6話

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6話

 料理が得意だというのはあながち嘘じゃないらしい。出された料理をほとんど平らげた。箸を置いて顔を上げると、頬杖をついて、嬉しそうに微笑む織田が俺を眺めていた。 「美味しそうに食べるね」  席を立ち、「帰る」と呟いた。 「送るよ」  返事をせずに、通学鞄を担いで玄関に向かう。靴を履き、ドアノブを握ると「一騎」と呼び止められた。 「忘れ物」  振り向くと携帯が飛んできた。受け止めてポケットに突っ込み、玄関のドアを開ける。性欲を処理したあとだから、引き留められなかった。  用済みか、と苦笑する。  織田のマンションを出たのは午後の六時を過ぎた頃だった。腹の中が満たされて、それなりに幸せだった。  携帯を取り戻すのが目的でついて来た。つもりだった。でも深層ではセックスを期待していた。犯されるとわかっていて、それを期待した節がある。もはやこれは「犯される」とは言えない。合意の行為だ。  単純に、気持ちがいいから。  あいつに特別な感情を抱いているわけじゃない。  自分に言い聞かせ、逃げるようにマンションを出て、病院に向かった。毎日は来なくてもいいと言われても、顔が見たかった。 「今日はもう来ないのかと思った」  病院に着くと、食べ終えた夕食のトレイを廊下に運んでいる母さんと出くわした。 「大丈夫か?」  腕を取って体を支える俺に、母さんは「平気よ」と笑った。そして足を止め、俺を見上げた。 「何?」 「何かあったの?」 「え?」 「どこか痛いんじゃない? 風邪でも引いた?」  心配そうに顔を曇らせて、手のひらを俺の額に当てた。 「ちょっと熱があるみたい」 「なんでもない」 「ちゃんと食べてる? 夜ご飯、食べたの? 今から?」  織田にごちそうを作って貰った、とは言えない。  落ち着かない。  バレたらどうしようと気が気じゃない。ハッとした。吸いつかれた首の辺りを慌てて隠す。痕がついているかもしれない。 「カズ君?」 「俺、帰るわ」 「もう?」 「ごめん、ちょっと用事思い出した」 「……そう」  母さんは微笑んで「おやすみ」と言った。隠し事をしていると、気づいた顔だった。  絶対に、織田のことを知られてはいけない。  いつまで?  母さんが退院するまで?  あいつは探偵を雇ったと言っていた。もうとっくに、自宅を知られている。  脅されて、関係を持ち続ける未来が見えた。冷静に考えるとそうだ。自宅どころか学校も友人関係まで把握している。つまり、逃げられない。  帰宅して、玄関のドアを閉めると同時にため息が出た。  疲れた。  どこにいても安らげない。  眠っているときだけが、自由だった。  ずっと眠っていたいのに、目覚めると日付が変わってあっという間に翌日だった。  起きたくない。学校に行きたくない。翼に会いたくない。  あいつは毎朝俺が登校するのを待ち構えていて、背後から挨拶してくる。毎日。本当に一日も欠かさずそうだった。  休もうか。  ろくに授業を聞いていないし、別に行かなくても支障はない。そうだ、今は母さんがいない。一日中家で寝ていたっていいのだ。 「さぼろうかな」  独り言を言って布団の中で寝返りを打つ。そうこうしているうちに、いつもなら家を出ている時間になった。もう間に合わない。絶対遅刻だ。  よし、さぼろう。  決めた瞬間、携帯が鳴った。  うめきながら布団の中から手を伸ばし、携帯をつかんだ。 「誰だ」  相手を確かめずに言った。 『寝てた?』  時生の声。 「あー、眠いしだるいし行かねー」 『やっぱり。でも来ないとやばいよ?』 「なんで」 『昨日のこと、学校中の噂になってるよ』 「昨日って?」  あくびをしながら訊いた。眠くて頭が回らない。 『翼だよ。公開告白』  そっちか。そういうこともあった。別に、あいつが俺を好きだと泣き叫んだからと言って、俺がフォローしてやる必要はない。 「もう切るぞ。眠いんだよ」 『寝ちゃダメ! いいか、俺がなんとかしてやるから、出てこいよ、な』 「なんとかって? 