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01 - 大統歴三四一年八月
大統歴三四一年八月の鮮烈な日差しのなか、失脚したと思われたデニズリの王子アドゥ率いる一軍が突如デルスより攻め入り、十日にも満たない短期で王宮を陥落した。
デニズリの王都には王子軍の倍近い兵力が置かれていたが、開戦当初から指揮系統に混乱がみられ、兵の動きは鈍かった。
そのため、ほぼ法術騎兵で編成された王子軍の機動力が遺憾なく発揮されたのである。
デニズリ軍の混乱の理由は、アドゥが王宮入りを果たしてから初めてあきらかになった。
「姉上が殺されただって?」
「カリヨン公爵も一緒だったようです」
王子の従者ナザルも主人と同様、信じられないといったように報告した。
捕らえたメユヴェ王女の側近ブルジュ伯爵によれば、マスマラク鉱の部屋に幽閉していた大気のマラティヤの手によって惨殺されたという。
「なぜ大気のマラティヤがマスマラク鉱石の部屋に入れられていたんだ」
アドゥ王子はもっともな疑問を口にした。
あそこは対瘴気のための特殊な場所で、普通の人間には用のない代物だ。
ナザルはふと思いだして答える。
「以前ビジャール王宮へ行ったときに耳にしたことがあります。今期のマラティヤのひとりには、スィナンの一族が選ばれたと。あの話は本当だったのか」
スィナンという言葉を耳にすると、アドゥは頭から冷水をかぶったように全身をこわばらせた。
「主国がスィナンのマラティヤを認めたというのか? 正気の沙汰じゃない。大気の神セネがお許しになるわけがない」
現に大気のマラティヤに六人もの人間が殺されているではないか。
アドゥは次々に知らされる衝撃的な事実に頭がついていかず、呆然とつぶやいた。
王子陣営にとっては、泥沼の膠着状態に陥るかもしれなかったメユヴェ王女との直接対決を回避できたうえ、容易に政権を奪取できたことは大いなる幸運だった。
しかし〈デニズリの一戦〉での国の対応のまずさによって周辺国へ与えた悪影響はいまも大きく、デニズリの信用は失墜している。
このうえ王族がマラティヤに殺されたと知れわたれば、どんな事態を招くのか。
主国に訴えたとしても、いままさに任務のただなかにあるマラティヤを罪人としてデニズリへひきわたす許可などおりるわけがない。
「我々と敵対する立場だったとはいえ、王族を弑逆した大罪人を捨ておくわけにはいきません。ですがビジャールの協力は得られないでしょう。マラティヤに手をだせば、妨害される可能性すらある」
ジェイル伯爵は眉間のしわを深くした。
「暗黒期のいま、マラティヤの存在がどれだけ重要かぼくにだってわかる。でもこのままスィナンを野放しにしておくのは、あまりにも危険だ。人間を殺したということは、制御盤すら埋めこまれていないかもしれない」
アドゥ王子はぞっとして言った。
マラティヤの名のもと、人を手にかける自由すらスィナンに与えられているのだとしたら。
それが世界救済のためのささやかな犠牲だと、主国が考えているとしたら。
許されるわけがない、と少年は思った。
デニズリ一国で内密に制裁を加えるか、主国と交渉するか。
慎重な政治的判断が求められる彼らの重い空気のなか、思わぬ来訪者があった。
王宮の警護をかためていた兵士が困惑気味に、大地のマラティヤが王宮の主への面会を望んでいると告げたのである。
政権を奪取したばかりの厳戒態勢のなか、自国の者ですら宮に近づくこともできない状況だったが、マラティヤに求められれば招き入れるしかない。
しかも大地のマラティヤといえば、主国シヴァスの大貴族で人格者との誉も高い人物と噂されている。
このあまりにも時機を見計らったような来訪をいぶかしみながらも、アドゥたちは慌ただしく接見の間を整え、マラティヤを迎えた。
現れたアイディーンが王子を見たとき、わずかに視線を留めはしたものの、それ以上の反応はなかった。
対してアドゥは言葉を失うほど驚愕して、以前は布で隠されていたアイディーンの額の紋章がはっきり存在をあらわにしているのをしばらく凝視してしまった。
その不躾な行為に気を悪くするでもなく、青年はまだ戦闘の興奮冷めやらぬ宮の浮き足だった空気にまったく不似合いなほど優雅に拝礼する。
「ロティ……いえ、アドゥ殿下、無事本懐を遂げられたのですね」
アドゥたちが姉との政争に敗れ国を追われていた事情も、アイディーンと別れたあと兵をたて王宮を奪還したことも、彼はなにもかもわかっているようだった。
デルスへ行けとアドゥへ助言したのは、やはりなんらかの確信があったのだと、少年は思わずにはいられなかった。
アイディーンの額の神秘に満ちた神のしるしが、すべてを見通しているのかもしれないとすら思わせる。
「アイディーンにもう一度会えて嬉しく思います。しかし、まさか……あなたがマラティヤだったとは」
まだ信じられないという様子の王子のそばにいたナザルも、主人と同じ驚きに包まれていた。
ジェイル伯爵だけが、マラティヤという存在への興奮以上に、デニズリの内紛が収まりきらないこの慌ただしいときに、しかも王族が殺されたという不祥事のさなかに現れた青年をもてあましていた。
