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気が付けば、先ほど足元を横断していた百足はその姿を消していた。藪の中に入ったのだろう。祐二は長く深くため息を吐いた。心臓の音が煩い。『百足坂』とはいえ、ここに百日通い始めてから百足そのものに出会ったのは今日が初めてだ。
季節的にも山から出て来ておかしくない。油断してたな、と祐二は首を振った。――早く行こう。行って終わらせてしまおう。
こっそり家を抜け出して来たのだ、早く戻らねば親に気づかれてしまうかもしれない。
周りを見回せば、もう虫一匹、影も形も無い。道を囲む藪がざわざわと揺れているだけだ。その、闇を被った深い緑に―――ふと、いつかの上履きの色が重なった。
まるで、祐二の全身があの時の上履きの中に納まっているかのようだった。
百足坂を登りきると、百階段に辿り着く。頭上を覆う梢が、階段の上に真っ黒な闇を抱えさせていた。中央は段差の無い坂道、その両側に並ぶ階段は、丁度百段。
この真ん中の道を通ると呪われるだの、階段の途中で振り返ってはいけないだの、十分以内に登りきらないと死ぬだの、男友達の間ではへんてこな子供ルールが一時期流行っていた。横断歩道の白い部分以外を踏んではいけない、というのと同じようなレベルだ。
祐二は百階段を見上げる。
―――百足みたいだ。
ふと、そんな事を思った。
つい先ほど大きな百足を見たせいだろうか、あるいは幼い頃のトラウマを思い出したからか。
真ん中の坂道は百足の長い胴体。両側の階段は無数の脚。表面に被る闇が、黒々とした百足の外骨格を思い出させる。
上の方はこの暗闇で見えないが、見えないその中で…うぞろ、とその体が蠢いた気がした。
百階段の名は昔から“そう”であるのだと認識されていて、多分、百段あるから百階段、と呼ばれてきたのだろう。別に“彼女”が名付けたわけでも無いのに、想起されるのはやはり“彼女”の事だ。
彼女は、年頃の女の子の例に漏れず、お呪いや占いが好きだったし、自分ルールで験を担ぐなんて事もよくしていた。特に『百』という数字や言葉に拘っていたのは、自身の名にその文字が入っていたからだろう。
百歩、自宅の玄関から何事も無く進めたらその日は良い事がある。
百日連続、住職さん挨拶できたら願いが叶う。
百個ドングリを集められたら明日は晴れ。
彼女が勝手に決めたルールに祐二が付き合わされる事も多かった。とりわけ彼女は百階段とお百堂を気に入っていて、何かにつけ「縁起が良い」と喜んでいた。「ここに来れば、悩みも消えそう」とも。だからこの百階段に繋がる坂に『百足坂』と名付けたのは、百足に似ているというよりは、単純に『百』の字が入っているからという方が本音だったのだろう。
きっと彼女の中では、いつかの日に彼女が渡した上履きの、その中に居た百足に祐二が噛まれた事など忘れ去られているのだ。
祐二は階段に足をかける。一段、二段。勾配がきついからそこそこ足に力がいる。三十、四十と数える頃には全身から汗が噴き出して、前髪から落ちたそれが地面に水玉を作った。
何も馬鹿正直に階段を上る必要は無い。真ん中の坂の方が楽だろう、とそちらに移る。小さい頃は年長の子が語った、『真ん中の道を通ると呪われる』という言葉を馬鹿正直に信じていたが、今は全く気にならない。むしろ今では祐二の方が年下に語る側だ。年下の子達が大真面目な顔で真ん中の坂を避ける様はちょっと愉快で、だからこそ、こんなおかしな子供ルールは無くならないのだろう。
坂を登りながら、両側の階段を数える。――五十、五十一、五十二。特に意味の無い行為だが、コレを始めた当初は夜闇が怖くて、気を紛らわせる為に始めた。そのまま、慣れた今でもなんとなく続いている。
真ん中の道だと左右の階段がよく見える。頭上の梢が時折風に揺れて、階段に落ちた影が揺らめいた。そうすると、まるで階段そのものが蠢いているかのようだ。その動きが、先程見た百足の脚を思い起こした。ならば今祐二がいるのは百足の背中か。
慌てて、首を振る。馬鹿な事を考えているな、と苦し紛れの微笑。
今日で最後だから、だからちょっと神経が敏感になっているのだ。そう、そうだ――今日が百日目なのだから。
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