常しえの国

2/37
459人が本棚に入れています
本棚に追加
/38ページ
 今から半年前、まだ土の国が雪に閉ざされていた頃。ホリーはまだ何も知らず、悩みといえば「今日の夕飯は何にしようかしら?」というそれはそれは平和なものだった。 「お父様、今日はとても冷えそうですから、湯たんぽをお持ち致しました」 「ありがとう、ホリー。雪かきをしていたのかな? 私の足が言うことを聞けば、手伝えたのだが……」  立ち上がろうとする義父ロルフを、ホリーは慌てて押しとどめた。今年の冬に入ってから、ロルフの足は弱り始めて、長時間歩き回る事は出来なくなってしまっていた。 「大丈夫です、お父様。私は雪かき、得意なんですよ? クラウスさんにだって負けないんですから。ご存知でしょう?」 「ああ、そうだったな。何時ものお茶を貰えるかい? 喉の調子が良くないのだ」 「はい。直ぐに用意しますね」  ロルフのベッドに湯たんぽを入れてから、ホリーは直ぐにマーシュマロウのお茶を淹れた。  ロルフの主治医であるジルから頂いたもので、風邪を引きやすくなったロルフの為に良く効くハーブティーを用意してくれたのだ。 (早く孫の顔を見せて安心して貰いたいのに……)  婚約式から一年後、十六の春にホリーはクラウスと結婚式を挙げて、名実共に夫婦となった。  仲睦まじく、直ぐにでも孫が産まれるだろうとロルフは毎日楽しみにしていてくれたのだが、クラウスが忙し過ぎて床を共にしたのはこの三年で数回だけ。 (私……また、一人でグルグルしちゃってるわ……)  結婚して三年も経つのに、心はまだ、結婚したての頃のまま。 「クゥン……」 「あ、アーニャ。大丈夫よ。本当に大丈夫だから、ね? 今日はクラウスさんに噛み付いたりしちゃダメよ?」 「グルルルル……」 「もう、ダメだってば……」  最近、ホリーが正直にため息をついて悩んでいた所、それを見守っていたアーニャは、 『クラウスが早く帰って来ないからだわ』 『仕事がそんなに大事?』 『ホリーを泣かせたら許さないんだから!』  の、三足飛びでクラウスに怒りを溜め込んだアーニャは、素直に怒りを爆発させてクラウスに飛びかかり、守ろうとする妹狼のルナと本気の喧嘩になり、二匹で食器棚をぶち壊してしまった。  ホリーの雷で二匹はションボリ反省したものの、片付けを手伝える訳も無く……。  結局、まだ無事だった棚板を使ってホリーが手直しした再生棚を使っている。ちょっと大きすぎるな、と思っていたから丁度いい。  テキパキと雪かきの道具を片付けたホリーは、お昼の支度にかかる。今日は夜勤の明けたクラウスが緊急案件が無ければ帰ってきて久しぶりに一緒に食事が出来る。  あんまり期待してダメになった時にガッカリしないようになどと考えるが、やはり何時もより心が浮き立って、あれもこれもとクラウスの好物ばかり作ってしまう。  デザートには強面の夫が似合わず大好きなカスタードプディングだ。 (きっとクラウスさん喜んでくれるわ……。早く帰って来ないかしら……)  などと思いながらお昼用のジャガイモとソーセージを炒めていると、 「あら、美味しそうね」 「ら、ラアナ?」  急に背後に親友が立っているものだから驚いてホリーはフライパンからソーセージを逃してしまう所だった。 「フフ、ただいま! ホリー」 「おかえり、ラアナ! もう、先に知らせてくれればポトフを作っておくのに!」 「まあ、嬉しい。でも、そういうのは巡り合わせよ。偶然帰って来た時に、偶然ポトフが作ってある。そういうのが好きなのよ、私」 「もう、ひねくれんぼ」 「まあ。文句を言う様な悪い子にはお土産あげないわよ?」 「え、お土産?」  綺麗に微笑むラアナが見せてくれたのは、甘い香りのする不思議な黄色いもの。甘い香りは鮮烈で、アーニャがしきりにフンフン鼻を鳴らした。 