1話
全1/6エピソード・連載中
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「なー、カズ。付き合ってよ」 「付き合わない」 「そこをなんとか」 「しつこい。付き合わねーっつってんだろ」  軽く打っていたサンドバッグを、怒りを込めて弾いた。音を立てて大きく傾ぎ、グラグラと揺れる。時生ときおが「こえーっ」と甲高い悲鳴を上げた。  今日は朝から時生がうざい。知り合いの女が俺を好きだとかで、付き合ってみろと繰り返している。 「瀬野せの先輩、女子にモテるのにどうして誰とも付き合わないんですか?」  部室の隅で、椅子に座って本を読んでいたつばさが訊いた。 「興味ないから」  短く応えて、揺らいでいるサンドバッグに蹴りを入れる。 「でもカズ、中学んとき付き合ってた子いたじゃん。あれ? あの子なんて名前だっけ」 「知らねー」  思い出したくもない。女の名前も顔も記憶の底に沈めた。俺がその話題を苦手としていることを知っている時生は、それ以上続けなかった。  天井からぶら下がったサンドバッグは、布が破れて中身がはみ出している。そろそろ限界かもしれない。揺れて泣いているそいつを抱き止めて静止させると、最後に強烈なソバットをかました。すっとした。 「帰る」  呟くとリングの上から鞄を引っ張って肩に担ぐ。 「あ、病院?」 「そう、お先」 「待ってよ、俺も帰る」  読んでいたエロ本を鞄に突っ込むと時生が俺の背中に飛びついた。 「じゃあ僕も帰ります」  翼も慌てて俺の後に続く。俺たちは三人並んで部室を出た。鍵をかける必要もない。木が腐って穴の開いた戸を閉める。冬は風が入って寒くてかなわないこの穴は、夏は換気にもってこいだ。  入り口に「ボクシング部」と書かれた板がかかっている。それは斜めに傾いていた。うちの部にぴったりの傾き具合が笑える。  部員が三人のうちの部は、実は部ではなく同好会という肩書きでなんとか存在を許して貰っている。一応リングもあるが、過去の遺物だ。数年前までは学校の誇りだったらしいが、今はこの通り寂れている。  ボクシング部は終わっていた。誰も、ルールすら知らない。  俺はただの乱暴者で、人間に見立てたサンドバッグを叩いてみたり蹴り飛ばしてみたりしているだけ。  時生は人を殴ったこともない平和主義者で、エロ本片手に何組の誰それが可愛いだの美人だの、女のことを語っているだけ。  翼は俺をうっとりした目で眺めるだけ。  それぞれが腐った青春を謳歌している。 「おばさん具合どう?」  時生が訊いた。 「順調」 「早く退院できるといいですね」  翼が俺の顔を覗き込みながら言った。 「僕、考えたんですけど、瀬野先輩、今家に一人なんですよね」 「来んなよ」  先制で牽制する。 「でも、一人だといろいろ大変でしょ? 僕、面倒見てあげます」 「いいって」 「お料理得意だし、お洗濯もできるしお掃除だって好きだから」  いちいち頭に「お」をつけるのが不気味だ。 「いらねーよ」 「夜は添い寝してあげます」 「やめろ、変態」  くっついてくる翼の頭を押し退ける。通行人が睨むのも構わずに時生が腹を抱えて爆笑した。 「じゃー、また明日な」  時生が手を振る。バス停の前で俺たちは別れた。翼が名残惜しそうに何度も振り返るのを時生が引きずっていく。  やれやれ。  ようやく息をつける。  携帯で時間を確認した。病院に着くと四時半。一時間は病室にいるし、帰って夕飯を作る時間もない。たとえ時間があっても料理なんてまともに作れない。牛丼屋でも寄って行くことにした。  こんな生活が、数日続いている。母さんが入院したのは先週のことだった。  ピアノ教室の講師をしている母さんは、生徒と保護者を含めたメンツでバーベキューに出かけた。「気をつけろよ」と言うと、「心配ならついてきて」と笑っていた。俺は子どもが苦手だった。