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 今日は久しぶりに沙苗とカラオケに行く約束をしていた。いつも遅刻寸前の私は珍しく、少し早めに家を出たのだが、電車が遅延して結局ギリギリになってしまった。私は駆け足で密度の低い雑踏を駆ける。  梅雨の時期に差し掛かってきたので、天気予報は雨だった。今は曇天が広がるばかりだが、帰る頃には降っているかもしれないな、と他人事のように思った。 私は待ち合わせ場所に近くなってから黒縁の伊達メガネを掛けた。この方が沙苗に喜ばれるからだ。私はスマホで時間を確認すると、いよいよ待ち合わせの時間が迫っていた。私は慌ててスピードを上げる。  予定の場所に着くと、沙苗はもう既に到着していた。沙苗は黒地に花柄のワンピースを着ていて、手首にはお洒落な時計があった。遠くから見ても沙苗は可愛いな、なんて思ってる自分がいて我ながら気持ち悪い。私は邪念を振り払って、スマホに視線を落としている沙苗に声を掛ける。 「沙苗、お待たせ」 「累!今日もカッコいいね!」  挨拶のハグ。沙苗の細い腕が背中に回る。 分かっていても、やっぱりドキッとしている自分に心底嫌気が差した。 「あ、ありがと」 「でも、相変わらず待ち合わせにはギリギリだね」  そう言って私に笑いかける沙苗はやっぱり可愛かった。 「あとでなんか埋め合わせするよ」 「えー別にいーよ。それより早く行こっ」  沙苗に腕を掴まれ、私は近くのカラオケに入った。沙苗が店員さんとテキパキ話をして、伝票を受け取るとボックスに通される。エレベーターを待つ沙苗は鼻歌を歌っていて、よほどカラオケを楽しみにしていたようだった。 「よーし、歌いまくるぞ~‼」 「喉が枯れない程度にね」  沙苗はマイクを持つと最近お気に入りだと言っていたアニソンを歌う。その後私は同じアニメのエンディング曲を歌う。その次の沙苗は二期のオープニングを、私は挿入歌を、といった具合に歌っていく。アニソンの次は流行りのアーティストの曲を順番に歌う。 沙苗の声は透き通るような声で聴いていると不思議と安心する、そんな声だった。高音が特に綺麗で感情的な声が私は好きだった。 一方の私はアルトよりもテノールに近い声で、世間で流行っているような女性アーティストの高音は全く出なかった。それでも、沙苗が「イケボじゃん」と言ってくれるので、そんなに自分の声は嫌いじゃない。 時間はあっという間に過ぎて、高校生は市の条例により追い出される時間になる。私と沙苗もそれに従って大急ぎで精算を済ませ、外に出る。夏に近付いている証なのか、外はまだ明るかった。夕焼けの先に入道雲が見えた。 「あー楽しかったー‼」 「うん。久しぶりに歌ったけど、気持ちよかった」  それなら良かった、と沙苗がはにかむ。途端、私は鈍痛に似た何かを感じて、口をきゅっと結ぶ。言葉では言い表せない靄のような感情だった。 「累のとこの学校はどう?楽しい?」 「うーん。まあ普通かな」 「そっか」 「沙苗は?」 「同じ中学の人がほとんどだからね。あんまり代わり映えしなくてつまんないよ」  私と沙苗は中学の時に通っていた英会話スクールで出会った。これまで一度も同じ学校に通ったことはないのに、不思議と今でも仲がいい。明確に決めているわけではないけど、年に数回遊ぶ。あとはチャットのやり取りくらいだが、他人とのコミュニケーションを面倒くさがる私にしては、密な付き合いをしている方だった。 「じゃあ私こっちだから、またね累。あとでメールしよ」 「勿論!じゃあね」  私は帰りの電車で財布の残金を確認する。思った以上に今月は厳しそうだ。何回も遠出してるから仕方ないことだった。 来月は控えめにしよう。 私は心の中で折り合いを付けて、財布をカバンの中に仕舞う。 電車が大きく揺れる。近くにいたサラリーマンは寝入っていたようで、前のめりになる。ネクタイがてろん、と揺れる。 サラリーマンのネクタイを見ると、私はいつもいいなぁ、と思う。女性がスーツを着る時はネクタイはしない。でも、男性はネクタイをする。だから私には女性の襟元がどうしても、心もとなく見える。女性も同じように、ネクタイを付けられたらいいのに。 気楽な週末は終わり、明日は学校だ。