「弟がね、実験に付き合えって言うから」 「じっけん?」 「そう。確か、時空空間同時瞬間移動の術式を思いついたから試験的に実践してみたいとかなんとか言ってたわね」  ホリーの頭の上に疑問が幾つも浮かんだが、ラアナがよく分からない用語を使うのは魔法が絡む時。おそらく、火の国に居るラアナの下から二番目の弟さんが連絡してきたのだろう。  十人もいるラアナの弟妹の中でもラアナが一番お気に入りなのは、一番下のアルド。でも、彼は魔法の才能はからっきし。その代わり剣術の才能はズバ抜けていて、今や『神速』のアルドと呼ばれているそうだ。  ラアナと同じく魔法の才能があり、更に魔法の研究家として各国を旅しているという、確かリアーフと言う弟さんが、いつも思い付いた魔法の実験をラアナに頼んだりしているのだ。  たまに見せて貰うのだが、ラアナがホリーに手紙を送る時に使った、紙を媒介に互いの今の状況を見せ合う事が出来る魔法も、リアーフが原案を作ってラアナが仕上げたらしい。  ホリーには「魔法ってすごいなぁ」と言う感想しか無かったのだが、クラウスと彼の親友フォルクは騒然となって、この魔法は絶対に周囲に知られないようにしろときつく念押しされた。  何故なら、距離に関係無く簡単に連絡を取り合える手段を持つ事自体が大事なのだとか……。  平和な日常を生きるホリーには、離れた友人とやり取り出来て便利だと思うだけだったが、迅速かつ妨害出来ない通信手段は争いの中で敵より絶対的優位に立てる手段であるとの考えには至らない。  もちろん、リアーフとラアナも面白い魔法を開発しただけだ。それを使う者次第で町を、国ごと飲み込む程の攻撃魔法よりも恐ろしい術だとは思いもしないが、紅蓮の魔導師に楯突いてまで術を使おうとする命知らずは存在しないであろうから、リアーフが相談した相手は間違いが無かった。  フォルクはよく、「アイツが自分の事しか考えないヤツでいる事が、世界の平和だよ」などとぼやくのは、ホリーにも頷けた。  あまりにも日常的過ぎて感覚が麻痺してしまうが、ラアナが詠唱を必要とせず瞬時に魔法を発動させたり、ひょいひょいと棚から物を動かす程度の労力で馬車でも一日かかる距離の首都から迷宮の町まで移動してきたりするのは「普通ではない」のだ。  本気になれば、ラアナは世界に五人しかいない魔導師全てを屈服させるか従えて、力尽くで世界の覇者となる事も可能。どれだけ、ホリーの隣で美しい花の精霊のように無害に微笑んでいても、だ。  そんな物騒な姉弟だが、リアーフはラアナ曰く、「頭は良いのだけど、賢くないの。そこがあの子の良い所なのだけど」と言う、全然分からない評価をされている弟さんだ。 (頭が良いというのは、賢いと言う事では無いのかしら……?)  ラアナに質問してもよく分からないので、いつも迷宮入りだ。 「とにかくね、この国には絶対に存在しないものを送って、確かに瞬間移動が可能か証明するって事だったから、私が選んだものなの」 「ふうん? それ、なぁに?」 「フフ、知りたい?」  見たこともない鮮やかな黄色いものは、明らかに美味しそうな甘い香りを漂わせている。ホリーは好奇心のままに、目を輝かせてコクコク頷いた。 「これはね、バナナよ」 「ばなな……?」 「そ。火の国って広いでしょう? 南の方に行くと、もう別世界なの。食文化も全然違うのよね。で、南の方には甘くて瑞々しくて美味しい果物が多いのよ。バナナはきっと、ホリーの好きな味よ」  火の国は土の国と国境を接する隣国だ。雪深い山脈に囲まれ、長い冬を過ごす極寒の地である土の国に比べ、火の国は転じて砂漠の多い灼熱の国。  広大な国土に数多の民族が共存していて、小さな諍いが絶えず何処かで起こっている国だ。  土の国は公主が治めているが、火の国は軍師が治めている。