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俺がまだ小さかった、ガキの頃の話。今だから言えるけど、うちは貧乏な家庭だった。ジュースなんて一度も飲んだ事なかったし、ゲームなんか言うまでもない。だからこそ、友達の家で飲んだグレープジュースの味が忘れられなくて、よく母を困らせた。そんな母は女手一つで、俺と弟を一生懸命育ててくれた。母の姿は、幼い俺でも忙しないように感じた。それだと言うのに授業参観には毎回顔を見せていたし、俺と弟に愛情を注いでくれていた。よく働く母だったな、と我が母ながらに尊敬する。そんな母と俺と泣き虫な弟。毎晩、夜になると母を真ん中にして三人で横に並び、書いてそのまま川の字に寝たものだ。決して裕福な家庭では無かったし、父の顔は見たこともなかった。けれど、俺は幸せだった。
月の初めに、母からお小遣いが貰える。それは百円玉が一枚という、年齢の割に少ない額ではあった。しかし俺も、心のどこかでは理解していた。うちは貧乏で、お金に困っているんだと。それでも母が俺に硬貨を握らせてくれる意味と優しさを、自分なりに考えて、いつものように弟と一緒に駄菓子屋へ歩き出した。
川沿いの道をしばらく歩いていくと、そこには古ぼけた駄菓子屋がぽつんと立っている。おそらく「ダガシヤ」と書かれている看板は雨に濡れて文字が読めない。屋根はいつ崩れてもおかしくない程に古ぼけていた。足元に小さな蜘蛛が動いているのが見えて、それを見た弟が目に涙を溜めて俺の左腕を掴んだ。俺はそれを気にもとめずに、駄菓子屋の扉を引いて、足を踏み入れた。そこに人の気配は無く、ただ閉め切った窓から指す光が埃を可視化させていただけだった。様々なお菓子で四面が埋め尽くされたこの場所は、俺にとって宝の山のような場所だった。見渡す限りお菓子が並んでいる絶景は、弟の目にも同じように映ったらしく、さっきまで俺の腕を掴んでいたはずが、気付けば店内のお菓子を物色し始めていた。そんな弟に五十円までだぞ、と釘を刺してから俺も視線を上から下へと泳がせた。
「ばあちゃーーん!」
物色を終えて、いくつかのお菓子を腕に抱えた弟が駄菓子屋の奥にいるであろう店主を呼んだ。すると、はいはいと声がしてからしばらくして店主の婆ちゃんが姿を見せた。店の無防備さに、商品を盗まれても気付かなそうだ、という感想を抱いたが、そんなことを実行しようとは考えられなかった。
「これ、お願い」
「はあい、全部で百、十円です」
店主の婆ちゃんはゆっくりとした口調でそう言った。どこかで計算を間違えたのか、十円の予算オーバーだった。弟がおずおずとした表情で俺の顔を見つめてきた。無いことは分かっていたが、ポケットの中に手を突っ込んで、足りない十円を探すような素振りを見せた。が、やはり十円玉は無い。そして俺は弟の視線に負けて、自分の分に買うつもりだった飴を指さして、こう言った。
「婆ちゃん、その飴、戻しといて」
はいよ、と婆ちゃん。これで丁度百円。舌の上で溶ける甘い葡萄の味が恋しくなったが、お兄ちゃんやろしっかりせえや、という母の言葉を思い出した。
そうして新聞紙で出来た紙袋を抱えた弟を後ろに連れて、また川沿いの道を通って家へと帰った。オレンジ色の太陽が、とても大きく見えた。川を流れる水が太陽を反射して、キラキラと輝きを放っていた。そんな何の変哲もない、夏の日のこと。その日の思い出は、なぜだか俺の頭に、未だ残っていた。
そして現在。俺の人生は順調に行っていた。はずだった。
いち早く母の助けになりたくて、中学を上がったらすぐに働きたいと俺は言った。だが母はそんな俺を押し切って、高校に通わせてくれた。ならばせめて、と思って、勉強では常にトップの成績を取っていた。それを母も喜んでくれていたのが何より嬉しかった。教師からは、良い大学に行けるぞと言われ続けた。だが、俺にそんな気はさらさらなかった。
そして無事に就職先が見つかり、来るは卒業の日。仲間達に別れを告げ、母の隣を歩いた帰り道のことだった。
「ほんまに卒業おめでとう。自慢の息子やわ」
そう言って母は、初めて俺の前で涙を流した。それに吊られて、俺の頬にも一筋の涙が流れた。道の真ん中で泣き出す不審な俺らを指差して、何か言っている子供の声が聞こえた。こんな所で泣くつもりは無かったけれど、強かった母のそんな言葉に、心が大きく動かされた。
