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3話
目を開けた。眩しくて、すぐに目を閉じる。再びそろそろと瞼を開き、朝だ、と気づいた。
顔に、太陽の光が降り注いでいる。
高級そうなシーツの感触と、嗅ぎ慣れない匂い。香水か、芳香剤か、何かよくわからないが、臭い。気取った金持ちの男の匂いだ。
吐き気が込み上がる。口を手で押さえ、体を起こした。
「おはよう。よく寝てたね」
振り返ると、ガウンを着た織田が濡れた髪をタオルで拭いながら立っていた。
「一騎もシャワーを浴びてきなさい」
命令口調に苛立って、抵抗のつもりで無視をした。布団を被って体を丸める。
「学校は? 行かないのかな? ずっとここで寝てるの? 私はそれでもいいよ。ずっと一騎と一緒にいようかな」
「……うるせーな」
文句を言ったが、織田は黙る気配がない。
「よく眠れたみたいだね。寝顔が可愛くて、たくさん写真撮っちゃった」
「はあ!?」
布団を跳ね除け、飛び起きた。織田が肩をすくめ、「目が覚めた?」とニヤついた。
「消せよ」
「何を?」
「勝手に撮るんじゃねーよ。消せ」
「冗談だよ。撮ってないから安心して」
睨みつけたが、涼しい顔で唐突にガウンを脱いだ。下には何も着ていない。びく、と体が震えた。素早く目を逸らす。
「何、照れてるの?」
答えずに寝室を出て、バスルームに飛び込んで、シャワーを浴びた。
どうして、と頭を抱えた。
俺は確かに昨日、あいつに犯された。それなのに、平然と会話をして、こんなふうにのんびりとシャワーを浴びて。
そんな場合なのか?
普通じゃない。
何かの薬を打って、自由を奪って、犯すなんて。
そんなイカれた男の家に、一秒だって留まるべきじゃない。殴りつけて、半殺しにして、今すぐここを出るべきだ。
「クソ……ッ」
吐き捨てた。今さら、涙が滲む。腰が重く、明らかに、尻が変だ。男に、突っ込まれたのだ。そんなことは、自分の身には起こりえないと思っていた。自尊心が、ズタズタだ。
浴室のタイルにうずくまる。頭の中は昨日のおぞましい出来事が駆け巡っていた。
幼児の俺を犯した父親。好きなようにされて「殺す」と叫びながら、言葉とは逆に自分のモノを勃たせた。あいつに嵌められて、感じた。自分から腰を振り、快楽を貪った。
苦笑が漏れた。薬を打たれて体の自由を奪われていたはずなのに。
「一騎、もう出なさい」
シャワーの音に紛れて、織田の声が聞こえた。聞こえないふりをして膝を抱えた。
「出なさい」
腕をつかまれ、体を引き上げられた。よろめいて、バスルームの壁に手をつく。立っているのがしんどい。
「冷水じゃないか」
織田は責める声で言った。脱衣所に引っ張られ、バスタオルで体を丁寧に拭かれる間、俺は人形のように突っ立っていた。
「こんなに冷たくなって」
自分の体温で温めるつもりなのか、抱きしめてきた。触れた部分がじわじわと温かくなるのを感じながら、眠りたい、と思った。穏やかな心臓の音。目を閉じる。体を完全に預けそうになり、突然我に返る。
こいつは、俺を犯した。
乱暴に突き飛ばす。簡単に吹っ飛んだ織田の体が、脱衣所の壁にぶつかった。驚いた顔。被害者面しやがって。ふつふつと怒りが甦る。
「俺はあんたを許さない」
静かに言って、織田の胸を膝で抑えつけた。体重を載せる。ミシ、と骨が軋む音。
織田は苦しそうな顔で俺を見上げていたが、口元が馬鹿にするように小さく笑ったのが見えた。殺意が湧く。
「言ったよな、殺してやるって」
平手で横面を叩いた。織田が呻く。二発目は、手の甲で叩いた。鈍い音が響く。
「出来ないと思ったか?」
ゆっくりと俺を見る織田の唇が、歪んだ。笑っている。カッと頭に血が上る。力任せに拳を叩きつけた。笑みの形を浮かべた唇から血が流れた。織田はそれを指で拭うと、美味そうに舐めた。
「殺すならもっと計画的にやらないと」
織田はククッと冷酷な笑い声を漏らした。
「一騎が殺人を犯したら、ママはどんな顔をするかな?」
拳を握り締め、歯を食いしばる。織田は薄く笑ったまま、「いいの?」と言った。
