ワンステージ

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ワンステージ

 お題『酸いも甘いも』  久し振りに公演会場へと足を運んだ。舞台俳優ではなく客として客席に居る。  長寿ミュージカルの初主演に抜擢された秋原真(あきはら まこと)。その人物は所謂、七光りで同じ有名劇団に所属していた。  今年の受験者は数千名。誰もが一度は勝ち取り程の役だと言われている。  秋原とは違い、日畑愉(ひばた さとし)は運良く有名劇団に入ることが出来たものの、辞めて現在はサラリーマンをしている。  一ステージあたり数千円のギャラと深夜のアルバイトで生活をしていた役者時代。  役のためにトレーニング、役に合わせた体づくりが日常茶飯事だった。  いつしか舞台俳優になる夢は憧れから挫折に変わっていく。 「大変お待たせいたしました。〇〇〇(ミュージカル劇の名前)、昼の部が始まります」  女性の声がアナウンスで流れた。  通常、昼の部から公演が始まる日は、朝の六時には起床する。会場に到着した後、楽屋入りをしていたのが鮮明に思い出される。  リハーサルに、ヘアメイク。本番に向けて精神統一する。  愉は、ほんの数分にも満たない役どころばかりだった。  こんな大舞台でもないが、一ヶ月間を沢山の舞台俳優とレッスンする日々。やり直しがきかない舞台で、やり遂げた達成感ややり甲斐を感じた。  今でも良い思い出だ。  本番真っ最中の主役の秋原は、舞台を広く使っている。  舞台背景を少ない道具で演じる。  でも映画やドラマと違って、観客は少ない道具でも、あたかもその場所に居る。  そう舞台を見ながら想像してくれる。  その上、秋原は誰よりも完璧に演じようとする男だ。  演じる役と顔や動きを合わせ、息遣いさえも作りこんでいた。  勿論、手の動きもスムーズだ。  他の役者がセリフを発していても、体の動きで表現させ演じている。  目が自然と秋原を追ってしまう。  流石、主役だ。惹き付けられる。  舞台俳優として八年間、酸いも甘いも知っているつもりだけれど、きっと秋原の方が知っているだろう。  公演会場は拍手喝采の中に包まれて、笑顔を見せる秋原。  悔しさや羨ましさという感情よりも、手の届かない、遠くの人物になってしまったことが寂しく感じた。  真剣に取り組み、完璧に仕上げる秋原が好きだった。  さよなら、頑張れよ。  公演が終わりを迎え、お客さんと同じく会場を後にした。
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