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 予定より一本遅い電車に乗って帰宅する。  家には誰も帰って来ていなかった。よく考えれば当たり前だ。母は高校時代の友人と旅行、父は急遽出張、大学生の兄は連日連夜研究室で寝泊まり。よって今日はひとりなのだ。  放っておかれるのには慣れている。  誰もいないことを良いことに、自室で制服を脱ぐとそのまま風呂場に直行する。  シャワーの温度を限界まで高くする。頭から熱いシャワーを浴びている時だけは、何もかも全て忘れることが出来た。息をすることさえ忘れて、一心不乱に熱湯を浴びる。段々、熱気のせいで頭が朦朧とする。そうなったらお湯を止めて身体を洗い、五分もしないうちに風呂場を出る。  タオルで身体を拭いながら全裸のまま部屋を闊歩する。  冷蔵庫を開けて、二リットルペットボトルの麦茶を取り出す。コップを出すのが面倒だったので、口を付けないように気を付けつつ、直接喉に麦茶を流し込む。一瞬にして喉が潤う。その感覚に満足して自室に舞い戻る。  パジャマ代わりのTシャツと短パンを探している時、ふと全裸の自分の姿が鏡に映っていることに気が付いた。クローゼットに突っ込んでいた手を引き抜き、鏡と向き合う。  男の子にみられてもなんら不思議はないほど短く刈り込まれた髪。  百六十五センチに届くか届かないといった微妙な身長。  胸は大きくもなければ小さくもない。  腰は少し括れ始めたといった感じ。  どちらにもなりえる、中途半端な姿がそこにはあった。  こんな姿を見てしまうと余計に迷いが生じてしまう。鏡に映る自分を避けるように、服を身に纏う。食欲も失せてしまった。皺だらけのベッドに倒れ込み、目を閉じる。自然と意識は消えて行った。  学校における一番好きな時間は、多分昼休みだと思う。ただし、時と場合によっては一番苦手な時間にもなりうるリスキーな時間。 加奈子とゆっくり話ながらご飯を食べる。それは私にとっても至福の時間であった。だが、昼休みというのは女子同士の戦争の時間でもあるのだ。 「加奈子!この前は楽しかったねー!」 「あ、杏那」  ひと際騒がしい女子の集団からひと際けばけばしい女子が近寄って来た。 名前は福園杏那。私よりもはるかに交友関係の広い加奈子の友人のひとりだ。校則違反の化粧は勿論のこと、髪も控えめではあるが茶色に染めている。 私の中では、彼女のような女子は最も苦手なタイプに分類されるが、彼女たちは女子というものを代弁しているような気がしてならない。私はあまり交流が無いが、観察の対象としては多少興味があった。 もし私が女の子になるなら、彼女のようにならなきゃいけないんだろうか。 「あのクレープ屋ほんと美味しかったよね!また行こう!」 「いいけど、今度はカラオケに行くんじゃなかったの?」 「じゃあどっちも行く!加奈子もちゃんと来てよね!」 「うん」  福園杏那は私の存在を完全に無視して加奈子と会話を繰り広げる。 福園杏那は加奈子を私から引き離したいらしい。最近私に対する扱いが酷くなっている気がする。強がってるわけじゃないけど、そんなに会話の内容に興味が無かったから私はずっと黙っていた。女子たちの間で延々と語られるこの手の会話はどうも苦手だ。どこどこのスイーツ屋が美味しいだの、なんとかっていう俳優がカッコいいだの。私には全く理解出来なかった。 「じゃあ来週の土曜日ね!」  彼女はそう宣言して、元の女子グループに帰って行った。加奈子は失笑しつつも、それを受け入れていた。これも私には出来ない芸当だ。そういう面において、加奈子は本当にすごい。私は心の中でそう呟いたはずなのに、加奈子は、 「累にも出来るよ。累の場合はやろうとしてないだけでしょ」 と私の目を見て言った。加奈子らしいと思った。それと同時に少し胸が痛かった。  加奈子がクレープ屋に行くと言っていた土曜日を避け、日曜日に僕は再び、街に繰り出していた。  今日は男物の服を買おうと思ったのだ。家の周りはほぼ田んぼだから、服屋はなかった。だから僕は高い電車代を払って、学校のある街までやって来ることにしていた。  