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木町商店街
1. 木町の商店街
春の日差しがここちよい。空は、雲が見えない青空になった。
昭男さんは南小倉駅の北側にある小さな公園のベンチにいた。
靴はピカピカに磨いたし、服は気に入っている紺色の一着だ。
ここで一休みしたら、公園から芳子さんの家へは五分も歩けばつくはずだ。
今日は日曜日、昼前の11時に訪問すれば、芳子さんの両親が待っておられて、彼女の父上が芳子さんと昭男さんの結婚を許してくれる。
その手はずになっていた。まだ小一時間ある。
ベンチに腰を下ろして、音を立てながら通り過ぎる長い電車を見ていた。
色とりどりの春の花がいっぱいの公園。駅前はなんと騒がしいことか。
佐賀の唐津寄りの田舎で生まれ育った昭男さんには、なじみがうすい。
事務員姿の女の人が昭男さんを見つけてやってきた。
昭男さんは、膝の上の大小の風呂敷包みを抱えなおした。さっき買った
菓子の包みと別にもうひとつ、平たくて角ばったものが加わった。
花壇を見ながら鳩と話していると、女の人が配達用の袋から、
大きな風呂敷包みを取り出して、手提げ袋に入れて昭男さんに渡した。
『ここにいたんですか……色が着いてとてもきれいになられましたよ。
後で主人もお宅へお邪魔しますから』、口早に喋って、
『もう一軒頼まれて急いでいるから、代金はあとでいいです。
大事なものですから、ぶつけたりしないで持って帰ってください』。
すぐいなくなった。
何でこんな時に……渡した女の人が何者だったのか,
もう見当がつかない。初対面なのに、昭男さんのことを何も訊かなかった。
写真屋を出る時から変だった。
写真屋さんの前で見知らぬ男と、昭男さんの方を見ながら話をしていて、
わかりましたという風にうなづいていた。
昭男さんは二人とも知らない。
この町には、自分によく似たひとでもいるんだろうか……不思議なことがあるもんだ。そういえば、さっきの男がまだ近くにいて、こっちの様子を
伺っている気がする。あの男は、駅前で菓子をもらう時も店内にいた。
日曜日で大安の今日は、芳子さんと晴れて婚約の内祝いである。
芳子さんの両親は栗(くり)饅頭を好きだと聞いていた。
松原家を訪ねるには、和風の菓子折りのほうが形式に合うと教えてもらった。
それならばと、南小倉の駅前の店で少し大き目の箱入りを買った。
ほどなく昭男さんは木町の市場通りを、手提げ袋を両手に
ぶらぶらさせて歩いていた。
「ララ、ララ、ララ、竹たてかけた、レロ、レロ、レロ、東京特許許可局、キャ、キュ、キョ、魔術師今手術中、──」
誰かに教えてもらった早口言葉が絶え間なく出てくる。
先ほどと同じ背格好が後ろから歩いてくるが、気にしないようにした。
だいぶ年寄りの男で、鳥打帽(とりうちぼう)をかぶり、薄茶色の金縁めがねをして、─顔中にこわごわしたひげがあった。
まさか今頃、芳子さんの相手の昭男さんという人物の素行調査に動いているわけでもなかろう。
「ララ、ララ、ララ、竹たてかけた、レロ、レロ、レロ、東京特許許可局、東京特許許可局、キャ、キュ、キョ、魔術師今手術中、──」
彼は胸を張るようにして歩いた。
『今日がそう?あなたも大変だねえ』
漬物屋のおばさんが昭男さんを見て声をかけた。
何が大変かわからないが、先方は自分を知っている。
『はぁ、はっ? お変わりなく……儲かりまっか』
大阪商人の調子をまねた軽口が出た。
『まあ、関西弁をはなすの.ホホホ!』。
年をとったおばさんはニコニコした。
昭男さんは、南千里(大阪府吹田市)から小倉へ転勤してきた。
地元の人とは芳子さんと一緒に,たびたび店の前で会っている。
前にも話をしたおばさんのタイプだが、思い出せない。
『松原さんのお宅は近所でしたよねぇ。この市場の奥の通り…』
彼女の両親が住む松原家の所在を尋ねた。
両親は市場で惣菜(そうざい)屋さんをしているが、今日は店を閉めている。
『あら? 今日は松原さんとこは大変なんだよね』言って、
おばさんは口をつぐんだ。
近所付き合いのある人たちなら、松原家の芳子さんに縁談が来たことくらい知っている……と彼はかってに解釈した。
居合わせた買い物客たちが横目で彼を見る。
商品が豊富で活気がある、にぎやかさが有名なこの市場の買い物客に、
今日は若い夫婦や子供連れが少ないのはどうしたことだろう…、と彼は
思わなかった。
街の人は自分をよく知っている……よく似た人が住む街なのであろうか。
この間、芳子さんと長崎の方に遠出した時、この店と隣の魚屋さんに挨拶して出掛けた。若作りのおやじさんから魚のさばき方もおそわった。
魚屋さんをのぞくと、初老の太ったおばさんが、
平たい冷蔵ケースのガラスに、じゃぶ、じゃぶ、水をかけて洗っていた。
魚屋のおばさんも彼を見あげてニッコリした。
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