私はブレザーの制服を着て、リボンを付ける。 やっぱり沙苗と同じ高校にするべきだった、と私はひとり溜息を吐いた。 「累ー?」  私は徐に瞼を押し開けた。 霞む視界にドアップで映り込んできたのは、友人の桑原加奈子だった。彼女の蛍光黄色のゴムで結わえられた黒いツインテールが揺れる。 どうやら教室でうたた寝をしていたらしい。変な姿勢で寝ていたから、やたらと首が痛かった。掌でさすりながら時計を見ると、昼休みが残り十分しかなかった。私は手を組んで、頭上へと動かし、伸びをする。そんな私を見て加奈子が苦笑する。 私は傷だらけの机の横に取り付けられているフックから弁当を外して机上に運ぶ。 包みを解きながら加奈子に「加奈子、ご飯は?」と訊いた。すると、「累が寝てる間に食べましたー」と不機嫌を装った声で加奈子は言った。仕方ないので、私は加奈子の横で弁当を広げる。 「そういえばさ、さっき隣のクラスの小野寺知希、って人が累に会いに来てたよ。なんか話があるんだって」 「ふーん」  私は黙々と白米を口に運ぶ。 「え、累行かないの?」 「うん。無視無視。今はご飯の方が大事」  私が大真面目に言うと加奈子がまた苦笑した。 「どんな人か知らないけど、小野寺くん可哀想」 「そう?」  時計を再び確認するともう五分も残っていなかった。私は小野寺知希と自分の健康を無視して、ご飯を大急ぎで胃袋に押し込む。結局、時間内に食べ終わらなかったので、放課後、加奈子に文句を言われながら残りを食べた。  私が弁当を食べ終わると加奈子は部活に行くというので、階段の前で私達は別れた。私は部活に所属していないので、このあとは何もない。 早く家に帰ろう。 そう思ったら自然と速足になる。秒で靴を履き替えてガラス張りのドアを開け、外へ出た瞬間だった。 百六十五センチある私より十センチ近く小さい女の子が私の前に立ちはだかった。私は露骨に眉を顰める。 「村谷累だよね?ちょっといい?」 「……今忙しい」 「何それ。あんたに拒否権なんてないし。早く来なよっ」  その小さい体のどこから湧き出るのか、彼女は力強く私の腕を引っ張る。抵抗しようと思っても、そんな気力もない私はあっという間に体育館の裏に連れてこられてしまった。体育館に夕陽が当たって出来た影の中に入ると、彼女は私を乱暴に離した。 「あんた、知希とどんな関係なの?」 「……ともき?」  心当たりがなかったので、私はオウム返しをした。 「だから小野寺知希よ!知らないなんて言わせないからっ。あんたは寝てたみたいだけど、知希はずっとあんたが来るのを待ってたのに!」  そう言われてようやく、彼女の言う知希が誰なのかを理解した。私は無駄だとは思いつつも、一応彼女に反論する。 「私は小野寺知希とやらを同級生としては認識してるけど、よく知らないよ」 「嘘よっ」  だからなんで、嘘だって決めつけんの。 そう言おうとした時、何かが空を切るような音がした。それは綺麗な曲線を描いて、彼女の前に落下した。彼女は女の子らしい短い悲鳴を上げると、「危ないじゃないっ」と声を荒げる。 「あ!ごめん!大丈夫?」  夕陽のせいでよく見えなかったが、声を聞いて確信した。 「知希……⁉どうしてここに?」 「お、上尾じゃん。何してんの?あ、もしかしてマネージャーの仕事サボってた?」 「え、えーっと、この人、」  彼女が救いを求めるような目で私を見た。私には彼女を助けなければならない義理など欠片も無かったが、ここは恩を売っておいた方が良さそうだ。 「村谷」 「そう!む、村谷さんとちょっと雑談してたの!」 「ふーん。そうなんだ」  彼がニヤニヤしながら頷いた。 彼は彼女、上尾の言うことが嘘だと分かった上で、この茶番に付き合っているのだ。彼の目は、「貸しイチな」と言っていた。私は小さく舌打ちをする。 「じゃあ俺、部活に戻るから。上尾も早く部活戻って」  一方的に宣言して、ボールを回収すると彼は、颯爽とグラウンドに戻っていった。その後ろ姿を上尾は恍惚とした表情で見つめていた。 この時初めて私は、上尾が彼を好きなんだということに気が付いた。モテるんだなあいつ。私はぼんやりそう思った。
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