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眼球
私は私自身の眼球というものを、たぶん、生涯で初めて、この目に焼きつけることになった、今日という日を決して忘れることはないだろう。
誰かが言ったように、私の眼球はとても美しかった。
深海よりも蒼い瞳の海を、煌びやかな星々が瞬く銀河のような虹彩が、ぐるりと一周、取り巻いているのだ。
人は歳を取ると、瞳の輝きがくすんでいくと聞いた。だが、年齢を重ねた私の瞳は、今なお美しく輝き、見るものを魅了した。
私の眼球は手のひらほどの小瓶に詰められ、透明な液体に浸かっている。
考えようによってはグロテスクなものだというのに、真っ先に私の心に浮かんだ感情というものは、ああ、綺麗だなあという仄暗い喜びであった。
「――義眼を用意する気は毛頭ないのだ」
私の主治医が言った。
「君の瞳があまりに綺麗なものだから、現在の科学技術で再現することは難しいだろう。いや。技術が発達した近未来になったとしても、君の瞳を人間ごときが再現することは不可能だと言ってもいい。君の瞳は、まさに神の創造物だ」
主治医は私の眼球に執着する、ただひとりの男だ。
私は残ったもう片方の眼球で、彼の姿を見る。私が出会った頃よりも老いてはいるが、彼は重厚な雰囲気と知性とを兼ね備えた紳士であった。
年齢は五十をとうに過ぎていると聞いたが、彼の年齢を感じさせるものは口元に刻まれた皺と、まばらに生える白髪と、私を診るときに使う老眼鏡の存在くらいである。
私は彼よりも一回りほど年若だが、見ようによっては、彼と同年代、いや、彼を年若だと思うに違いない。
私の眼球をてらてらと光る白熱灯の下へかざした彼は、玩具を与えられた幼子のように、けらけらと笑った。
「ご覧。ジェイ、見るのだ」
主治医は私をジェイと呼ぶ。
戦後間もない日本に、私のような異人がいるのが珍しいのだろう。
奉公先の館で出会った主治医は、私を見て、一目で気に入ったそうだ。
もう十年以上前の話だが、彼は今でも私と出会ったばかりの頃の話をよくする。
「残ったほうの目で、よく見るのだ」
私は薬の効いた身体を動かし、彼の意に沿った。
小瓶の中で踊る私の眼球は、ガラス玉のように不思議な輝きを放ち、目が合うと、恥ずかしそうにそっぽを向いてしまう。私はがっかりと肩を落としたが、このときになってようやく事の異常性にはたと気がついた。
「……先生」
「どうしたのだ、ジェイ?」
「どうして私の目を奪ったのですか?」
「説明しただろう。君の目はもう数年と経たないうちに、見えなくなるのだと」
「ええ。たしかにあなたはそう私に説明しました。でも手術をすれば治ると……あなたは私にそうおっしゃったではありませんか」
「たとえ手術だとしても、私は君の美しい眼球を傷つけたくはなかったのだ」
主治医は私の片目が入った小瓶についばむような口づけをし、さも大事そうに白衣の懐へしまった。
私はそれを取り戻そうと腕を伸ばすが、片目だけになった視界はぐにゃりと歪み、ずきずきとした痛みとなって私に襲いかかる。
きいきいと耳鳴りがし、ガーゼの下の眼窩が――何もはまっていない眼窩が、ばくばくと暴れ出した。
私は叫んだ。混乱、恐怖、焦り、絶望、怒り、憎しみ……。
ものの数秒もの間に、私の心は目の前に立つ主治医を殺さんとばかりに、ぐらぐらと煮えたぎる。
この男を十年間も慕っていた自分が馬鹿らしい。
どうしてこの男の本質に気づくことができなかったのだろうか。
この男は初めから、私の目しか見ていなかったというのに。
「返してください! それは私の目だ!」
「卑怯だとは思わないかい。君はこの美しい瞳をふたつも宿しているというのに。ひとつくらい、私に譲ってくれてもいいだろう?」
「あなたには人の心がないのですか」
「おかしなことを言うね。人の心を持っているから、こうして、他人の持ち物を欲しているのだ――すでに私は手に入れたがね」
主治医は満足そうに笑うと、寝台に横たわる私の上へ覆いかぶさってくる。
おぞましさが全身を縛り、私は身動きが取れない。
