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販売機はいわゆるガチャガチャのような形をしていて、しかしいつからそこにあるのかわからないくらいプラスチックが劣化していた。緑色だったであろう本体の色は白っぽく変色し、「さかなのえさ」、「100円を入れてください」と書かれた年代を感じるフォントの文字はかなり薄くなっている。脚の部分はスチールだが、錆びてボロボロになっていた。
現役で使用されているものであれば、ハンドルや取り出し口などの一部の部品が新しいものに交換されていてもいいような気がするが、その販売機は部品がすべからく同じように劣化していた。
この販売機は、使用できるのだろうか?
私は背負っていたリュックサックの中から財布を取り出した。一円や10円に埋もれて一枚だけ100円玉があった。お札の入っているところを確認すると、一万円札が一枚。
もし休日ならば、他の親子が何組もいて、誰かがこの販売機を使用しているところを見ることができたのだろうが、平日の今日はこの池の周りには誰もいない。販売機に近づく人を待っていてもいつになるかわからない。かといって遠くにある管理棟まで聞きにいくというのも現実的ではない。そんなことに息子を付き合わせれば、せっかくの彼のご機嫌が斜めになってしまうだろう。よって、この販売機に100円を入れるか入れないかは、自分で選ぶしかないのだ。
私は100円玉をつまんだはものの、そこから動けなかった。
もしお金を入れてハンドルを回して餌がでてきたなら、それだけだ。ホッと一息ついて、笑顔で息子のところへ歩き出せる。
問題は、出てこなかった場合である。
ハンドルが回らないかもしれない。よもや回ったとしても、物が下に落ちてこないかもしれない。そのときの虚しさ、羞恥心、「やはり」という後悔の念に、果たして耐えられるのだろうか。
いや、それどころか、100円玉は入口でつかえて下に落ちないかもしれないし、落ちてきた物も途中でつっかえてしまうかもしれない。そうなったらさらに目も当てられない。きっと、どうして?! と投入口を覗き込んだり取り出し口に手を突っ込んだりと取り乱すに違いない。側からみれば何をやっているのかという滑稽な図が展開されるだろう。もしかしたら、突っ込んだ手が抜けなくなって、しかしそんなことなぞ御構い無しに息子が次の興味対象物を見つけて歩き出してしまうかもしれない……!
そんなときに限って、たまたま近くを通る親子がいるかもしれなくて、その親子はきっとこう思うに違いない。あの人は何をしているのだろう、あんな古びた販売機を使えるとでも思ったのかしら、あーあ子供をみないで親は何をやってるんだ……という外野の心の声が、好奇の目が、きっと襲いかかるに決まっている。そんな事態に私は耐えられるのか。
そんなことより、そもそも「100円」という毎日私が働いて稼いだお金をこんなところで使うのが得策なのだろうか? たかが100円かもしれない。しかし、されど100円である。私が労働しなければ一銭も手には入らないのである。こんなたかが鯉の餌のために、対価として大事なお金を使うことに果たしてそれだけの意義があるのだろうか。
ここで使わずに取っておいた方がいい、ということだってある。なぜなら、この100円玉のほか、財布の中には一万円札と10円玉、1円玉が数枚である。ここで100円を使ってしまうと、自動販売機でジュースを買うことすらできなくなってしまう。なぜなら、自動販売機では一万円札を使うことができないからだ……!
一人時間が止まったかのような宇宙空間から私を連れ戻したのは、息子の声だった。
「ママみてー!おさかなさんがいっぱいだよー!」
弾けんばかりの満面の笑みをこちら息子が、水面を一生懸命指差している。
私は100円玉を投入口に押し込んだ。
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