別に、どうでもいい」 『翼は健気に登校してんのに、カズは逃げるの?』 「あ? 誰が逃げるって?」  ふ、と時生が笑ったのがわかった。 『遅刻してもいいから来いよ、またあとで』  電話が切れた。  知るか、と布団を被って再び眠りにつこうとするものの、眠くない。 「くそ……」  起き上がり、のろのろと着替え、途中でコンビニに寄った。パンを齧りながら学校に到着すると、ちょうど休み時間だった。  何か、やけに見られている。  廊下を歩いていると、女子が一斉に窓から顔を出して、ヒソヒソ話が始まった。 「付き合うのかな」 「相手の子、見た? めっちゃ可愛いよ。女子より女子」 「マジで? 瀬野君やったじゃん、ラッキーじゃん」  勝手なこと言いやがって。男に告白された男はその瞬間に否応なしに付き合わなければならない義務でも発生するわけか? 「カズ! おお、カズ! 来たか!」  時生が教室から顔だけ覗かせて、叫ぶ。 「てめえのおかげでなかなか愉快な気分になれたよ」 「ささ、ま、こちらへ」  俺の鞄を持つと、へこへこと低姿勢のまま席に座らせた。クラスメイトの視線が集中している。隣の女は昨日と変わらずに挨拶をしてきたが、もしかしたら噂を知らないのかもしれない。静かに本を読んでいる。 「次の休み時間、どこにも行かないでここにいろよ? 約束な?」  時生がスマホを見ながら念を押す。 「なんだよ、何企んでんだ?」  嫌な予感がした。これ以上俺を怒らせないで欲しい。 「企むなんて人聞き悪いぞ。お前のために一肌脱ごうって魂胆さ」 「なんだよ、その日本語」  時生は俺の机に尻を載せると耳に口を寄せて囁いた。 「さっき翼に会ったんだ」  で? と横目で見ると、言いにくそうに時生が続けた。 「あいつ、オカマとかゲイとか、同級生にめっちゃからかわれて、でも堂々と登校してきて偉いんだけどさ、なんか思いつめた顔っていうか、考え込んでるっていうか、変な真似しなきゃいいなって心配になってさ」 「やめろ」  時生の顔面を手のひらでぐいぐいと押し退けた。 「変な真似ってなんだよ。俺には関係ない」 「ちゃんと振ってあげないと、可哀想だよ」 「あいつには会いたくない」 「一緒に行ってやるから。それならいいだろ?」  違う。時生はわかっていない。会いたくない理由は告白されたからじゃない。それだけなら無視で済む。  織田との関係を知られた。織田に犯されて喘いでいる声を、携帯越しに聞かれてしまった。だから、会いたくない。  時生は俺が反応しなくなったのを見ると、肩をすくめて自分の席に戻っていった。  チャイムが鳴った。授業が始まり、黒板を眺める俺を、女教師がちらちらと見てくる。教師の間にも昨日のことが広まっているらしい。やっぱり来なければよかった。クラスの連中も、俺を見てくる。最悪に居心地が悪い。イライラした。こういう状況を作った張本人は翼だ。今度会ったら殴ってしまうかもしれない。  怒りを吐き出して、外の景色に目をやった。授業が終わるのをひたすら待つ。待つうちにいつの間にか寝ていた。この机と椅子があれば、銃弾が飛びかう戦場でもぐっすり熟睡出来るかもしれない。それくらい寝心地がいい。  ゆさゆさと肩を揺すられて目が覚めた。教室の中は騒がしかった。とっくに休み時間だ。 「起きろ、カズ」  時生がしつこく揺すってくる。 「起きろって。美佳ちゃんこっち」  美佳ちゃん?  嫌な予感は的中したらしい。時生に招かれて女がおずおずと教室に入ってきた。どこにでもいそうな普通の女。  眉間に皺を寄せて、時生を見た。 「カズ、この子美佳ちゃん」 「あの、は、はじめまして」  無言で女に視線を移す。緊張した表情で何度も頭を下げている。  クソ時生め、そういうことか。時生はへらへらしながら言った。 「カズのことずーっと好きだったんだって。な、付き合ってみない? 可愛いだろ、美佳ちゃん。いい子だよ、美佳ちゃん」  どうして女という奴は、喋ったこともない男に惚れるんだ? それで付き合ってみて、自分の理想と違うとすぐにさようならだ。そういう身勝手な生き物だ。  