昔々のそのまた昔

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昔々のそのまた昔

 月は山に沈み、満天に輝いていた星は白みつつある空に消えた。  しかしながら周囲をぐるりと山に囲まれたこの入り江に、朝日が差し込むのはもう少し後だ。黎明を告げる雄鶏も、もうしばらくは夢を貪ることだろう。  ところが朝靄たなびく小さな集落では、とろりとしたまどろみの空気を破る動きが起った。ひなびた一件の民家から、こっそりと二人の人影が現れたのだ。   「では行きます」   太刀を腰に携え、旅装束に身を包んだ人影がそっと囁いた。彼の名は杉田内善(すぎたないぜん)。痩せぎすで筋張った体格をしているわりには、深みのある優しい声をしている。そしてもう一人の人影は、白髪を大陸風にきりりと結い上げ、頭のてっぺんで(もとどり)にした老婆だった。 「くれぐれも達者での」 「はい。お婆さまもお達者で」 「しかし、それにしても早か出立ばい。金星(あかほし)がようやく東の空に見えたばかり。せめて一杯、粥でもすすってからにすればよかったものを」  すでに昨夜から断食を始めている。人の気も知らずに、ずいぶんと腹の虫を騒がせる申し出をするものだと、内善は軽くため息をついた。するとそよ吹く風に乗った潮の香とともに、青々と茂る野草の匂いが彼の鼻をついた。海と山が隣接しているこの地域にみられる、独特な匂いの風だ。
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