「君が私を熱っぽい瞳で見つめるから、いけないのだ」
彼は鼻先を押しつけ、私に接近してきた。
「君の瞳が、私を狂わせたのだ……」
主治医は私の両頬を強固な力で掴み、私の顔をべろりとひと舐めする。
「ひぃい……っ」
私は彼から逃れようと身をよじるが、主治医は蛇のような執拗さで私を絡めとる。
「知っているかい? 蛇は獲物を丸飲みにすると」
主治医の呼吸が次第に熱を帯びてくる。彼は私に残されたもう片方の目に狙いを定める。
舌先が迫ってくるのを感じた私は、怖くなってぎゅっと目蓋を閉じた。
「ジェイ。私を見たまえ」
目蓋の上をつうーっと生温かいものが這う。
「嫌がるようなら、無理にでもこじ開けてしまうよ」
目蓋の合間を主治医の舌先がつつく。彼の舌は私のまつ毛を刺激し、やがて先端が目蓋と眼球との合間に侵入した。
「ぃ、あ……っ」
私は私の眼球の表面を異物が這っていく様子を、動かない身体で受け入れることしかできなかった。
主治医の舌はいやらしく蠢き、ぴちゃぴちゃとした水音が私を精神的にも追いつめていく。
眼球をくり抜かれるのではないか。
このまましゃぶりつくされ、消滅してしまうのではないか。
私の妄想は拍車をかけ、私自身を苦しめていく。
両の目が空になったら、主治医は私をどうするのだろうか。
「……他所事を考えている暇があるのかい?」
その声の鋭さに怯え、私は思わず目蓋を開けてしまう。
途端、ねっちょりとした獰猛な蛇が、私の瞳を捕らえ、覆いつくし、目尻からこぼれる涙すらも、すべて舐め取ってしまった。
「君には私の考えていることが、何ひとつ理解できないのだろうね。ああ、わかっている。君が私の思いを理解する日は決して来ないということを。だが、わかってほしいのだ。私はただ純粋に君の瞳の輝きに魅了された、ただひとりの男だということを。君のこの――」
主治医は私の残された目に、ふうっと息を吹きかける。
「――美しい紺碧の瞳を、ずっと見ていたかっただけなのだ」
「あ……あなたは、いつから、そんな……」
「無粋な質問はよしたまえ。ジェイ。私は出会ったころから、君に惹かれていると何度も言っただろう。君の瞳を私だけのものにしたかったのだ」
「……やはり、あなたはおかしい」
「私は優しいから、もう片方の目は君のために残しておく。無論、私自身のためでもあるがね。わかるかい? いや、わからないだろうな。わからなくてもいい。ジェイ。君にはこれから長い時間をかけて、私という人間を理解してほしい。それが私の願いなのだ」
「私はもうあなたと暮らせない。お別れです、先生。私は館を出て、国に帰ります」
「もし私から逃げ出そうとするならば、私は君から光を奪うよ」
主治医の指先が私の眼球に迫る。
「こちらは潰しても構わない。ひとつは私が持っているのだから」
爪を立てられ、ぐいぐいと押しこまれていく。
「今度は麻酔などかけないぞ」
髪を掴まれ、頭部を寝台に固定される。
「私は本気だ」
主治医の顔が大写しになり、私の身体はさらなる恐怖で動けなくなる。声すらも出せない。少しでも動いたら、主治医は容赦なく私の残された目を潰すだろう。
きっと私の瞳孔は大きく拡張し、狂気に囚われた男を映し出していることだろう。
めりめりと押しこまれていく指の感触に怯えながら、私は主治医の異変に気づいた。
「……先生、あなたの目は」
私に向けられた瞳は美しすぎるほどの輝きを放っているが、まるでそこだけ切り取られたように、ただ、私を見つめているだけであった。
瞳孔の動きも、眼球自体の動きも、何も変わらない。
「いつから、あなたの目は……?」
「――――眠りなさい。ジェイ」
主治医の身体が傾き、私の首筋にチクリとした痛みが走る。私の思考はまどろんでいき、主治医が私のそばを離れたことに気づくのにも、時間がかかった。
――ひとつくらい、私に譲ってくれてもいいだろう?
主治医の羨望の声が脳内を取り巻くころには、私の意識は暗闇の中へ落ち、浮上することはなかった。
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