どうやって断ろうか、寝起きの朦朧とした頭で考えた。 「カズ、オッケーして」  時生が耳打ちする。 「ここで断ったらそれこそゲイですって言ってるようなもんだろ? とりあえず付き合ってみろって。な?」  女を見て溜息をついた。好きでもない女と付き合って何になるんだ。 「俺はあんたのこと見たこともないんだけど」  冷たく突き放すように言ってみた。女はめげずにこくりとうなずいた。 「私、一年のときから瀬野君のこと、ずっと見てました」  堂々と言い放つ。周りで聞き耳を立てていたクラスメイトがざわめく。 「私じゃ駄目ですか?」  俺は時生を見た。時生は力強く親指を立てた。  高校に入ってから女に告白されたことは数回あったが、そのたびに断っている。だから別に断ってしまってもいいはずだ。でも、タイミングが悪い。  時生は多分、よかれと思ってやったのだ。  断れない状況だから女を押しつけたというより、俺を助けたいと思って、名案だと思い込んで、なるべく大勢の目の中で、見せつけたのだろう。  時生は馬鹿だ。  気づくと、教室が静まりかえっていた。全員が俺の返事を待っている。断ったあと「やっぱり」と、勝手な妄想を抱かれても困る。  とにかく面倒だった。 「わかった」  仕方なくそう言うと、時生が「ふぁっ」と変な声を出した。 「それってオッケーってこと?」 「あー」 「やったぁ」  美佳が、黄色い声を上げて時生の手を握って飛び跳ねた。教室にパラパラと意味不明の拍手が起こる。 「ちょっと待ってよ」  見たことのある女が言った。多分、クラスメイトだ。 「あたしが告白したとき迷いもせずに断ったよね」  外野から、おおーと声が上がる。時生が慌てて俺と女の間に割って入った。 「どうしたの、大野ちゃん。落ち着いて? ねっ」 「あたしがこの女に劣るとでも? 誰がどう見たってあたしのほうが可愛いしスタイルだっていいじゃない。こんなダサイ女にあたしが負けるはずないし」  指を差された「ダサイ女」はビクッと体を震わせた。  女の戦いが始まる予感がした。もう、どうにでもしてくれと思った。 「瀬野だって、あたしのときとは状況が違うから、仕方なく付き合ってやるって言ったんじゃないの? そうなんでしょ? ゲイだと思われたくないから? とりあえず誰でもいいから女と付き合ってやれ? そういうことでしょ?」  怒りが喉元にまで押し上がってきた。口を開けばきっと一生立ち直れないような酷い科白を吐いてしまうだろう。  ふーっと怒りを吐き出した。こういう女は相手にしないほうがいい。  そうだ、時生に任せておけばいい。女といえば時生。時生といえば女だ。  時生に助けを求める視線を投げると、「いやいや、勘繰りすぎ」と引きつった笑いを浮かべて、女の肩を、慰めるように撫でた。 「大野ちゃんも可愛いよ? でもカズの好みの女の子は、美佳ちゃんってこと。ごめんね」 「騙されない。今なら誰でも、女なら誰でもいいんでしょ? じゃああたしと付き合ってよ」 「えっ、ダメダメ、なんで?」 「いっそのことじゃんけんにする? 瀬野はどっちでもいいんでしょ?」  こいつは俺が好きだから付き合いたいというよりも、ただ、振られて傷つけられたプライドを修復しようとしている。そう感じた。 「カズ」  時生が情けない顔で俺を見る。助けるつもりが、状況を悪化させた。ごめん、と唇が動いたのがわかった。頭を掻く。 「俺は」  言葉を切って、教室を見回した。みんなが見ている。息を呑んで、次の言葉を待っている。 「俺は誰とも付き合わない」  席を立った。鞄をつかんで時生の体を押し退けた。 「カズ、待って」 「帰る」  全員の視線を浴びながら、教室を出た。廊下には大勢の野次馬がいて、面白そうにニヤニヤしていた。ガン、と腹いせにドアに蹴りを入れ、振り返らずに校舎を出た。  やり場のない怒りをなんとかして鎮めたい。このままだと人を殺しかねない。  早足で歩道を歩いていると、ドン、と肩がぶつかった。普通のサラリーマンだった。携帯を耳に当てながら、俺に一瞬目をくれただけで詫びの一つもなかった。イライラが頂点に達した。 