母さんもそれを知っているし、ただの冗談だった。  でも、ついていけばよかったと後悔することになる。  川で遊んでいた子どもが溺れて、それを助けた母さんが、意識不明で病院に運ばれた。警察から電話があったとき、いたずらだと思い込み、罵詈雑言を浴びせて受話器を叩きつけた。二度目にかかってきた同じ電話で、本物の警察からだと気づいた。そのあとどうやって病院に駆けつけたのか覚えていない。  母さんが死ぬと、俺は一人になる。父親がいないからだ。  両親が離婚したのは俺が五歳のときだった。離婚の原因は知らない。父親の顔さえ覚えていない。名前も忘れた。父親が今どこでどうしているのかも知らない。生きているのかもわからない。また、知りたいと思わなかった。母親が父親の役割も果たしてくれたから。俺には母さんがいるから父親はいらない。それほど、俺には大切な存在だった。  母さんが目を覚ましたのはそれから二日後。俺はいい年こいて泣き声を上げて、ベッドの上の母さんに抱きついた。  いなくなると思うと、怖かった。 「ちゃんとご飯食べてるの?」  備え付けの小さなテレビを眺めながら俺は空返事する。 「でもご飯の炊き方わからないでしょうに」 「それくらいわかるって」  わからないから炊飯ジャーは母さんが家を出たときのままだ。中身がどうなっているか見るのも怖い。何か別の物体に生まれ変わっていることだけは確かだ。 「掃除は? 掃除機どこにあるかわかる?」 「あー、掃除はしてねー」  やっぱり、と嘆いた。 「早く退院しないと家がめちゃくちゃになるわ」 「大丈夫だって、余裕だよ」  いざとなったら翼にやらせようと思っていた。あいつなら喜んでやるだろう。 「で、退院はいつ?」 「来週には出られると思うんだけど」  そうか、と素っ気なく応えながら、安堵で顔が笑う。 「ねえ、カズ君。だから毎日来なくていいのよ。学校から病院まで遠いでしょう」 「別に。そうでもない」 「病院から家までだって遠いのに……」 「なんだよ、俺に来て欲しくないのか?」 「そんなこと言ってるんじゃないの」 「好きで来てんだからほっとけよ」  そっぽを向く俺を見る母さんの柔らかい視線を感じながら、なんとなく居心地が悪くて立ち上がった。窓に寄りかかって外を見た。もうそろそろ夏だ。 「毎日偉いわねえ、息子さん。うちの息子なんて頼んだって来てくれないのに」 「こんな息子私も欲しいわあ。りんご食べる?」  同室のおばさんたちが口々に言い、皮をむいたリンゴを差し出してくる。俺は首を振って遠慮した。 「ええ、この子は私の誇りなんですよ」  慌てて母を睨んだ。誇りになるようなことは何もしていない。身内自慢を始めようとする母に俺は早口で言った。 「もう帰る。おやすみ」  ポンと肩を叩いて囁く。同室のおばさんがシュークリームやら果物やらをやたらと持たせようとするのをかわして病室を出た。  妙に疲れた。  エレベーターに乗り、反応の鈍い「閉」ボタンを連打していると、扉が閉まる直前にガッと手が割り込んだ。人が強引にドアをこじ開けて入ってくる。白衣を来た若い医者だ。  ばっちりと目が合った。視線を逸らさずに、医者はにこりと微笑んだ。俺は曖昧に頭を下げ、目のやり場に困り、階数を示すパネルを見上げた。 「一騎かずき君、だよね」  驚いて医者を見た。医者は目を細めて俺を見ていた。母さんの担当医は別の医者だ。この医者とは初対面のはずだ。 「はあ、そうすけど」 「大きくなったね」 「え?」 「私は織田おだというんだ。織田立人りつと」 「はあ?」  なんでいきなり自己紹介なんだ? 「君は昔、織田という名字だったんだよ。覚えてない?」  ぎし、と体が強張る音が、聞こえた。 「五歳まで織田一騎だった。今は瀬野一騎」  まさか。 「私は君の父親だよ」
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