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14話
家の前にシトロエンが停まっている。
運転席から木島が降りて、「よお」と右手を上げた。すり抜けて、玄関に向かう。
「おいおい、無視か?」
返事をせずに、ポケットから鍵を出して鍵穴に突っ込んで回し、ドアを開ける。背後から腕が伸びて、巨大な手がドアを押し戻した。
「警察呼ぶぞ」
「そろそろ抱かれたくなったんじゃないか?」
くっ、と笑いを押し殺し、振り向いた。至近距離に木島の顔がある。
「親切にどうも」
「今、母親は留守だろ? 中に入れてくれないか」
木島の手が腰に触れた。引き剥がして巨体を乱暴に押すと、木島がよろめいて両手を上にかざした。
「わかった、ここが駄目なら俺の事務所に来い。欲しいだろ?」
自分の股間を指差して、下卑た笑みを浮かべた。冷めた目で木島を見やって、手のひらで鍵を転がした。
「あんたの事務所にいた男」
「ん? ああ、あれは助手だ」
「あいつと付き合ってんだろ」
「なんだ、嫉妬か?」
完全に、俺を手に入れたと思っているらしい。嬉しそうに顔をほころばせる中年を見ていると、悲しくなってきた。
周囲を見回した。誰もいないことを確認してから、手の中の鍵をズボンのポケットに押し込んだ。木島との距離を詰める。それからおもむろに股間を鷲づかみにした。
「おっ、おお……、ここでか? 意外と大胆だな」
木島の顔が下品に歪み、手の中のふくらみが、存在感を増す。
「あんた、俺のことならなんでも知ってるよな」
家も学校も友人関係もケーキの趣味も。何もかも把握している。
「ああ、知り尽くしてる」
「じゃあ、握力何キロか、知ってるか?」
「握力?」
木島の体がぎくり、と強張った。
「俺の握力、六十あるの、知ってるよな?」
ハッと息を呑んだ木島が、慌てて俺の手首を振りほどき、大げさに飛びのいた。
「今度俺に近づいたら、握りつぶしてやる」
縮みあがった木島のシトロエンが逃げ去っていく。すっきりした。テールランプを満足げに見送って、家に入った。静かだ。母さんはまだ帰ってきていないらしい。
息をついて、玄関のドアにもたれ、しゃがみ込む。今頃震えがきた。
怖い。
木島が、じゃない。あんな奴はどうだっていい。
時生だ。
時生を失うのが怖かった。
気がついたら時生は親友だった。小学生の頃、小さくてよくいじめられたあいつを、何度も救ってきた。そうするうちになつかれて、ちょろちょろと後ろをついて歩くようになった。
中学に入って急に背が伸びた時生は、女にモテ始め、自信を持った。女に興味がなく、喧嘩ばかりの俺とは住む世界が違ったが、時生は離れなかった。
成績が下のほうの時生と、上のほうの俺は、高校で分かれるだろうと思っていた。
俺の志望校を知ると、時生は絶望した。担任にも諦めろと言われたが、中三の一年間をほぼ勉強に費やし、奇跡の合格を果たした。
何がそんなによくて、俺についてくるのか。
わからなかったが、俺は甘えていた。時生は何があっても俺を見捨てない。安心しきっていた。でももう、いくらなんでも駄目だ。男に犯されるのが好きだと告げたのだ。
終わりだ。
震える体を抱きしめて「怖い」とつぶやいた。
インターホンのチャイムが鳴った。
怒りが湧く。木島が戻ってきたに違いない。
そんなに握り潰されたいのかよ。
立ち上がり、力任せにドアを開けた。
「ぶっ潰す!」
「え? 何を?」
ドアの向こうに立っていたのは、織田だった。怒りは鎮まらない。むしろ、余計に煮えたぎった。こいつが悪い。全部、こいつのせいだ。
胸倉をつかんで拳を握り締めると、冷静な声色で織田が言った。
「待った。外はまずい。中に入ろう」
「てめえさえ、いなかったら……、なんでだよ、なんで今更俺に構うんだよ! 時生が、時生に、嫌われたら、俺は」
「一騎、人が来る」
織田が俺の体を押した。玄関のドアが閉まる。
静かな家の中に、俺の荒い呼吸音だけが、響いている。頭に上っていた血が、次第に下りてくる。呼吸が落ち着き、感情が、凪ぐ。織田から手を離し、靴を脱いで、キッチンに向かった。
「どうしたの?」
コップに注いだ水道水を一気に呷る。
「誰か来てた? 時生君と、何かあった?」
質問をやめない織田に、コップを投げつけたかった。怒りを吐き出し、シンクにコップを置くと、振り返らずに口を開いた。
「あんた、母さんにバラしたかったのか? 花瓶を置いたのは、そういうことなんだろ? よかったな、気づいてもらえて」
織田は何も言わない。シンクの淵を握り締めた。ギリ、と音が鳴る。
「あんたに犯されたことも、バレた。満足か? でもおかげで脅しのネタがなくなった。俺は、二度と、あんたとは、ヤらない。残念だったな、ざまあみろ」
吐き捨てて、振り返る。織田は無表情だった。腹が立ちすぎて、笑いが込み上げてきた。声を上げて笑う俺を、織田は棒立ちのまま無言で見つめていたが、やがて口を開いた。
「もうすぐアメリカに行くんだ。あっちの病院にヘッドハンティングされてね」
「は? アメリカ? じゃあ、もう俺の前から消えてくれるんだな?」
「一騎も一緒に、来るんだ」
「はあ?」
織田がジャケットのポケットからスマホを出して、画面に目を落としながら淡々と言った。