「待てよ、おっさん」  肩をつかんで脚を止めさせた。携帯を握り締めながら、「なんだ、キミは」と間抜けな科白を吐いた。 「肩ぶつかっただろ」 「なんだ、それくらい。お互い様じゃないか」  俺の手を振り払って去っていく。 「瀬野先輩、待って!」  怒りが爆発する寸前、背後から翼の声が呼び止めた。振り返る。息を切らした翼が、潤んだ目で俺を見上げていた。 「よかった、さっき、教室に行ったら、帰ったって……」  こいつも早退したのか。鞄を胸に抱いてもじもじとうつむいた。 「ごめんなさい。迷惑、ですよね……。でも僕、どうしても話したくて」  見下ろして、「俺も話がある」と言った。  翼はぱっと顔を上げると、安堵したように、嬉しそうに、笑った。  どこで話そう、と考えたとき、選択肢は一つしかないと気づいた。平日の、学校のある時間帯に外をうろつくのはまずい。だから、自宅に呼んだ。  きょろきょろと珍しそうに部屋の中を見回している。リビングにはピアノがある。母さんの商売道具だ。どうやらそれが気になっているようだ。 「お母さん、ピアノの先生なんですよね。瀬野先輩も弾けるんですか?」 「まあ普通に」 「すごい、カッコイイ」  声を震わせて、モジモジしながら見てくる。 「座れば」  ピアノに寄りかかって言った。 「あっ、はい」  二人がけのソファに、ちょこんと腰を下ろす。  シン、と間が空いた。翼は黙って俺の言葉を待っている。話したいと言ってきたくせに、俺から言わないといけないらしい。  何を言えばいい?  どの話題が正解だ?  告白に対する断りか?  電話越しに情事を聞かせたことに対する言い訳か? 「あの」  痺れを切らしたのは翼のほうだった。 「昨日のことですけど」  どっちだ? どっちの、「昨日のこと」だ?  身構える。  翼はうつむいて、膝の上で両手の拳を握り締め、「ごめんなさい」と謎の謝罪を口にした。 「……何が?」 「あの、僕、学校であんなこと言って」 「そっちかよ」 「そっちって……」 「電話、聞いてたんだろ、最後まで」 「え、あ……」  翼の顔が、赤く染まった。咳払いをして「あの電話の意味、わかってんだろ?」と直球を投げた。 「あ、あの、それは……」 「そういうことだけど、それでもまだ俺が好きだって言えるのか?」  翼は口ごもると、真っ赤な顔のままで俺を見た。 「す、好きです」 「俺は多分、お前が思ってるような奴じゃない。だからとっとと忘れて別の奴を探せよ」 「僕っ、僕は瀬野先輩のことが好きですっ!」  翼にしては迫力のある顔で叫んだ。俺から目を逸らさずに、涙目で、訴えてくる。 「僕、昔から男の人しか好きになれなくて、そのことで悩んだりしました。告白して、気持ち悪がられて虐められました。でも、瀬野先輩は違った。僕のこと、普通に扱ってくれて、嬉しかった。やっと見つけた、この人だ! って、運命の人だって、勝手に思っちゃったんです」  勝手に、とは言い得て妙だ。本当に、まさに、「勝手に」だ。俺は断じて、翼の運命の人じゃない。 「クラスの男子に、オカマってからかわれて……、昨日のあれは、毎日のことなんです。毎日、オカマって、叩かれるんです。それで……」  ここでようやく翼が目を伏せた。涙がこぼれ、膝で握り締めた拳に落ちたのが見えた。 「瀬野先輩に、相手にされてないって、ストーカーだって言われて、僕、僕には全然、本当に、望みがないのかって、瀬野先輩は優しいから、僕を助けてくれるんじゃないかって」 「わかった」  翼が顔を上げる。顔も目も、赤かった。 「ちゃんと言ってやればよかったんだよな」  涙を拭おうともせずに、期待した目で俺を見る。 「よく聞け。お前には、望みがない。俺はお前を助けてやれない」 「でもっ、でも、先輩、男の人と」 「男とヤッてるから男のお前とも付き合えるって? そう言いたいのか?」  あまりにも短絡的過ぎて呆れた。 「僕、二番目でもいいです。先輩がしたいこと、僕、なんでもします。なんでもできます」  翼が腰を上げた。必死の形相が、怖い。 「やめろ、こっち来んな」  制止も聞かずに距離を詰めてくる。 