はっきりいえば、やっかい者でしかない。
さらに、アイディーンはシヴァスの上級貴族に属し、ビジャールとのつながりもある。
メユヴェ王女の死を知れば、アドゥ王子が手にかけたと主国へ証言するかもしれない。
そうなれば、ビジャールから介入の口実にされかねない。
大地のマラティヤには一刻も早くお引きとり願わねばならなかった。
しかし、まさにジェイルの焦燥を感じとったかのように、アイディーンは本題に言及した。
「ゆっくり話を聞きたいが、そうもしていられない。以前ここへ来たとき、俺の連れがメユヴェ王女に捕らわれて足どめされている」
「連れというのは、あの、カシュカイのことですか」
アドゥは無意識に顔をしかめて尋ねた。
「ああ。メユヴェ王女がそちらの監視下にあるのなら、彼女に聞いてもらいたい」
アイディーンの要請に、少年は言葉を詰まらせた。
余計な事情を話すのではと慌てたジェイルが遮るまえに、アドゥははっとしてアイディーンを見る。
「あなたと共に行動していたということは、カシュカイは大気のマラティヤなのですか」
「そうだ」
アイディーンはなんの躊躇もなく即答した。
その瞬間、アドゥは目がくらむような怒りをおぼえ、こぶしをにぎって叫んだ。
「あの穢れたスィナンは兵たちを殺し、姉上までも手にかけて逃走した大罪人だ!」
アイディーンはわずかに目をみはり、しかしすぐに首をふった。
「それはあり得ない」
「なぜ言いきれるのですか」
「あいつは人間に危害を加えられないよう、強力な法術を施されている。それに、ここで待っていろと言った俺の言葉に反して、自分の意志で王宮を出ることは絶対にない」
あまりにもはっきりとした断言に、アドゥはいっそう怒りをつのらせる。
「実際に殺されているんです。それもマスマラク鉱の牢で。姉上の側近が大気のマラティヤを幽閉していたとはっきり言ったんだ」
「マスマラク鉱石の牢だと」
アイディーンは低くつぶやいた。
その声がひどく冷酷に響いたため、少年は怒りをそがれて息をのんだ。
不快げに眉根を寄せた青年の冴えざえとした秀麗さはわずかも損なわれなかったが、そんな険しい顔を初めて見たアドゥは、とりつく島もなく口をつぐむ。
アイディーンは少年の反応に関心を示さず、凍えるような口調のまま言った。
「その牢へ案内してくれ」
拒否するという応えは、この場の誰にも許されなかった。
そういう威圧感がアイディーンの全身から発せられていたのだった。
彼に気圧されて沈黙した王子に気づいて、控えていたナザルが案内役を買ってでる。
アドゥとジェイルを残したまま、二人は宮の奥まった場所に隠されるようにしてつくられた部屋の前へ立った。
重厚な扉も美しい模様紙の壁も、そしてなめらかな毛足の絨毯が敷きつめられた床も、等しく大量の血で覆われたままになっている。
惨劇はここから始まっていたのだ。
ナザルが扉をひらくと、部屋のなかは牢屋をすっぽりはめこんだつくりになっている。
外と同様に暴力的な赤黒い色彩で塗りたくられた室内は鉄錆のにおいも生々しかったが、それ以上に破壊されたマスマラク鉱の板や格子、アイディーンの背丈ほどもある外壁の大穴が目をひいた。
カシュカイに危害を加えないと約束したメユヴェ王女の非道なやりかたに憤りをおぼえたのもつかの間、アイディーンは部屋の惨状を見て、あらためてスィナンの青年の無実を確信した。
彼の力を考えれば、牢から出るまでもなく、はじめから自分に指一本触れさせないよう結界を張ることもできたはずだ。
しかし、彼はそういった状況で自分の身を守ろうとは絶対にしない。
人間への服従はカシュカイに与えられた厳格な命令で、それに血を吐くような忍耐で従属してきた。
いまさらマスマラク鉱の牢に押しこめられたところで、彼は抗ったりしなかっただろうし、わざわざ室を破壊して逃走する理由がない。
「目撃者はいないのか」
アイディーンが尋ねると、ナザルは首をふって答えた。
「スィナンを警戒して、人を寄せつけないようにしていたそうです。部屋の外と内に二人ずつ兵を置いていましたが、皆殺されていました。誰にも告げずに王女夫妻がここを訪れ、さらに犠牲となったのです」
六人もの人間をまたたく間に屠るような手練れはよほどの術力の持ち主だ。
慎重に室内を見まわしたアイディーンは、最初からもっていた疑いを事実に塗りかえる証拠を右側の壁に見つけてかけよった。
赤黒い血の染みに混じって、闇色に近い濃紫の染みが壁を溶かしてぐずぐずにただれさせている。
紛れもなく魔族の血痕だ。
「エフェス……」
アイディーンは血痕を凝視したまま、老獪な魔族の名を口にする。
バシュカでアーシャーが言っていたのは、戯言などではなかった。
惰性で生をむさぼっているようなどろりとした目をしたあの魔族は、たしかにここを訪れカシュカイを連れ去ったのだ。
一度ならず二度までも遅きに失したことを思い知らされたアイディンーは、こぶしを壁に叩きつけたが、なんのなぐさめにもならないことは自身が一番よくわかっていた。
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