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最終話
時生からのメールに気がついたのは、次の日だった。
──カズんち行っていい?
ちょうど俺が病院に運び込まれた時間帯に送信されていた。
メールはその一通だけ。返事をしなかったから、無言の拒絶だと感じただろう。
携帯を耳にあて、「時生」と呼んだ。
「メール今見た」
『……そっか、だよな、カズ携帯見ないもんな』
どこか安堵のにじむ声。
「今、お前んちの前」
『えっ』
「外か? 出かけてたら帰る」
『待って、いる、そこにいて』
ほ、と息をつく。時生が日曜に家にいるのは珍しい。
「珍しいな」
玄関のドアが開くと、まず、そう言った。時生は眉を八の字にして、悲しいような困ったような、微妙な表情でうつむいた。
「え、カズ、手、それ、どうした?」
右手の包帯に気づいて、慌てて手首をつかんでくる。
「名誉の負傷」
「え? どういうこと?」
「入っていいか?」
「あ、うん、もちろん。今日誰もいないから。ゆっくりしてって」
時生の部屋は、前回来たときと同じか、前以上に散らかっていた。からのペットボトルの数が増えているし、テレビの前の折りたたみテーブルに、スープの入ったカップラーメンの容器が置きっぱなしだ。
「これ、朝ご飯」
言い訳をして照れ笑いする時生は、必死でいつもと変わらないふりをしていた。
明らかに様子が変だ。気まずそうで、目が合わない。
そりゃそうか。
「あ、ここ、座って」
ヘラヘラ笑った時生が、ベッドの上の雑誌やらティッシュの屑やらを雑に払い落とす。足の踏み場のない部屋の中を、ウロウロし、しばらくしてから咳払いをして訊いた。
「手、大丈夫なの? また喧嘩?」
「包丁が貫通した」
「えっ、……えっ? 包丁?」
時生には隠しごとをしないと決めた。
隠し撮りのこと、アメリカに来いと言われたこと、織田を殺そうとした母さんを止め損なって刺されたこと。一部始終を、つぶさに話した。
「本当なら警察沙汰だけどな」
手のひらに包丁が刺さる事故が不注意で起こるはずもないのだが、病院側、つまり織田が、そういうふうに処理をした。意外だった。あいつが、母さんを助けたのだ。
「誰も死ななかったんだし気にするなって言っても、母さん、めちゃくちゃ落ち込んでて、家に居づらい」
「はー……、うん、だろうね……」
時生は俺の隣に腰を落とし、両手で顔を覆った。
「何だよその修羅場……。なんでカズ、そんな冷静に話せるの?」
「さすがにすげー動揺した。まあ、でも、ああいう体験をすると、肝が据わる。次は多分、イケる」
包丁をどう捌くか。落ち着いてやれば、できる気がした。まず真正面に向かい合って、突き出された包丁をわきの下に誘い込むように躱し、体と腕の間に相手の手を挟み込んで、関節を決めてやれば武器を取り落とす。
イメージトレーニングをしていると、時生が「もう!」と頭を抱えた。
「そんなに何回も包丁突きつけられるわけないじゃん」
「コンビニ強盗に出くわすかもしれねーだろ」
「頼むから、危ないことしないで。俺、カズが心配だよ」
泣き声だと気づいて、時生の顔を覗き込んだ。
目が、合う。
ふ、と笑った。
「よかった」
「な、何が?」
時生がほのかに頬を染めた。
「友達やめたいって言われるかと思った」
「言わないよ!」
身を乗り出した時生が、しゅん、と消沈する。
「いや……やっぱり、無理かも。友達、無理かもしれない、ごめん」
「いい」
間髪入れずに返事をして、肩をすくめる。
「謝るな。お前は悪くない」
縁を切られるかもしれないと、覚悟はしていた。だから、驚かない。ただ、心臓が痛くて、喉の奥もズキズキして、息がしづらい。泣くのだけは、駄目だ。時生から顔を背け、静かに深呼吸をする。
「俺、カズとしたいんだ」
時生が言った。
「カズと、セックスしたい。ごめん、言っちゃった。俺じゃ駄目? おっさんのほうがいい? でも俺、多分テクニックじゃ負けないし、いや、愛! カズへの愛は、誰にも負けないよ? 俺、守りたい。俺は絶対、泣かせない。傷つけないよ」
ゆっくりと首を動かして、時生を見た。
「お前……、何言ってんだ?」
「だからさ、そういう意味で、もう友達じゃいられないかもって」
時生なりに、考えて出した答えらしい。軽い気持ちじゃないことは、伝わってきた。
真剣な顔が、おかしい。
笑っていると、時生に頬をつままれた。
「カズさあ、笑うのは俺の前だけね」
「はあ? なんで」
「笑顔が可愛いんだもん。普段全然笑わないから、ギャップ萌えで老若男女問わずイチコロだって」
笑顔を消して真顔に戻ると、今度は時生が笑って、顔を寄せてきた。
唇が触れ合った。
柔く、押しつけてくる。ちゅ、ちゅ、と音を重ね、何度も軽く唇を吸われた。
脳が、痺れて、溶ける。
何も考えられなくなった。
