Good Night

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     幾つもの夜を、そんな風に凌いでいるうちに、妹が生まれた。  妹の父親のことも、俺は知らない。  妹も当然、知らない。  母親さえ、そうなのかもしれなかった。  俺とは違い、妹は病弱だった。  ほんの些細な切欠で、妹の呼吸は止まってしまいそうになるのだ。  いつも咳き込んでいて、常に微熱状態にあった。  時々高い熱を出し、その度に俺は、妹を背負って医者の元に走った。  幸いにも、俺たち兄妹にも親切にしてくれる医者が近所に住んでいた。  その小さな診療所には、俺たちのように貧しい人たちがひっきりなしに訪れていた。  世の中はこんなにも、貧しくて無力で、病んでいる人で溢れている。  なのに、偉い先生たちは、全然俺たちを助けてなんかくれない。  見て見ぬフリなのか、見えていないのか。  どっちにせよ、死んでもいい存在であることに変わりはないようだった。  妹に治療を施してくれる医者に、俺は尋ねたことがある。  俺にとって、彼だけが頼れる大人だったから。  「神様っているのかな?」  「・・・・・・どうだろうね」  と、彼は首を傾げた。  「先生は、いると思う?」  「今は、まだいないんじゃないかな」  「じゃあ、そのうち現れるの?」  「そうかもね」  「今は、何処に居るの?」  「眠っているのかもしれないね」  「神様って、誰なの?」  「さあ・・・・・・少なくとも、あの人たちじゃないことだけは確かかな」  「あの人たちって、誰?」  「何千年も前から、地上に降りて来た神様の子孫だって自称してる人たちとかかな」  「皇王様?」  「それと血の繋がっている人たちも含めてかな」  つまり、皇族のことだ。  平然と、そんなことを言ってのける人間は、この国にはいない筈だった。  この国に生まれたものは皆、皇族の方々は途轍もなく高貴な身分の方たちと教育される。  国民として、あの方々の盾となり剣となることが誉なのだ。  しかし、彼は堂々と語った。  「本当に尊き者たちは、真っ先に血を流すものだ。民の盾となり、剣となる。神とは、そういうものなんだよ」  「どうして、そう思うの?」  「僕は、そう教えられて、育っているからね。そうとしか考えられないんだ」  「先生は、誰なの?」  「僕は、ただのお医者さんだよ。世界が、皆のことが大好きなんだ」  「そうなの?お医者さんって、凄いのね」  いつの間にか目を醒ました妹が、目をキラキラさせる。  「先生、∬‡¶のことも、好き?」  妹は、彼のことを慕っていた。  父親のように、思っていたのかもしれない。  「好きだよ。きみのお兄ちゃんのことも、ね」  「・・・・・・」  愛されることに慣れていなかった俺は、ありがとうを言えなかった。  でも、本当は言いたかったんだと思う。  言えなかったのは、ただただ、照れくさくて。  だから、今になって考えるんだ。  結局言えず仕舞いになったありがとうの代わりに、俺が出来ることが何なのか。  彼のことを思い出すと、胸が熱くなる。  同時に力も湧いてくる。  嗚呼、俺はこの人のようになりたいんだと思った。  彼と同じに、俺のように無力な人たちに手を差し伸べたい。  救いたい、なんて烏滸がましいけれど。  一人でも、たくさん幸せに生きてほしかった。  死んだ方が楽でしかない世界でも。  生きててよかったと、いつか思える可能性を潰したくなかった。  此処に、死ななかったことを嬉しく感じている人間がいる。  それが、証だ。  なりたいように、なる為に。  俺は、死ぬ気で働いた。  悪事には手を染めず、真っ当に生きることは辛かった。  でも、お天道様に顔向けできないような姿は、妹に見せたくなかった。  妹の病気は、結局良くならなかった。  それは、もうどうにもならないものだったらしい。  痛みや苦しみを緩和する程度の治療が精いっぱいだった。  もう永くは生きられない妹に、俺なんかが出来ること。  それは、妹に取って、いいお兄ちゃんで在り続けることくらいだった。  寝る間も惜しんで働き続け、ほんの僅かな泡銭で、妹の為の薬を買う。  心臓が動いている限りは、息をし続けている限りは。  辛い想いなんかさせたくない。  妹には、綺麗なものだけを見ていてほしい。  それが、俺の願いだった。  彼のように、多くの命を救いたいという夢も、妹がいてこそのものだった。  俺にとって、それは当たり前のことだった。  この世界の片隅で、俺は妹と一緒に生きていく。  悲しい予感は、常に俺に付き纏ったけれど。  妹を不安にさせたくないから、俺は努めて明るく振る舞った。  そしてそれは、妹も同じだったんだろう。  妹は、俺が居なくては、此処まで生きられなかったに違いない。  俺もまた、妹なしでは生きられそうになかった。  お互いがお互いの、命だったのだ。  だから・・・・・・、  「叶えられない夢だけど、わたしには夢があるの」  妹が言った。  それはどんな夢かと問う俺に、はにかみながら、  「あのね・・・・・・歌を歌いたい」  「歌?歌なんて・・・・・・」  いつだって歌える。  今だって。  「俺が、聴いていてあげるよ」  「うん。ありがとう・・・・・・でも、」  「でも?」  「わたしは、歌を唄い続けたい。ずっと」  「ずっと?」  拙い台詞を反芻する。  つまり、妹は。  「歌手になりたいってこと?」  「うん」  「どうして、また」  言いかけたところで、その質問に意味がないと気付く。  そんなの、歌が好きだからに決まっている。  「お姉ちゃんが・・・・・・」  「お姉ちゃん?」  「凄く綺麗なお姉ちゃん。歌がとっても上手いの」  「・・・・・・俺、会ったこと、ある?」  「ない。わたしも、一回しか」  当然、お姉ちゃんと呼んでいても、俺たちのきょうだいではない。  「何処で会ったの」  「先生のところ」  「診療所?」  患者だろうか。  色んな人がいるから、見かけたとしても分からない。  「先生は、娘だって言ってた」  「娘」  彼に娘がいたとは、知らなかった。  思いもしなかった。  だって、そんな年齢いってるようには、見えない。  「お姉ちゃんの歌を聴いたら、わたし、痛くも苦しくもなくなったの」  「へぇ」  「いつもはお咳がいっぱい出るのに、いつの間にか寝ちゃったの」  「・・・・・・」  それを、どのように解釈すればいいだろうか。  たまたま、薬が効いただけじゃないだろうか。  でも、もしもそうじゃなかったら?  歌にそんな力が、あるのだろうか。  ない、とは言い切れない。  精神上、楽になったのなら体だって。  「だからね、わたしもお姉ちゃんのように、病気で苦しんでる人に歌ってあげたいの」  「そう、だね・・・・・・」  苦しいまま、息を止めるのは辛い。  それは、見てることしかできない者たちにとっても。  いや、実際に病に侵されている者たちよりも。  「・・・・・・叶うよ」  俺は言った。  「そうかな」  「うん」  「そうだといいな」  そうだね。  俺は、それを願ったよ。  何よりも、何よりも。  この世界が続いていれば、99.9%は無理でも、0.1%の可能性くらいはあったんじゃないかと、思う。
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