「あの人が好き? あんなふうな、大人の男の人が、好きですか?」 「違う、あんな奴、大嫌いだ」  咄嗟に激しく否定してしまった。翼が不思議そうに首を傾げる。 「え……? 嫌い、なんですか? でも、じゃあ」  短い思考の末、翼がパッと笑顔になった。何かが吹っ切れたような表情だった。 「僕でもいいってことですよね」  まるでホラーだった。迫られて、飛びかかってくる翼を、避けられなかった。  胸に抱きつく小さな体は、熱かった。やけに熱い。翼が、胸板に頬をすり寄せる。 「瀬野先輩、好き、大好きです。僕、頑張ります。頑張って、瀬野先輩のこと、気持ちよくさせたい」  翼の小さな手が、股間に触れた。 「あっ……、すごい」  つぶやいて、はあっ、と熱っぽい息を吐き出した。先輩、先輩、と泣き声で言いながら、手のひらは股間をまさぐり、全身を、猫のように擦りつけてくる。  気味が悪かった。身震いをして、叫ぶ。 「やめろ……っ!」  とにかく不愉快で、おぞましくて、俺は翼を全力で突き飛ばしていた。小柄な体は簡単に吹き飛んだ。 「気持ちワリィんだよ、二度と俺に触るな!」  床に這いつくばる翼が、ゆっくりと起き上がる。まるでゾンビのようにふらつきながら、「ひどい」とつぶやいた。 「僕、気持ち悪いですか?」  大粒の涙が溢れていた。冗談みたいな涙が、頬を伝って何粒も落下した。絨毯に、二滴、三滴とシミができる。 「瀬野先輩、僕のこと嫌い?」  答えられなかった。好きじゃない。嫌い、とまでいかない。  迷っていると、翼が部屋を飛び出していった。  玄関のドアが開いて、閉まる音。  口を押さえ、吐き気を堪えた。  ひどいことを言った自覚はある。でも、どう考えても、俺は被害者だ。  なんなんだよ。  憤りが収まらない。  リビングをうろついていると、見慣れないものが目についた。翼が鞄を忘れている。知ったことか、と思わないでもなかったが、取りに戻られるのも気まずい。  後を追うことにした。  外に出て、右、左と確認した。翼の姿は見当たらない。  どっちだ。どっちでもいい。右を進む。走った。走りながら、翼がいないことを願う。明日学校で渡すのも面倒だったが、ロッカーにでも突っ込んでおけばいい。  そんなことを考えていると、キャー、という悲鳴が聞こえた。通行人の女が口を押さえて上を見ていた。道を行き交う人間が、みんな立ち止まって視線の先を見ていた。 「翼……!」  陸橋に、翼がいた。身を乗り出して、今にも転げ落ちそうだ。数メートル下は、車が猛スピードで走っている。落ちれば、死ぬ。  俺は全力で走った。通行人を突き飛ばして階段を数段飛ばしで駆け上がる。 「やめろっ」  叫んだ。走りながら叫んだ。翼の目が俺を見る。目の周りが真っ赤だった。 「瀬野先輩……」  陸橋の柵を乗り越えて、向こう側にいる翼は、死んだ魚の目をしていた。 「何考えてんだ。こんなとこで死んだら、どんだけ人に迷惑かけると思ってんだよ」  翼はスッと表情を消してから、大笑いに近い、見たことのない笑い方をした。けたたましく笑ったあとで、はあ、と息をつく。 「僕のことは心配してくれないんですね。ひどい……、瀬野先輩、本当にひどい」 「わかった、悪かったよ、俺が悪かった。だから、やめろ、こっち来い」  手を差し伸べたが、翼はふるふると頭を振った。 「僕、もう、生きてられない。先輩に嫌われたら、死ぬしかない。好きなんです。頭が変になるくらい。先輩のこと」  儚げに笑って、翼は顔を歪め、うつむいた。 「くだらねーよ」  吐き捨てた。翼がビクッと顔を上げる。 「こんなことで死んだら、くだらねーだろ」  だから、やめろ、と続ける前に、翼の体が風に押されたように、揺らいだ。  全身から力が抜けたのが見えた。柵から手が離れる。  そして、落下した。  悲鳴とか、車のブレーキの音とか、いろんな音が耳に入ってきた。  下を見るのが怖かった。  ただ呆然と、立ち尽くしていた。
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