「私と二人で、アメリカで暮らそう」
「あんた、何言ってんだ?」
織田がスマホの画面を俺に向けた。
見覚えのある部屋だった。織田のマンションだ。
ベッドの上で折り重なる二人の男。
俺と、織田だ。
俺の体が揺さぶられている。織田が太ももを抱え、腰を振っている。俺の名を呼ぶ織田の声。織田が動くたびに「あ、あっ」と自分の不気味な声が上がる。
織田の手からスマホを奪い、床に叩きつけた。
「なんだよ……、これ……」
寒気がした。心臓が嫌なふうに早鐘を打つ。
「隠し撮りだよ。してないと思った?」
「この、変態野郎……ッ!」
ダイニングテーブルを殴りつけて罵ったが、織田は平然としていた。肩をすくめてスマホを拾い上げ、「あーあ、買ったばかりなのに」と嘆く。
「物理的に壊したって無意味だよ。データを保存してあることくらい、想像つくでしょ?」
「何がしたい……、あんた、ほんとになんなんだよ」
「ママに見せたら発狂するかな? それともネットに上げようか。どっちがいい?」
体が震えてきた。怒りだ。息ができないほどの怒りが、全身を支配している。
「私についていきたい、一緒にアメリカに行きたい。一騎がママに、そう言うんだ」
目の前が暗くなる。吐きそうだ。口を押さえ、床に膝をつく。うずくまる。
嫌だ。
もう何もかも、嫌だった。
どうでもいいか。
どうにでも、なればいい。
「カズ君は、アメリカになんて行かないから」
母さんの声が聞こえた。顔を上げる。キッチンの入り口に母さんが立っていた。
「かあ、さん」
「びっくりした。調べたら、あなた、あの病院に勤務してたのね」
「いつ気づくかなってワクワクしてたよ。祥子、久しぶり」
母さんはすごく落ち着いていた。少し、笑ってさえいる。でも顔が紙のように白くて、それが怖かった。
「話がしたくて会いにいったのに、まさかここに来てるなんて」
「祥子が私と話したいなんて、一体なんの……」
織田が言葉を切った。
母さんが、持っていたハンドバッグから、何かを取り出した。
包丁だ。
「母さん」
「わかってるでしょ。だって私、言ったじゃない。別れるときに、言ったわよね。今度、一騎に何かしたら、殺すって」
「母さん」
母さんは、俺を見ない。返事をしない。右足を、前に出す。ミシ、と床が鳴った。織田が後ずさる。後ろは、ない。シンクの淵にぶつかると、「うわ」と間の抜けた声を出す。
「祥子、落ち着いて」
「どうしてそんなことが言えるの?」
母さんが、一歩ずつ近づいてくる。早く、立て。言い聞かせ、なんとかまっすぐに立ったが、面白いくらい、膝が、笑う。
「あなたは人間じゃない。けだものよ」
「母さん、もういい、こんな奴、ほっとけばいい。アメリカに行くんだよ、俺らの前から、いなくなる。それでいいじゃねーか」
上ずった声を絞り出すと、母さんがやっと俺を見た。
「アメリカじゃ駄目なの」
「え」
「行き先が違う、この人は、地獄に落ちるの」
母さんがにこ、と優しい顔で笑った。包丁の先を織田に向け、駆けた。
咄嗟に、手が出た。
喧嘩は山ほどやってきて、暴力には慣れている。
でも、刃物は無理なのだとわかった。
手のひらに、ドン、と衝撃があった。
手の甲に、切っ先が。貫いたのだと理解した瞬間、痛みがきた。
母さんの悲鳴。ずるりと異物が抜け出る感覚。血が、面白いくらいに流れ出る。
「一騎!」
織田が叫ぶ。
「いやっ、カズ君! うそ、あなた、助けて、一騎を、助けて!」
「落ち着いて、大丈夫、清潔なタオル、早く」
母さんが、あちこちにぶつかりながらキッチンを出ていった。織田が俺の尻ポケットから携帯を抜き取って、どこかに電話をかけている。救急車、と聞こえた。痛くて、耳の機能さえ、上手く働いていないようだった。
母さんがタオルを大量に抱えて戻ってきた。顔が、涙でぐちゃぐちゃだった。
「どうして、止めたんだ」
織田の声が聞こえる。
「私が死んだほうが、一騎にとっても好都合だろうに」
「……あんた、馬鹿か? 母さんを、犯罪者に、してたまるか」
母さんが、声を上げて泣き出した。
カズ君、カズ君、ごめんなさい。
救急車が来るまで、なんとか意識を保っていた。今気を失ったら、母さんが、どうにかなってしまうんじゃないかと恐ろしかった。
「織田先生?」
救急車で駆け付けた隊員が、織田を見て驚いていた。
「うちの病院に運んで」
サイレンの音。母さんのすすり泣き。
現実味がなかったが、手の痛みが、嫌というほどこれは現実だと教えてくれた。
「一騎、安心して。私が処置する」
織田が言った。は、と力なく笑って、「肛門科なのに?」と訊いた。
織田は不思議そうに首をひねったあとで、思い出したように笑っていた。
変な感じだ。
織田がいて、母さんがいて、俺がいる。
これは奇妙な、一家団欒。
夢を見た。
真っ白な家具に真っ白な服を着た、織田と母さんが、ソファに並んで笑っている。
俺は、こうなりたかった。
理想で、幻想。
夢だと自覚した瞬間に、目が覚めた。
母さんはずっと泣いていて、ごめんなさいを繰り返した。
織田の姿はなく、俺はなんとなく悟った。
もう、会うことはないだろう。
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