「彼女が殺人犯の親になっても」
母さんの顔が浮かんだ。悲しませるのは絶対に嫌だ。
握り締めた拳を開き、脱力する。
殺意が、萎えていく。
「わかったら退きなさい。裸の君に跨っていられると、理性が切れてしまいそうだ」
両方の太ももの内側を、織田の手が、這い上がってくる。漏れそうになる声を堪え、息を止めた。織田の指が付け根に到達する寸前で払いのけ、飛びのいた。
薬が残っているのかなんなのか。
体が、上手く制御できない。
気持ち悪い。
そう思うのに、下腹部がうずき、反応しかけている。
「それだけ元気なら学校に行けるね」
切れた唇を舐めながら、織田は俺に制服を押しつけた。
「夜も食べてないし、お腹空いてるだろう? 送ってあげるから早く着替えて食べなさい」
脱衣所のドアを閉めて、織田が出て行った。
なんなんだよ。
人をおもちゃみたいに扱っておいて、今さら紳士のフリかよ。
騙されない。
許さない。
どうにかして、あいつを痛めつけてやりたい。
苦しめて、泣かせて、土下座させて、俺にした仕打ちを、後悔させてやる。
どうやって?
現実的に殺せないなら、社会的に殺してやろうか。
収まらない。怒りが引いていくことはなかった。
服を着てバスルームを出ると、織田が微笑んでダイニングの椅子を引いた。
おそらく一人暮らしなのに、どうして椅子が二脚あるのかと一瞬疑問がよぎったが、そんなことは俺には関係ないし、どうでもいいことだった。
朝食は和食で、腹が立つほど完璧だった。食べずに出ていくとか、食器をひっくり返すとか、嫌がらせを思いついたが、実行はやめた。食べ物に罪はない。
「ねえ、一騎。中学二年生のときに付き合ってた子、いるじゃない?」
味噌汁をすすって、白米を掻っ込みながら、無言で織田をちら、と見た。探偵を雇った、と言っていたのは本当らしい。そんなことまで調べているなんて、本当に気持ちが悪い。
「彼女とはどこまでいったのかな?」
肩までの茶色い髪はクセ毛がかっていて、雨の日は思い通りにセットできないと嘆いていた女。猫みたいな大きな目で俺を見上げていた。
中学生のくせにどこか大人びた発想を持っていて、付き合って一週間も経たないうちに肉体関係を迫られた。気が進まなかったがとりあえず抱こうとは試みた。でも、駄目だった。「その空気」が、怖かった。女に触れられたとき、背筋から首筋にかけて凄まじい悪寒が走り、鳥肌が立ち、吐き気がした。素っ裸の女をベッドから突き落とし、真っ赤な顔で怒り狂うのをそのままに、逃げた。
それで終わり。あれ以来女と付き合うのはよそうと決心した。
「最近は中学生も進んでるからね」
箸の動きを止めて、織田がにやりと笑った。
息苦しい。
短い息を何度も吐き出した。
やっとわかった。これはトラウマだ。
子どもの頃こいつに犯されたせいで、俺は性行為が怖くなり、反射的に体が拒絶したのかもしれない。
「でもすぐに別れたよね。何かあったのかな?」
見透かされている気がして、気味が悪かった。思い出したくない記憶をほじくり返されるのは我慢ならない。
「美味しい?」
織田が訊いた。
一言も喋らない。喋ってやるもんかと無視を決め込んだ。
織田の運転する車で学校に向かう。当然織田は俺の通う学校を知っていた。青のボディのBMWは、どうやら正しい道を走っている。俺のことを全部知っていると言われたとき、なんとも言えない気味の悪さを覚えた。
医者のくせに、こいつは病んでいる。ずっと監視されていたのだと思うと腹の中が煮えくり返る。
流れる景色を睨みつけて、無言を通した。織田は何かペラペラと喋っていたが、反応したら、負けだ。
「無口だね」
織田が言った。信号が赤で車が止まった。俺は助手席でずっと窓の外に目を背けていた。
「一騎に渡すものがあるんだ」
知ったことか。
織田はフッと息を吐いた。諦めたのかと思った瞬間、内股に感触。ぎょっとして見ると、織田が前を向いたまま俺の股間に手を伸ばしていた。
「やめろ、変態!」
叫んで手を払い除ける。ばっちり目が合った。織田は薄く笑って俺の目の前に何かをぶら下げた。
