真紅の反逆

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真紅の反逆

 ポタポタと、雫が落ちる音がひっきりなしに響いている。  雨音なのか、それとも何処かから漏れ出した水なのか、あるいは俺の身体から流れ出るものか。  それを確かめる気力は、もう残っていなかった。  全身が、軋むように痛む。錆びた鎖で繋がれた両腕には、既に感覚が無い。  カビ臭い、牢獄のようなこの場所へ連行されて、どのくらい経ったのだろう。  纏っていた鎧は早々に剥ぎ取られ、代わりに今の俺が全身に纏っているのは、無数の痣と切り傷。  数刻に渡って俺を甚振り続けている男の一人が、嘲るように嗤いながら、容赦なく鳩尾へ拳を叩き込んできた。 「ぐっ……!」  木の枝が折れるような音と共に、胃液が喉をせり上がってくる。咳き込みながら床に吐き出した液体には、血が混ざっていた。  それを見て、尚も男たちは嗤う。俺を囲むように立つ四人の男たちの鎧には、揃いの紋章が刻まれている。  帝国人の証。  絶望的な状況だというのに、俺の口にもまた薄い笑みが浮かんだ。  恐れられている帝国の兵士たちが四人も、俺のような小者一人に張り付いているのが滑稽だった。  十歳になったばかりの頃。帝国軍の襲撃で家族を亡くして以来、ずっと復讐を誓って生きてきた。  十五で騎士団への入団を志願し、がむしゃらに剣の腕を磨いた。  それから三年が過ぎ、漸く俺は騎士団員としての命を受けた。 「隣国への侵攻を企てている帝国軍の進行を前方から阻み、応戦している隙を見て、騎士団長率いる本部隊が奇襲を仕掛ける」  精悍な副団長が淡々と作戦内容を説明した。  俺に与えられた任務は、先行部隊として帝国兵を足止めすること。───つまり、囮として捨て駒になれというものだった。  別に、それでも構わなかった。  例えこの任務で命を落とそうとも、せめて殺された家族の分、帝国の連中をこの手で葬ることが出来ればそれでいい。  指示通り捨て駒として帝国軍と対峙した俺は、次々と倒れていく仲間を視界の隅に捉えながら、無我夢中で五人の帝国兵を斬った。  六人目に向けた俺の剣が相手に届くよりほんの少し早く、脇腹に焼けるような痛みが走って、俺はその場に崩れ落ちた。  ───あと一人で、倍返しだったってのに。  霞む視界に、駆けてくる騎士団長の部隊が見えた。これで仇討ちにはなっただろうかと力なく笑ったところで、俺の意識は途切れた。命も、そこで絶えたと思っていた。  目が覚めたときには、見知らぬ場所に居た。  薄暗く冷たい、石造りの部屋の中で、俺の両腕は天井から伸びた鎖によって自由を奪われていた。  目の前には、帝国兵が四人。  ここはどこだと問う間もなく、連中からの暴虐が始まった。  単なる捨て駒で終わるはずだった俺は、しぶとく四人の兵士を足止めしている。  こんなことなら、鎧の下に爆薬でも忍ばせておけば良かった。ここで自爆でも出来れば、三倍の仇討ちになったのに。 「あぁ? なに笑ってんだてめぇ」 「とうとう気が触れたか」  傷だらけになりながら、声もなく笑う俺に向かって、一人がまた拳を振り上げる。  それとほぼ同時に、部屋の扉が重い音を立てて開いた。  硬い足音が室内へ入ってくる。  俺を囲んでいた四人が、揃って息を呑んだ。それを合図にするように、連中がサッと横並びに整列する。  少し遅れて顔を上げた俺もまた、突然現れたその姿に、愕然と重い瞼を見開いた。  血のように紅い鎧と、磨かれた剣先のように光る銀髪。鎧と同じ、真紅の瞳。  忘れもしない。  俺の家族を、町を襲った帝国軍の中に居た男だった。  ただ一人、返り血を浴びたような紅い鎧を纏ったその姿は、鮮明に覚えている。  あれから八年。  