軍師一人が治めている状態ならば心配は無いのだが、現在火の国の軍師は死の淵にあり、候補二人が国を争う状態となっていて非常に危うい均衡の上に立っているのだとか。  ホリーには難しい外交は分からないが土の国の民は第一候補のイーシンを推している。彼は外交に力も金も惜しまず、隣国と良い関係を築こうとしているのに対し、第二候補のアルシンは国粋主義者。  栄えある火の国の民は、己の国を誇りに思い、指導者に心酔し、他国は平伏すものとの考えを広めて一部に強力な支持者を得ている。  ホリーに言わせれば、お隣とは仲良くする方が良い。何故なら、互いに分け合い、助け合う事が出来るからだ。  人は、決して一人で生きる事は出来ない。ただそれだけの事が、国という大きなものにも共通する。  そんな難しい国同士のあれこれはさて置き、目の前のバナナだ。ホリーは更に目を輝かせた。 「果物なの?」 「そうよ」  ホリーは思い切り芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込んだ。この寒い雪国であっても、迷宮の町は問題無く作物を育てられる。不思議と温暖な気候を保つ浅い階層で、土の国全ての国庫分収穫が可能なのだ。  幾らか温暖な気候で育つ植物も栽培可能だが、やはり限度がある。  特に、ラアナが時々話してくれる南国の果物はどれも美味しそうで、見た事も聞いた事も無い美しい彩り、溢れんばかりの果汁、酸っぱかったり、甘かったり、はたまた複雑な発酵食品のように重厚な味わいであったりと、本当に美味しそうなのだ。 「皮を剥いた方が良いのかしら? 私、やりましょうか?」  ホリーが張り切って果物ナイフを持つと、 「大丈夫。簡単なのよ、ほら」 「わあ!」  パキッと細長い身を一つもいで、ラアナが茎の様な所からスルスル簡単に皮を剥いてくれた。  鮮やかな黄色い皮からは想像出来ない、真っ白な綺麗な実だ。 「きれい……」 「はい、召し上がれ」  剥いてくれた実を受け取ろうとしたら、ヒョイとかわされてしまう。 「ラアナ?」 「んもう。ホリーはそのままで良いの。さあ召し上がれ?」 「で、でも、これは、ちょっと……」  ラアナの手から直接食べさせて貰うのは恥ずかしい。その上、 「ラアナとこういう事すると、クラウスさんがヤキモチ妬いちゃうから……」 「まあ、なんて心の狭い男かしら。そんな度量では到底狼王足り得ないわね。コソコソ覗き見するなんて紳士としてもあり得ないわ?」 「え?」  振り返ると、気まずそうにクラウスが顔を出していた。 「クラウスさん、いつ帰ってたの?」 「すこし前だ……」  一緒に居たルナまで、何故だか気まずそうにモジモジしている。  そして、ホリーを見上げて最高に可愛い「ごめんね」顔をしているものだから堪らない。 「はうう! な、なんて可愛いの、ルナ! 良いのよ、怒ってないわ! クラウスさんのせいなのよね? 大丈夫、叱っておくわ! えい!」 「痛い……」  ポカリと気軽にクラウスの頭を叩ける者など、この世にホリーを除いて義父しか存在しない。 「ねえ、クラウス? 私が食べさせても良いかしら」 「良いですよ。後で、俺はホリーに食べさせて貰いますから」 「あら素敵。私が先よ!」 「仕方ありませんね。レディーファーストです」 「ちょっと! どうして私のことを二人が勝手に決めちゃうのよ!」  何故か順番にバナナを食べさせる事が決定されてしまった。 「あら、本気で争っても良いけど」 「紅蓮の魔導師と白銀の狼王が本気でやり合うところを見たいかい、ホリー。ここはお前さんが争いの均衡を取るべきだぜ」  もさもさ大量の荷物がフォルクの声で割り込んできた。荷物の上に音も無く降り立ったのは、賢き森の賢者。 「ホー!」 「まあ、ナハトさん。こんにちは!」 「重い! 上に乗るな、ナハト!」 「ホッホー……」  ナハトはからかうように鳴くと、荷物の上でぴょんと跳ねて重さを増した。 