消失

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   擦り切れる、とはこの事か、と思った。    もっと最悪な出来事があってこんな風になるのだと思っていたがなんの事はない。実際には仕事から帰ってきたその時、ベランダに出しっぱなしの洗濯物を見た時だった。    あぁ、ここから早く逃げ出さなくては。  そんな風に思ってしまったのだ。  そして、私は知らない街の知らない駅にいる。買い物袋を下げてラフなサンダルのまま。買い物に行ってくると言って、ふらりと電車に乗った。何駅かを通りすぎ適当に降りたその駅で私はどちら側の改札口へ行こうか迷っている。  休日の夕方、学生風の子達や家族連れが向かう階段に私もついていった。降り立つとその先には小さな商店街が広がっていて、ここに紛れてしまえば私の今の格好もそれほど目立たないかもしれないと歩き始めた。  売っている物なんてさほど変わらないのに知らない街の知らない店、というだけで新鮮に感じる。行く所も無いしたっぷりと時間をかけて商店街を歩いた。  結婚して十年、もう何が不満だったのかは解らない。ただ、何かが私の心臓をがんじがらめにしていた。  途中、飲み物を買って路地裏にあった公園で時間を潰した。 「何やってんだろ」  結局、私が逃げ出したこの駅は最寄り駅からは数駅しか離れておらず、どこかに消えるなんて勇気は持ち合わせていないのだ。ふと、子供の頃に耳にした母の会話を思い出す。  近所に住んでいた同級生が母親に連れられて失踪した時の事。その子の母親は夕方、夕食の支度をしていて食材が足りないからと同級生を連れて買い物に出たまま戻らなかったそうだ。  勇気とは違う。衝動的に、だったのだろうか。何にしてもそれほど追い詰められるというのはどんなものだろう。私は想像して胸が痛くなった。 「ほんと、何やってんだろ」  ため息を吐き出してペットボトルをごみ箱へ捨てると、私はその商店街で夕食の材料を買って家へと戻った。   玄関の扉を開ける前に時間を確認する。家を出てから二時間ほどがたっていた。鍵をあけて「ただいま」と声をかけたが返事がなかった。リビングの戸を開けて笑いが込み上げる。 「なんだ、寝てるのか」  夫が大の字になってテレビをつけたまま寝ていた。妻が買い物に出たまま二時間も戻らなかった事を、彼は知らないのだ。  なんと滑稽な事だろう。逃げ出さずとも、もうとっくの昔に私の存在など無いに等しかったのだ。 「お、お帰り。飯なに?」 「ん?あなたの好きなもの」  私はそう笑って、夕食の支度に取り掛かった。
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