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朝の九時になった。
簡易ベッドは片づけられ、背もたれのない丸椅子に、小さすぎて落ちそうになりながら、機械音のする病室に、無遠慮なヒールの音が近づいてきた。
がらがらと勢いよく扉が開く。濃い化粧に、長い髪。私にもばあちゃんにも似つかない、母――真理子が来た。
「……お別れは済んだの?」
「ああ」
「なんだ、泣いたんじゃないのね」
ふふ、と真理子が笑う。
今更、どんな感情も浮かばなかった。二十年ぶりに顔を合わせた実の親であろうと、目の前の人は、赤の他人だった。
「なによ、怒ってんの? からかってゴメンってば、燈哉」
「別に、なにも」
「今まで来なかったのは謝るからさ……父親の死に際くらい、ね?」
「……」
この人は、なにも知らないのだ。
私とばあちゃんの事を、なにも知らない。
眠り際に何度も聞いた、昔話の断片から、私はばあちゃんの行った先や所属部隊を、調べたことがある。
結果として、日本に戻れた人は、たった三人。うち一人が、ばあちゃんだった。
私に話した意味、けれど他の過去は決して語らなかった意味。
ばあちゃんの人生のうち、私が知るのは、四半世紀にも満たない、短い時間だけ。
百を数える時は、目の前に壁がある。それを理不尽と呼ぶか、苦難と呼ぶか、ストレスと呼ぶか。変わらないのは、腹を据えてかかる必要があること。
道の先がどんなに暗かろうと、進むと決めた。立ち上がると、ばあちゃんよりも小柄な真理子が、顔を引きつらせて一歩下がった。
責める気持ちは無かった。理解して欲しいと願う対象となるには、私にとってあまりにも疎遠すぎたし、ばあちゃんの存在が大きすぎた。
産んだ子供を、実の親に預け、音信不通だった真理子は、娘というだけで何かしらの恩恵にあずかれると信じて現れた。
生憎と、ばあちゃんはそんな優しくもなければ、手抜かりもしない。
百は、もう充分すぎるほど数えた。
担当医が現れた。軽く黙礼をし、よろしいですか、という問い掛けに、ゆっくりと一度頷く。
千本槍一朗、と書かれたネームプレートが静かに外されたのは、その三十分後だった。
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