男の目許には小さな皺こそ出来ていたが、記憶の中にある姿とほとんど変わっていない。 「下らんことに時間を割くほど、暇を持て余していたとはな」  俺の方を一瞥して、低く吐き捨てる。  並んだ帝国兵たちは、「申し訳ございません!」と声を揃え、一糸乱れぬ動きで深々と男に向かって頭を下げると、そのまま逃げるように扉の外へ駆けていった。  どうやら男は、帝国兵の中でもそれなりの階級のようだが、そんなことはどうでも良い。  連中が無駄に生かしてくれたお陰で、思いがけない仇討ちの機会が出来た。  満足に動くことも出来ないこの状態で、さすがに屠ることは叶わないだろうが、せめて一矢くらいは報いてやる。 「貴様にも無駄な時間を使わせたな。すぐに終わらせてやる」  感情の無い声で言いながら、男が静かに腰元の剣に手を掛ける。それが振るわれたら、今度こそ最後だ。  男が剣を抜く一瞬の隙を突き、俺は渾身の力を振り絞って剣を握る男の手を蹴り上げた。  冷たいだけだった男の双眸が、初めて揺らいだ。  戦場で斬り付けられた脇腹から血が溢れ出るのがわかったが、それすらも爽快だった。  もう、足を上げる余力はない。最後の足掻きに、俺は曇り一つない男の鎧へ、血の混ざった唾を吐きかけた。  直後、左頬に衝撃が走った。脳天を強く揺さぶられるような感覚がして、視界が揺らぐ。  少ししてから痛みと共に口内にジワリと錆びた味が広がって、殴られたのだとわかった。  意識が遠のきかけたところを、叩き起こす勢いで荒々しく髪を鷲掴まれる。 「貴様、名は」 「……すぐ、終わるんだろ。お前に教える名前なんか、あるかよ」  肩で息をしながら睨みつける俺を見下ろして、男は「面白い」と唇を歪ませた。 「良い目だ。殺すには惜しい」 「お前に生かされるくらいなら、舌噛んで死ぬね」 「そうか」  短く答えて男が今度こそ剣を抜く。  このまま清々しい気分で眠れると、目を閉じた俺の耳に、布を切り裂く音がした。  反射的に再び目を見開く。  男の剣は、俺ではなく、紅い鎧の肩口から伸びたマントを斬りつけていた。  一体何を、と呆然とする俺の口に、細長く裂いた布が噛まされて、更に自由を奪われたことを知る。 「んん…───っ!」  喉の奥から声を絞り出しても、それは言葉にならない。  舌を噛むことも叶わず絶望する俺の目を覗き込んで、男が冷たく笑った。 「本当の絶望とはどういうものか、しっかりその身に刻み込め」   ◆◆◆◆  コツン、コツンと石床の上を、硬質な足音が規則正しいリズムで近付いてくる。  微睡みかけていた意識を無理矢理覚醒させて、俺は部屋の扉を睨みつけた。  ギィ…と鈍く軋みながら扉が開く。やって来た相手は、顔を見ずともわかっている。  真紅の鎧を纏った男は、拘束されたまま鋭い視線を向ける俺を見て、鎧と同じ色の瞳を物珍しいものでも見るように、ほんの少し見開いた。 「まだそんな顔をする余力があったか」 「うるさい。お前が俺を絶望させたいなら、死んでも応えたくないだけだ」  渇いた喉から掠れた声を押し出して吐き捨てる。口の拘束は、数日前には解かれていた。  男は毎日(といっても正確な日にちの感覚は既に無くなっているが)、俺の様子を見にやって来た。  最初の内はただその生存を確認するだけ、といった様子だったが、俺がしぶとく生き長らえていることを確かめ、言葉を奪っていた布を解いた。  それ以来、男はここへ来るたびに決まったことをする。それがわかっているから、俺は今日も男を睨み据えることを止めない。  そんな俺の視線を、ただ面白いとばかりに受け流し、男はいつものように俺の前髪を掴んで、強引に顔を引き上げた。  口許に、すっかり見慣れた濃紺の小瓶が宛がわれる。瓶の口からは、何度嗅いでも慣れない、ツンと鼻を突くような強すぎる薬草の匂いがする。  