三月。俺は母と弟に見送られて、東京行きの新幹線へと乗り込んだ。
「いつでも帰ってきてええんやで」
「ありがとう母ちゃん、また電話するから」
そして次に、無口な弟がこう呟いた。
「まあ、頑張りや」
「おう、お前も高校生頑張って」
「ん」
最後までぶっきらぼうな弟と、いつにも増して過保護な母を後に、俺を乗せた新幹線は動き出した。母が買ってくれた紺色のスーツに身を包んでいると、正体不明の自信が胸の奥から湧いてきた。慣れない生活に新しい環境。どれもが俺の不安を煽った。だがこのスーツを着ていると、そんな不安はやってやるぞという気持ちに変わった。きっとこのスーツは、スーパーマンが着るようなスーツで、着ると勇気が溢れてくるものなんだろう、と思った。
そしてそれは忘れもしない。東京の空気にも慣れてきた、九月のことだった。弟から、こんな電話が届いた。
母が、死んだと。交通事故だった。飛ぶように実家に帰ったが、そこには、母の姿は無かった。運転手だったという男の胸ぐらを掴み、怒鳴り、突き飛ばした。けれども母は帰ってこなかった。男の今にも泣きそうな表情が、さらに俺の怒気を膨大させた。一発殴ってやろう、と拳を固めたその時、弟が俺の腕を強く引いた。
「そんなんしても、母ちゃんは喜ばん」
俺は膝から崩れ落ちた。世界が、人生が終わった気がした。深い絶望の奥底に叩き落とされたこの悲しみを、どうしてくれよう。俺の前に広がる母の死という現実に、蓋をして、目をそらせたならどれだけ良かったろう。俺はただ信じられない現実に当てられ、自分を悲観することしか出来ずにいた。もし母ちゃんがここにいたなら、男なんやから泣くなと叱ってくれるだろうか。その後に、世界一美味しいハンバーグを作ってくれて、優しい言葉で宥めてくれるだろうか。
俺はふと、弟の方を見た。そこには昔の、泣き虫な弟の姿があった。それを見た瞬間、ハッと息を飲んだ。そうだ。俺はお兄ちゃんで、こいつは弟なんだ。たった一人の母を失った悲しみを共感し合える、唯一の家族。それを俺が支えなきゃ、誰が支えるんだ?そう自分自身に問いかけると、勇気が湧いた。天国で待っている母と、顔も知らない親父に向けて、見ててくれと心の中で呟いた。
その日からもう何十年経ったか。すっかり中年になった俺は、最低な生活を送っていた。寝床は公園のベンチだし、今日を食いつなぐのに精一杯だ。
あの日、弟を支えると心に誓った日。俺の心は、葬儀を終える頃には死んでいた。母が居ない世界は、腐って見えた。何も心に響かないし、全てがどうでも良くなっていた俺は、たちまち堕落していった。端的に言えば、パチンコにハマって多額の借金をした。自分が持つ有り金を全てパチンコに溶かした先に待っていた未来は、ホームレス生活だった。かつての友人や弟にさえ愛想をつかされて、誰か頼ることすら許されなかった。
そりゃそうだ。かつて決めた、唯一の弟を支えるという誓い。それを簡単に破ったのは、俺自身なのだから。心の穴を埋めるように、俺は私利私欲の為だけに生きた。酒を飲んで、寝て、酒を飲むの繰り返しだった。今でも、弟がどうしているのか、生きているのかすら分からない。俺って、本当にクズだ。
今日もいつも通り、近場の自販機の下を覗いて回る。いつもは十円でも落ちていればいい方で、あまり期待はしていなかった。だが、今日は違った。銀色に光る、百円玉が一枚落ちていた。こんな日々の中でも、嬉しいこともあるもんだ、と思いながらそれを拾い上げた。その百円玉はお世辞にも綺麗なものとは言えず、輝しく光るはずの銀色は、汚れて霞んでいた。けれど、百円は百円。いつもは信じない神に、この時ばかりは感謝を告げて崇めたかった。
百円玉を握りしめて向かうのは業務スーパー。ありったけの菓子を買い込んで、店を出た。空を見上げると、気付けば夕暮れ時になっていた。沈みながらも俺の顔を照らしている夕焼けに、心のどこかで懐かしさを感じた。ぱっと後ろを振り向いてみたが、弟は居なかった。家で待つ母も、キラキラとした世界も無かった。さっきまで手に握っていた百円玉に、どうしても百円以上の価値があったような気がした。
俺は、声を上げて泣いた。
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