「私の部屋のキーだよ」
「はあ?」
「これでいつでも来られるよ」
「馬鹿か、行くわけねーだろ」
憤慨して正面を見ると信号は青に変わっていた。織田は車を発進させない。後ろの車が激しくクラクションを鳴らした。
「進めよ」
「これを君が受け取るまでアクセルは踏まない」
後ろの後ろ、そのまた後ろの車までもがクラクションを鳴らした。物凄い騒音。俺は織田を睨みつけた。
「あとでドブに捨ててやる」
ぼやいてひったくる。
「それは君の自由だけどね」
ようやく車が出た。俺は溜息を吐き出した。織田は鼻歌を歌っている。
「あんた、ほんとイカれてるよ」
「うん、そうだね」
「認めんなよな……」
織田は嬉しそうにウフフと笑った。
「やっと一騎が喋ってくれた。なんだか親子みたいだね。あ、親子か」
頭痛がした。こめかみを押さえ、首を振る。
「どうしてもわかんねーんだけど」
「何?」
「……なんで、五歳の、自分の息子を……犯せたんだ?」
俺が嫌いだったから? と頭の中で付け足す。俺が嫌いだったから、怖がらせるために、痛めつけるために、泣かせるためにやったんじゃないかと思った。
「言ったと思うけど、可愛くて仕方なかったからだよ」
ケロリと言った。俺は納得出来ない。微笑んでいる織田の横顔を責めるように見た。
「私は不思議でならないんだ。なぜ、世の父親はみんな我慢出来るんだろうって。可愛くて可愛くて自分のものにしたくて欲望を感じてるはずだ」
「それはあんただけだ。あんたは病気なんだよ」
「一緒にお風呂に入ったとき、パパのおちんちんおっきいって言って無邪気にペニスを握ってくる可愛い息子に欲情しないほうが変じゃない?」
「なんだそれ……」
「一騎が小さいときの話だよ」
「知らねーよ、覚えてない」
「したんだもん。可愛いでしょ?」
子どもなんて、そういうものじゃないのか。それに対して欲情する親なんて、絶対にこいつだけだ。
「パパのマンション覚えた?」
「覚えない。忘れた」
「じゃあ今日学校終わったら迎えに来てあげようか」
「いらねーよ。医者のくせに暇なのかよ」
「結構暇だよ。あの病院の肛門科にいるから、会いたかったら来てね」
「こう、もん、か」
「そう、肛門科。なり手が少なくて貴重な存在なんだよ」
誇らしげに言う織田から目を逸らし、笑いを堪えた。なんでよりによって肛門科なんだよ。
「無理しないで笑っていいのに。笑うとこだよ」
俺は唇を引き結んで黙りこんだ。危ない。打ち解けている場合じゃない。許さないと決めたのに。
「私はね、もう二度と、会うつもりはなかったよ」
急に真面目なトーンで織田が言った。
「でも祥子が救急搬送されて、毎日お見舞いにくる君を見てたら、これは運命だと思ったんだ。話したい、触りたいって、欲が溢れちゃった」
「あんたは」
どうしても訊きたい。極力口を開きたくなかったが、どうしても、これだけは訊いておきたい。
「母さんのことが嫌いだったのか?」
「好きだよ。今でもね」
表情を変えずに即答する織田の横顔を見て、唇を噛んだ。
「でも祥子が私を嫌いなんだ。当たり前だよね、子どもを犯した旦那なんて、許せるはずがない」
「なんで……、裏切るような真似したんだよ」
なんで、なんて愚問だ。こいつはまともじゃないし、理解できるはずがない。
「祥子以上に一騎を愛してしまったから」
ほら見ろ。意味がわからない。無駄な問答だった。
それから学校に着くまで、お互いに何も喋らなかった。一言も。馬鹿らしくなった、というのもある。それ以上に、軽い自己嫌悪に陥った。
会話なんて、必要ない。
「いってらっしゃい」
車から降りる俺の背中に、織田が言った。乱暴にドアを閉める。すごい音がして、衝撃で車体がかすかに揺れた。通学路の生徒が、ジロジロ見ている。見てんなよ、と睨む。
「一騎」
背後から織田の声が呼んだ。
「またね」
振り返らない。
返事もしない。
道端に落ちている空き缶を、踏み潰した。
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