「ぐおお……」 「まあ、情けない。大事に下ろしてね。貴重な魔法具も入ってるから」 「だったら自分で持て!」 「まあ。か弱い女性になんて酷い。ねぇ、ナハト? フォルクがいじめるの……」 「ホッホー‼︎」  鋭いナハトの蹴りを皮切りにいつもの喧嘩が始まってしまったので、ホリーは割れやすいお皿などをさっさと避けた。  大騒ぎの中で始まったバナナの試食は、大好評。ホリーは初めての食感と口いっぱいに広がる甘さに蕩けてしまいそうだ。 「おいひい……」 「うふふ、可愛い。もう一口、いかが?」 「うん、もっと!」 「はいはい」  甘くて柔らかくて、ふわふわとろりと直ぐに口の中から無くなってしまう。鼻腔いっぱいに広がる優しい甘さに夢心地になる、これはきっと至高の果物だ。 「さあ、次は私の番」 「はい、ラアナ。あーん……」 「……んふふ、美味しい」  モグモグ二人でバナナを一本食べ、最後の一口をモグモグしている間に待ちきれずクラウスが割り込んできた。 「もう十分でしょう。ここからは俺が代わります」 「もう、ホントに心が狭いんだから。仕方ないわね……」  渋々とラアナが引き下がると、クラウスがバナナを剥いて差し出してきた。 「さあ、ホリー」 「え、ええ……」  何だかラアナの時より緊張してしまう。パクリと一口食べるが、味がよく分からない。 「どうした? 顔が真っ赤だぞ。熱でもあるのか」  大きな手がホリーの額に当てられて、真剣そのものの深い青い瞳に覗き込まれるともっと顔が熱くなってしまう。 「な、なんでもないの! じゃ、じゃあ、クラウスさんの番ね」  慌ててバナナをクラウスから奪い取り、さっと差し出す。クラウスはバナナを持つホリーの手を上から包み込んでバナナを頬張る。包み込まれた手が温かくて、未だに心臓に悪くて仕方ない。 「……うん、変わった食感だな……」 「美味しい?」 「ああ、美味い」  間近で笑うと何時もの凛々しさが急に柔らかくなって……。 「本当に大丈夫か、ホリー。ますます顔が真っ赤だ」 「だ、だだだだいじょうぶれっしゅ!」 「ふうん? あまり無理するなよ」  優しく頭を撫でてくれる手が、出会った頃と変わらない。思わず、クラウスの手を取って頬ずりしてしまう。 「どうした?」 「もっと頭を撫でて」 「なんだ、珍しいな……」  たまには、ラアナのように自由に甘えても良いだろう。 (それにしても……)  もう三年も夫婦として暮らしているのに……クラウスは益々格好良く、凛々しく、頼もしく、優しくて温かくて、出会った頃より更に気持ちは深まるばかり。 (もっと一緒にいたいわ……側にいて欲しい……)  そのわがままを、どうしてもホリーは言葉に出来なかった。  クラウスは狼使いだ。この国に数多いる動物の使い手の中でも特別な人。狼と心を通わせ、理解出来るのは、今やクラウスとロルフの二人だけ。  狼使いはこの国にとって、信仰の対象のように尊敬される存在。ホリーがわがままで独占して良い人では無いのだ。  でも、今は少しだけ……ほんの少しでもクラウスはホリーだけの特別な人だ。 「ホリー、いつも済まないな。明日は休みが取れたから、久しぶりにゆっくり過ごそう」 「本当? ……あ、あの、でも、急に仕事になっても私、ちゃんとお留守番しますね! 謝らなくて良いですから……」  寂しい気持ちをグッと抑えて言ったのに、クラウスの方が泣きそうな顔をした。ホリーがクラウスの頰を包み込むより早く、全力で抱きしめられていた。 「そんな事は言わなくて良い。寂しい時は、そう言って欲しい。何処にいても、必ずホリーの元に戻るから」 「クラウスさん……」  こんな風に甘えてばかりではいけない。そう思うのに、ホリーもクラウスに力一杯抱きついていた。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!