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手繰り寄せる糸
「お久しぶりですね」
と頭を下げてきた彼女のトレードマークの黒髪が揺れて、ふわりとフランボワーズの香りが漂った。
彼女に会うのも、響と別れた島根のホテル以来だ。無論、金輪際会いたくなどなかったが。
「こんにちは…」
そんな思いが表面に現れ、美奈の挨拶はどう頑張っても固くなってしまった。
「雄さんと待ち合わせですか?」
美奈とは対照的に、薫は屈託なく訊いてくる。この子のこの図太さは、何なんだろう。敬意に値する。
「そんなところ…」
「雄さんとラブラブみたいですねえ。わたしは愛人休業状態です。このまま廃業に追い込まれちゃうかな」
「…ねえ」
美奈は、額に手を当てて、大げさに溜息をつく。ここは曲がりなりにも、夫と彼女の働く職場の近くなのだ。
「こんなこと、誰かに聞かれたら、私より貴女の方が困ると思うんだけど」
「あは、そうですね」
一応同意されてるものの、ちっとも美奈の言葉が沁み入った感がない。場所変えよ。早く雄大来ないかな。美奈が「私はこれで…」踵を返しかけた時だった。
「倉田さんには、あれから会ってないんですか?」
その名を聞くだけで、平静ではいられなかった。美奈は思わず、振り返ってしまう。動揺の走った美奈に、薫はしてやったりと微笑んで見せる。
「会えるわけ、ないですよね。あんなひどいことした男。私もすっかり騙されましたもの」
「え…?」
薫の台詞のひとつひとつに美奈は混乱してしまう。ちょっと待って。
どうして、彼女が響を知ってる? そういえば、あの現場に居合わせたのもおかしな話だ。雄大と彼女が会っていたのは、雄大の好き心としても、彼らが何故、美奈と響の密会場所を知っていた?
「あなた…響を知ってるの?」
「知り合い、って程でもないですけどね」
「何処で会ったの?」
極上の笑みを薫は向けて、あるホテルの名を告げる。
(嘘…)
「そこのフロント係やってるの…知りませんでした?」
顔面蒼白になって、口も利けない美奈に、薫はわざとらしく首を傾げた。
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