昼時だったので、昼食を食べに外に出たサラリーマンを多く見かけた。クールビズの期間のようで、ネクタイをしている人は少なかった。  買い物を済まし、駅に向かおうと歩いていた僕は思わず立ち止まった。反対側の歩道を歩く女子グループに見覚えがあった。一瞬で筋肉が硬直する。  僕は見間違いの可能性を信じて、反対側の歩道を凝視する。向こうからこちらに向かって歩いてくるのは、確実に加奈子と福園杏那の集団だった。恐ろしく煌びやかな集団を見間違えるなど有り得ない。僕の脳味噌は完全にオーバーヒートしていた。  呆然と立ち尽くしているといきなり誰かに右腕を引っ張られた。身体のバランスを崩してしまい、ふらついた瞬間、一気に路地裏へと引き込まれる。背後にいる人物の顔を見ようと僕は振り返る。そこにいたのは、不気味な笑顔を浮かべた小野寺知希だった。 「いやあ、危なかったね。今日は出歩かない方がいいんじゃん?」 「……かもね」 「じゃあとっておきの隠れ家があるよ。付いて来て」  鼻歌を歌いながら小野寺知希は、細い路地の奥へと歩き出した。彼に僕は素直に付いて行くことにした。  気付かれないだろうと思っていても、やはり知っている人と男装しているこの状況では会いたくなかった。かと言って小野寺知希を信用しているわけでもない。変なところに連れていかれたらどうしよう、という不安は僕に付きまとう。  僕は疑いつつも彼の背中を追う。彼は全く迷いのない足取りで、細く入り組んだ道をずんずん進む。十分くらい歩いたところで、彼は立ち止まった。彼の視線の先には、木造の大きな一軒家。ところどころ色が落ちていて、家自体もいつ潰れてもおかしくないような外見だった。 「…ここは?」 「俺の家」  何言ってんだこいつ、と思っているのに驚きが勝って口が動かなかった。そんな状態の僕をよそに、彼は当たり前のように家のドアを開け、僕を招き入れる。僕は躊躇う。 「何してんの。早くしないと桑原さんたち来るかもよ?」  僕は渋々、彼の家の敷居を跨いだ。中は控えめに言っても、綺麗ではなかった。靴を脱いで木で出来た床に足を降ろす。ギィと軋む音がした。  僅かな緊張と不安で今まで気が付かなかったが、微かにピアノの音が彼の家の中に流れていた。その柔らかい音色は、二階から流れてきているようだった。 「光希?居んのー?」  彼が階段の下から二階に向かって叫ぶ。するとピアノがぱたりと止み、代わりに子供の足音が頭上に響く。僕は音のする方へ視線を向ける。 「お兄ちゃん!」  パジャマ姿の男の子が階段を駆け下りてくる。くりっとした目の可愛らしい男の子だった。階段の最後の段を飛び降りると彼に抱き着く。彼は驚きつつも、光希という男の子を抱き止める。感動の再会のようなシーンを目の当たりにして、僕は少しだけ彼に対する不信感が消えていることに気が付いた。 「お兄ちゃん、この人は?」 「村谷累といいます」 「俺と同じ学校に通ってるんだ。今日は遊びに来たんだよ」 「そっかあ」  折角、彼が帰って来たというのに僕に取られたと思ったのか、光希くんは少し表情を曇らせた。 「あ、あの。光希君も一緒にどうですか?」 「いいの?」 「はい!」  光希君は僕を気に入ったらしく、僕の手を引いて二階へと誘う。連れて来られた部屋は、左側に二段ベッドとピアノ、中心にローテーブル、右側に机が並んで二つある割と大きめの部屋だった。光希君は僕をローテーブルの近くに座らせる。遅れてやって来た彼は、オレンジジュースとクッキーを携えていた。 「さっきピアノ弾いてたのは光希君?」  僕が訊くと光希君はちょっと照れながら頷いた。 「上手だね」と僕が言うともっと顔を真っ赤にさせた。 「僕、ピアノ弾いてるからふたりはお話してて」  光希君は俯きつつ、僕と彼に向かってそう言った。僕はなんと返せばいいのか分からなくて、曖昧に笑った。対照的に彼は「ありがとう」と柔らかく微笑んだ。 「さて、今日は災難だったね」 「まあ」  僕たちは光希君のピアノをBGMに話し始める。
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