穏やかなキス。口の中に入ってくる動作はスムーズで、静かだった。舌を絡め、唾液を交換した。
時生の手が、俺の服の下に潜り込む。動きが優しい。大切なものを慈しむように、撫でる指。泣きそうになった。
「痛くない?」
右手の包帯にそっと触れて、時生が訊いた。痛いと言ったらやめるんじゃないかと思った。だから、痛くないと答えた。
服を脱ぐのを、時生が手伝ってくれた。
全裸で抱き合って、シーツに横たわる。首筋から鎖骨、胸、順番に降りていく唇。へその下まで到達した頃には、俺のペニスはガンガンに勃っていたが、時生は嫌悪を見せることもなく、当然のように先端にキスをした。裏筋を舐めて、吸って、丁寧にカリを舌先でなぞり、口中に収めていく。
「はあっ、あっ、時生……っ」
上目遣いの時生が俺を飲み込んだまま、頭を振る。上下する手の動きと、蠢く舌、吸いつてくる口の粘膜。緩急をつけた動作に、我慢できない。出る、イク、と訴えた。時生は離さなかった。中に吐き出しても嫌な顔一つせずに、喉を鳴らす。
「全部飲んじゃった」
「……お前、なんでそんなに」
上手いんだ、という言葉を飲み込んで、代わりに疑問を投げた。
「男とやったこと、ないよな?」
「ないない、無理無理。男とは無理だって」
俺も男なんだが、と苦笑して、シーツの上に脱力する。
「カズ」
俺に跨った時生が、見下ろしてくる。
「好き」
切ない目でつぶやいて、俺の頬を指でくすぐった。
「好き、カズ、大好き」
唇が震える。歯を食いしばり、時生の首に抱きついた。
まっすぐにぶつけられる好意が心地いい。そう感じるのは時生だけ。
自分も同等の想いを抱いているから?
自信がない。好きとか嫌いとか、恋愛のことが、俺にはよくわからない。
でも、嬉しくて舞い上がる気持ちを自覚した。
俺はきっと、時生が好きだ。
繋がると、確信できた。
俺は間違いなく、時生が好きだ。
自分の欲望のみを満たそうとするんじゃなくて、ちゃんと俺を、人として扱ってくれる。愛撫とは、これのことかと感心した。
やることなすことが、気持ちいい。
時生は、慣れていた。男を抱くのは初めてのくせに、流れがスムーズだった。あっという間に全身が弛緩して、時生にすべてをゆだねていた。
ずっと、俺を見ている。
喘いで悶える俺を見ている。
恥ずかしいと思う隙もなく、理性は飛んで、自ら腰を揺らす。
優しく俺の名前を呼んで、触れて、口づけて。
奥を突く動作も、優しかった。
「カズ、痛くない?」
動きを止めて、時生が訊いた。汗がすごい。時生の顎から滴った汗が、俺の腹に落ちて、混ざり合う。
「手は? 大丈夫?」
「ない、痛くない、時生、もっと」
「う、待って、揺らさないで、こら、カズ、ストップ、あっ、ダメッ、イキそ……、あ、あ……っ」
時生が小さく叫んで、身を震わせた。イク瞬間の顔を見た。俺の中で、時生が果てた。愛しさが、込み上げる。
「すげ……、エロい」
時生の頬を撫でると、「もう!」と吠えた。
笑い合って、すぐに二回戦が始まった。
何度絶頂に達しても、出るものがなくなっても、体を繋げたまま、キスに没頭する。
「いいのか?」
キスの合間に訊いた。
「何?」
「お前は知らねーだろうが、男だぞ、俺」
「えっ、知らなかった」
芝居がかった声色で笑って、時生が俺のペニスを握り締めた。
「すげー今更だけど、お前、付き合ってる女、いいのかよ」
「あ、大丈夫、昨日別れたから」
随分簡単に言うなと思ったが、時生は元々女の回転が速い。週替わりで別の女を連れていたこともある。
「彼女っていうか、どっちかっていうとセフレだけどね。好きな子いるからって、お別れした」
「好きな子」
「カズだよ」
「寒いな」
「ちょっ、そういうこと言う?」
女なら喜ぶ科白なのかもしれない。今まで女を喜ばせてきた口説き文句は、俺には通用しない。
残念だったな、と鼻で笑う。
「いいもん、今日から晴れてカズと恋人同士だもん」
「恋人……、やめろ、痒い」
「えっ、あれっ? 違うの? なんで? 駄目? あっ、待って? 確認だけど、俺ら、付き合うんだよね?」
俺が時生と、付き合う。
ぶはっ、と吹き出してしまった。
「なぜ笑う!」
「いや、なんか、ありえねー」
ありえない。ガキの頃からずっと一緒で、そんな目で見たことなんて一度もない。お互いに、恋愛対象から外れていたのに。
これは全部織田のせい。あいつの存在は悪夢そのものだったが、きっかけを与えてくれた。織田が現れなかったら、俺は一生、時生とセックスはおろか、キスすらしなかっただろう。
嫌いだし、憎んでいる。評価が変わることはないが、多少、感謝しないでもない。
寝転んだまま右手を翳し、口中で「バイバイ」と別れを告げる。
時生が俺の首にしがみついて、甘ったるく、ねだった。
「なー、カズ。付き合ってよ」
〈了〉
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