつかれても、人間の遊び人に少ない金を奪われた時も出なかった熱いものが、百幸のほほを伝って行った。 「何かいいこと思い出したかい」 「……はい」         *   気づくと猫又はおらず、名前が書かれた紙もなくなっていた。  入月のいびきが聞こえてくる。これまでなんとも思わなかったいびきが、急に腹立たしいものに思えてきた。  それでも、どんどん強さを増していく日の光の暖かさと、近くの通りから聞こえてくる人間たちの喧騒に、百幸は微笑みを止めることが出来なかった。  この世の全てが美しく見え、百の、いやそれ以上の幸せに包まれているような気分だったからだ。  入月が起きたのは、日がてっぺんを通り過ぎてからだった。 「患者は来なかったか」 「はい、入月さん」 「なんだお前、朝から気持ち悪いにやけ面さらしやがって」 「おれは前からこんな顔です。忘れちゃったんですか? あ、ほら、来ましたよ。今日一番の患者は――」  入月は、百幸の名前が戻ったことをまだ知らない。    それはまた別のお話だ。        
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