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夜になり、夫が仕事から帰ってきました。私はちょうど揚げ物の油を切っていたところで、できたてのおかずを食卓テーブルに並べます。その間に夫は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、食卓について新聞を読み始めます。 皿を並べ終わると私もテーブルについていただきますと言いました。夫は新聞から目をあげないままいただきますと言いました。そして缶ビールを開けコップに金色の液体を注ぎ、一口飲んでまた新聞を読みます。文字を追いながら箸を動かし私の作った唐揚げを口に運びます。 私は聞きました。 「美味しい?」 「うん、いつも通り美味いよ」 「そっちの豆腐サラダも食べてみて」 「おう」 「今仕事忙しいの?」 「別に、いつも通りだよ」 私が話しかけると、夫はちゃんと答えてくれます。私の些細な主婦的日常を話しても、嫌な顔一つせず優しく相槌を打ってくれます。 それなのに私はつい、呟いてしまいます。 「一人で食べてるみたい」 「え? ごめん聞こえなかった」 「ううん、明日は何食べたい?って言っただけ」 「なんでもいいよ」 私の寂しさは、この夕食時の和やかな夫婦の会話の時間に頂点に達するのです。夫の視線は絶対に新聞から離れることはありません。私の顔を見てはくれません。だから私も夫の顔を見ることができません。私はもうかなり間、夫の顔をまともに見ていない気がします。 でもこの寂しさは贅沢というものでしょう。世の中には会話が一切ない夫婦があるといいます。友達の夫は海外ドラマに夢中になっている時に話しかけると怒り狂って三日も口をきかないという話でした。そういう話を聞くと、私は自分の中に燻る寂しさを諌めたくなります。 「ごちそうさま」 私ははっと顔をあげました。いつの間にか夫は食事を終え立ち上がっています。私の分はまだ半分以上残っています。夫は自分の食べた皿をキッチンに持っていくと、さっさと二階に上がっていきました。ドアの締まる、パタンという淡白な音。次に夫の姿を見るのは明日の朝になるでしょう。夫は今、ナントカというテレビゲームに夢中になっています。それが夫を癒してくれるらしいのです。身を粉にして働く夫に楽しめる趣味があるのは喜ばしいことです。家でのストレス解消は必要なことです。 だから私は夫の邪魔をしたくなくて、100通目の手紙を書くことを長い間躊躇っていたのです。でも今日、とうとう書いてしまいました。私は冷たい右腕をさすりながら上を見ます。二階からは物音一つしません。 今頃夫は私の手紙を開けているところでしょうか。ひょっとしたら慌ててかけ降りてくるかもしれない、びっくりした、ってはにかむ笑顔を見せてくれるかもしれない。 でも私が食事を終え食器洗いを終えてリビングのソファに座っても、やっぱり二階からは物音一つ聞こえませんでした。 そして翌朝、寝不足でくらくらしながらお弁当を作っている時に夫は二階から降りてきて「おはよう」と言いました。そしてトーストを焼いて牛乳を飲みながら新聞を読んで、さっさと身支度を終えて「行ってきます」仕事に出掛けていきました。 夫を見送った後、今日もやっぱり雨模様で薄暗いリビングのソファに座って、きっと夫は手紙に気づかなかったんだ、と自分に言い聞かせました。だからその後夫の部屋に入って机の上から私の手紙が消えているのを確認した時 、しばらくその場を動くことができませんでした。さすってもさすっても、右腕の冷たさは消えませんでした。 その夜も次の日の夜も朝も何事もなく過ぎ去りました。私は手紙を100通書いてよかったと思いました。夫は返事をくれないけれど、読んだとも言ってくれないけど、37人もの人が私に言葉と便箋と文字を送ってくれたのです。 「37人から手紙を貰える人間が、寂しいわけがない」 私の声はソファの横のラックに重なっている新聞に吸い込まれて消えました。 翌々日は燃やせるゴミの日でした。夫を見送った後、私は家中のゴミを回収しにいきました。リビングの屑籠入れ、キッチンとお風呂の排水溝ネット、脱衣所のゴミ箱、私の部屋のゴミ箱、そして夫の部屋のゴミ箱。45リットルのゴミ袋を持って各部屋のゴミをその中にまとめ、ゴミ捨て場に捨てに行く。これが燃やせるゴミの日の私の日課です。 最後の夫の部屋で小さなプラスチック製のゴミ箱を掴んだ時、私の目はふとその中身に止まりました。なんの変哲もない丸まった紙屑。ティッシュと不要になった書類とスナック菓子の袋の間に捨てられているぐしゃぐしゃの紙。 どうしてそんなものが気になったのかは上手く説明できません。とにかく私はそれに違和感を覚え、拾い上げておそるおそる開きました。 それは大学ノートを破ったもので、そこには夫らしい几帳面な文字でこう書かれていました。 「拝啓 長雨が続き蒸し暑いこの頃ですが、これも恵みの雨と思えば有難いものですね。 突然のお手紙大変驚きました。