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「いいえ、それは遠慮いたします。すでに化身の業は始まっておりますゆえ、人の食する物の味は忘れねばなりませぬ。それに小狭い家の中でおちおち食事などしていれば、耳聡いあのお方に出立を気づかれてしまいます。そうなれば一大事、またもや泣かれてしまいましょう」
「あのお方の泣き声は、ことのほか大きかけんな」
「まさしく」
内膳はコクリとうなずくと、よく日焼けした顔をほころばせた。
「長門国から駆け逃げて来る際には、あのお声にたいそう手を焼きました。それで敵方の兵に取り囲まれた際には、私も一緒に泣きたくなりました」
「じゃが、無事に切り抜けた」
「女児であるがゆえです」
声を押し殺して笑う二人。その目は、自然に粗末な一軒家に注がれた。
質素な材料で組み立てられ、おまけに長く雨風にさらされたせいですっかりみすぼらしくなっているが、屋根に千木と鰹木を頂き高床式に組まれた作りは、元々が神託を受ける神社であったことを物語っている。
そこでは一人の幼女がむしろにくるまり、すやすやと眠りについていた。
「それにしても、さすがはお婆さまですな。呪禁の術で、戦の思い出を玉響にして封じてしまわれるとは。私にはとうていできぬことです」
「わしとて同じじゃ、そこまでの技はない。封じられたのは、ほれ、あちらにおわすお方じゃ」
老婆は、枯れ枝のような指で空を指差した。
「いずれしかるべき時が来て、しかるべき存在が降臨されるまでの封印じゃ。遠い、遠い先の話になるかもしれぬが」
「そうですか。それにしてもありがたきことです。幼きあのお方には、辛すぎる出来事が続きましたゆえ」
「それにくわえて、慣れぬ長旅でたいそうお疲れになられておるからの。しかしながら、このさびれた地じゃ。おもてなしができる物は何もない。せめてぐっすりと眠っていただかねば。昼までお目覚めになることはなかろう」
「ぜひそうしてくだされ。それではお婆さま、これよりしばしの間、どうかあのお方をお願いいたします」
「しかと承知した。ばってん、物心がつかれた時から常に傍にあった我殿の姿が見えぬとわかれば、あのお方はさぞ心細くなられような。いつまでも我殿の背中を探し求めることになろうよ」
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