素直に俺が受け入れないことを知っている男は、容赦なく瓶の中の液体を俺の口へ流し込み、鼻と口を塞いだ。吐き出すことも叶わず、行き場のない液体が無理矢理喉奧へと流れ込んでくる。  ゴク、と俺の喉が上下したのを確認して、男はやっと俺の顔を解放した。 「……っ、ゴホッ!」  口の中が、苦くて渋い味でいっぱいになる。  この液体の正体は薬酒だと、男は言っていた。  相変わらずこの牢獄のような場所に繋がれている俺に、男は毎日それを与えにくるようになった。  それなりに効き目があるのか、こんな薄汚い場所に放置されているにも拘らず、飢えを感じながらもまだ男に憎まれ口を叩けるだけの力はあった。  自ら舌を噛み切る気が失せたのは、男の意図がわからないからだ。  俺を絶望させたいというなら、それこそじわじわと衰弱していく様を見届ければいい。  なのに男は口の戒めを解き、今は毎日こうして薬を飲ませてくる。  兵士たちへの口振りからすると、この男には連中のように、俺を甚振る趣味があるようにも思えない。 「……こんな真似して何になる?」  口端から飲み零した薬酒が伝うのも拭えないまま、男へ問い掛けた。  切れ長の双眸が俺を見下ろす。その目から、相変わらず感情は窺えない。 「お前の憎むものは何だ?」  問いに問いで返されて、苛立ちが飢えた腹の奧から込み上げる。 「そんなもの、お前に決まってる」  俺の返答を、男は鼻で笑い飛ばした。 「その程度か」 「……どういう意味だよ」 「俺を殺せば満足する程度の憎しみなら、期待外れも良い所だ」 「………?」  眉を顰める俺に、それ以上何も言う気はないのか、男は来たときと同じ足音を響かせて部屋を出て行った。  横目で見送った紅い鎧の後ろ姿が、子供の頃に見た姿に重なる。  俺たちの町が襲われ、家族が殺されたあの日、男は確かにあの場所に居た。ただ、俺の家族を殺めたのは別の帝国兵だった。  それでも俺が男の姿をハッキリ覚えているのは、一際目を引く真紅の鎧が、強く脳裏にこびりついているからだ。男が誰かに剣を振るう場面を見たわけじゃない。  帝国は憎い。その憎き帝国に、男が属しているのは間違いない。おまけに家族を奪われたあの場に居たのだから、あの男にも憎しみを抱くのは当然だ。  だが、俺の知る限り、鮮やかな紅い鎧を纏っている帝国兵は、あの男以外に見たことがない。それだけ奴が特別な存在なのかも知れないし、帝国の内情なんて俺は何もわからない。  男は俺に、「殺すには惜しい」と言った。  剣を一振りすれば呆気なく俺を屠れるはずの男は、それをしないどころか、俺に薬まで与えている。  ───アイツの目的は、一体何だ?  あの男が憎いというのは、心からの俺の本音だ。けれど、仮にあの男を殺したとして、それは本当に俺の望んだ仇討ちになるのだろうか。  俺の憎む帝国とあの男とは、果たして同じものなんだろうか。  今なら、いつでも舌を噛んで死ぬことも出来る。  自ら絶命した俺を見たら、あの男は何を思うだろう。そう考えて、自嘲の笑いが零れた。  息絶えた俺を見ても、男はさっきのように「その程度か」と一笑に付すだけだろう。  どうせここまで生き延びたのなら、せめてもう少し、あの男の真意を見定めるのも悪くない。やはり憎いだけの存在なら、刺し違えてでも殺す機会を窺えばいい。  奴が俺を生かし続けていることに何か理由があるのなら、俺は俺自身の為に、それを利用してやる。  ふと俯いた視界に映る俺の衣服は、自身の血で全身紅く染まっていた。気付けば男と同じ色を纏っていることにも、何か意味があるのだろうか。  仄暗い牢獄の中で、反逆の種が静かに芽吹こうとしていることを、俺はまだ知る由もなかった。
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