私が手紙を書いたのは中学校卒業の折に教師に半ば強制されて書いた両親への感謝の手紙が最後なもので、君に返事を書かなければと思っても手紙の作法すらすっかり忘れ、今はネットで文例集などを紐解きながらなんとかペンを走らせている次第で、これが常識にかなっているか……」 今はネットで、あたりから線を引いて消されていて下に「余計な言い訳、みっともない」と少々乱暴な字が書かれていました。 そこから数行開けて気を取り直して?書かれているのは「梅雨の候、お変わりなくご活躍のことお喜び申し上げ 違う、これじゃビジネスの手紙だ」という苦悩の文言。そこで力尽きたと見え、その下の行には苛立ったようにボールペンをぐるぐる走らせている以外、何も書いてありませんでした。 ぐしゃぐしゃに痕がついた紙屑を手に持ちながら私はしばし呆然とし、それから微笑み、それから満面の笑みを浮かべ、それから「なにこれ、可愛い」声を上げて笑ってしまいました。私はにやにやしながら夫の手紙の習作を何度も読み返し、そうしているうちにゴミ収集車の音が聞こえたので慌てて外に飛び出しました。 通りすぎんとしていたゴミ収集車をなんとか捕まえ、無事ゴミ出し完了。ただしぐしゃぐしゃの大学ノートはゴミに出さずにエプロンのポケットにしまってしまったのですけれど。 その夜帰って来た夫は、いつも通りビール片手に新聞を読みながら夕食を食べます。私もいつも通り向かいに座って当たり障りのないことを話しかけます。いつも通り食事を終え、いつも通り階段を上がり、いつも通りパタンと部屋の扉を閉める夫。全てがいつもの日常の中にあります。 でも、二階を見上げる私の表情はいつも通りじゃありません。つい口の端が緩んでしまって、夕食の間中平静を保つのに精一杯でした。今日も夫は一生懸命慣れない手紙を書いてくれているのかしら。そう思うと新婚時代に置いてきたくすぐったい気持ちまで沸き上がって、私はスキップしながらいつもはしない細かい場所の掃除を始めたりなんかしてしまいました。 それからというもの、燃やせるゴミの日は夫の習作を覗き見る日になりました。我ながら悪趣味だと思います。でもごめんなさい、読まずにはいられないのです。不思議なものです。99通の手紙を書くより夫への1通の手紙を書くのに時間がかかり、62通の返事が来ないことより夫からの1通の返信が来ないことが悲しくて、37通の返信より1通の未完成の手紙にうきうきしてしまうのですから。 1週間経つ頃には夫は手紙セットを買ってきて、プラスチックのゴミ箱には蛙が葉っぱの傘を差している梅雨らしいイラストがあしらわれた素敵な便箋が丸めて捨てられるようになりました。そこに書かれていた習作のいくつかを紹介すると、こんな感じです。 「やあ、手紙ありがとう。返事遅くなってごめんネ。言っとくけど、ゲームやってて書かなかったわけじゃないからな! (笑)だって俺はどんなレアアイテムより うーん、若すぎるノリかな? 」 「Dear 愛しい妻へ 恥ずかしすぎる、後が続かない」 「手紙ありがとう。嬉しかったよ。じゃあまた。 いくらなんでもシンプルすぎか」 「いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとう。掃除をしてくれてありがとう。洗濯もありがとう。これからもずっと元気でいてね! これじゃ小学生が母親に送る手紙だ……」 私はもうにやにやしっぱなしで、一度などはゴミを出しに外に出た時、お隣の木村さんに怪訝な顔をされたものでした。 そのようにして夫からの完成品を受け取るのを待っていたわけですが、一月経っても貰えませんでした。気がつけば梅雨は去り、元気を取り戻した太陽が連日熱い光を地上に投げかけていました。その間に8回の燃えるゴミの日が過ぎました。 雲一つない、とても明るくとても暑い日。夫はいつもより少しだけ早く起きて、ゆっくり階段を降りてきました。そのまま玄関に行って新聞を取りに行く……ことは、しませんでした。夫はキッチンに来て、何も言わず立ち尽くしています。私は不思議に思い、お弁当を作る手を止めて振り向きました。 夫が無言で差し出したのは白い封筒。表に宛名である私の名前と、差出人である夫の名前が書いてあります。 そして夫が私にくれた文字はそれだけでした。封筒の中には何も入っていなかったのです。 言葉を失い顔を上げる私と夫の目が合いました。心臓がどきんと跳ねました。夫が私を見ているのです。こんなに近くで、正面から見つめているのです。 「からかってるわけじゃないんだ。俺、手紙書くの苦手でさ。でも返事はしなくちゃいけないと思って、それでいろいろ考えてこうなった。内容は口で言うよ。俺は――」 100通目の手紙に対する返信を、私はこのようにして受け取ったのでした。 習作をこっそり盗み見ていた時と違い笑顔は浮かびませんでした。かわりに私の目からは、涙が。返信に対する返信であるかのようにぽろぽろぽろぽろ溢れ落ちるのです。 焦った夫が私の右腕を掴んだ時、ずっと冷たかったその場所は、いとも簡単に温かくなってしまったのでした。 <完>
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