百足坂

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 お百堂――その社の由来を、祐二は知らない。特に知りたいと思った事も無かった。  田んぼがずらりと、民家がぽつぽつと並ぶ村の集落から、藪の中をひょろりと一本伸びる細い坂道は蛇行しながら山に繋がっている。見上げるような山脈の足元、青々とした山林の側面に突き刺さった坂道は、そこを境に階段へと切り替わる。山道を登る石階段は丁度百段。  百階段を登りきると、広場に出る。大人が十数人も詰めれば埋まってしまいそうな、小さな広場だ。周りの木々が頭上に悠々と伸ばした梢で、昼でもちょっと薄暗い。  その広場の奥にちょこんと鎮座している社が、お百堂である。  社の大きさは、中学生の祐二の胸辺りまでしかない。備え付けられた賽銭箱は黒ずみ、吊り下がった鈴は二つ合わせても祐二の拳より小さい。そこからでろんと舌のように伸びた紅白の布は、褪せて所々裂けていた。  お百堂の事は、村の人間でも「そういえば」と、たまに会話に上り、しかしすぐに別の話題に切り替わるぐらいの認識だった。  老人でもそんな物だから、今となってはお百堂の正式な由来を知る者は誰もいないだろう。  祐二は百足坂の入口から、お百堂のある山を見上げる。夜の闇の中で鬱蒼とした山林が黒々と鎮座し、まるで巨大な化け物を見ているかのようだ。  時計を見れば、夜中の十二時半。こんな時間に外出しているとばれたら、親は顔を真っ赤にして祐二を叱りつけるだろう。つい背後の村の方を確認してしまう。誰の姿も見えない事に、まずは安堵。再度前を向けば、目の前には広い藪とその中をぐねぐね伸びる坂道。山へと繋がるこの坂道に『百足坂』と名付けたのは“彼女”だ。理由は蛇行する姿が百足っぽいから。  祐二は「蛇坂」の方がそれっぽいと言ったのだが、“彼女”は全く聞く耳を持たず、「百足坂」「百足坂」と度々その呼称を使ったので、祐二の中でもいつの間にか「百足坂」で認識が固まっていた。  確かに、この道にはよく百足が出没する。最も、出没するのは百足だけではなく、色んな虫が山から下りて来て、この道に這い出てくるのだ。  小学生の頃など、夏や秋には虫取り網と籠を持って、男友達とこの道を通って山へと繰り出した。男友達、といっても一番歳が近いのは二つ年下、離れていたのは四つ年上だった。この村で同年代は珍しい。“彼女”の方は、友達らしい友達といえば、十五歳年上の役所のお姉さんぐらいなもので、ごくごくたまに女子トークをする程度の間柄だった。とはいえ、お姉さんの方が、村で数少ないの女の子である“彼女”を慮っていただけなのかもしれない。  だから、村唯一の同年代であった“彼女”と祐二が常に一緒にいたのは、何らおかしな話では無かった。家が近く、親達も「ほれ、遊んでおいで」と何かにつけくっつけたがる。そういう時“彼女”はいつだって、少し離れた場所で祐二がやってくるのを待っているのだ。腕を後手で組んで、はにかみながら。  そんなだから、祐二が男友達と勝手に遊びに行った時など、しばらく機嫌が悪かったりもした。  祐二はもう一度だけ背後を伺ってから「よし」と坂道に足をかける。周りの藪が夜風に揺られてざわざわと鳴った。幾度と通った道だが、夜にここを通るのは未だ慣れない。藪の中らから今にも何か得体の知れないモノ飛び出してきそうな雰囲気が、夜の百足坂にはあった。  薄汚れたスニーカーが、剥き出しの土を踏む。舗装された道ではないから、ちびた靴底が時折大きな石を踏んで痛い。夏を前にしたこの季節では、夜中でも寒くない代わりに、汗をかきやすい。Tシャツを引っ張り上げて、額をぬぐう。そうしてシャツを下ろして―――身が竦んだ。  今まさに踏み出そうとする祐二の足元に、百足が一匹、のそのそと道を横断している最中だったのだ。――のそのそ、わさわさ。  真っ黒く、てらりと光る外骨格の体を、うねうねとくねらせながら地面を這っている。這う動きに合わせて、両側に伸びた無数の脚が、わさわさと蠢いていた。  以前何とはなしに読んだ本に、百足の脚と体は別の生き物なのだと書いてあった。あれは本当だろうか。本当かもしれない。うねうね、ぐねぐね動く体と、わさわさ忙しない脚は、確かにそれぞれが独立した生物のように見えた。  気味の悪い生物だと祐二は思う。基本、虫の類は好きなのだが、苦手な虫だっている。毛虫、虻、蚊、でっかい蠅。――特に百足は別格だった。  ああ、そういえば百足が苦手になった原因は“彼女”だったと思い出す。小学校に上がる前の話だ。
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