11人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
03 - エフェスが人里へ向かっている
エフェスが人里へ向かっているのに気づいたとき、カシュカイが考えるまでもなく、その目的はあきらかだった。
大型の猫に似た魔獣の背に乗せられた彼は、同じく獣にまたがって前を走る魔族の男を見やる。
それができる動作のすべてで、いっこうに体力が回復しない身体では魔獣の背にもたれているしかない。
デニズリの王宮を出てからいったい何日たったのだろうか。
宮では大変な騒ぎになっているに違いない。
アイディーンが戻ってきたとき負わせてしまうだろう多大な不利益と責任を思うと、頭をかきむしりたいほどの焦燥を感じた。
王宮で待っていろという主の言葉にも背いている。
自己嫌悪は同時に、目の前の男への殺意へ転化されていった。
首筋と手首、足首それぞれに拘束の呪を施され、自由に動かすどころか声もまともにだせない屈辱は、カシュカイの神経をじりじりと焼きただれさせた。
「ここにしよう」
エフェスは広大な牧草地に向かっておりていく。
のんびりと草を食んでいた羊の群れが途端に顔をあげた。
魔獣を見て逃げだした一頭につられて、大群が混乱して走りはじめる。
羊たちの異常な反応に、丘の下にいた若い女が足早に戻ってきた。
素朴な遊牧の民だ。
彼女は見知らぬ人影と巨大な魔獣に気づいて、手に持っていた追いもの杖をとっさにかまえた。
緊張しながらも鋭い眼光を向けてきたが、獣の背からおりたエフェスが見かえすと、女はしびれたように身体をこわばらせ杖をとりおとす。
驚愕にひらかれた目は完全に魔族に捕らわれていた。
エフェスが硬直した女の首すじに手のひらをあてると、彼女の表情は徐々に恍惚としていき、身体が弛緩して立っていられなくなる。
男が支えるまでもなくその肉体は光の粒子へと姿を変え、彼の手のひらへ吸いこまれていった。
最後にぱさりと落ちた衣だけが、人がいた痕跡として残される。
「おまえにも気流が必要だ。腹いっぱい喰わせてやるつもりはないが、そのままでは生命維持もおぼつかないからね」
言い終わると同時に男はふっと姿を消した。
草地のはるか遠くに粗末な小屋が建っている。
カシュカイがまさかと思っているうちに、再び姿を現した男の手には、五歳にもならないほどの子供がかかえられていた。
眠らされているのか、力なくエフェスによりかかっている。
その瞬間、カシュカイの全身が総毛だって気道が狭まるのがわかった。
主国に施された法術の、人間を喰うという禁忌への反応は過剰なほどだ。
法術士たちがどれだけ腐心して、カシュカイの捕食衝動を破壊しようとしたか知れようというものだ。
カシュカイ自身が人間を喰いたいと欲しなくても、『人間』と『糧』を脳裏で結びつけるだけで術は反応する。
子供から目をそむけて、カシュカイは呼吸を整えるのに集中した。
体内の瘴気が枯渇して本能が気流を求めているため、意識をそらすのが難しい。
喘ぐような浅い呼吸をくりかえすスィナンの青年を、エフェスは不思議そうに見やった。
「なにか法術が発動しているな。……まさか人間を喰えないのか」
男が子供の身体を近づけたので、カシュカイはありったけの力をふりしぼって身を遠ざける。
「や、めろ」
無理やり発した声は、かすれてほとんど音にならなかった。
エフェスは実に興味深そうにカシュカイを観察する。
「人を喰わずに生きるなど信じられない話だが、スィナンが自然気流だけで生命活動を維持できるという噂は本当だったのか。おまえはただの一度も人間を糧にしたことがないのかい?」
青年が答えず苦しげに顔を伏せたのをどう思ったのか、魔族の男は子供をかかえなおしてなおも近づいた。
カシュカイがのがれようとするまえに、腕をつかんで引きよせる。
「では、おまえに人の味というものを体験させてやろうか。なかなか過激な法術が施されているようだが、解術はできなくとも一時的に抑えることはできる」
二の腕をつかんだまま、エフェスは呪を唱えはじめた。
なんとか手をひきはがそうと抵抗するも、男の思いつきともいえる試みに対して、カシュカイは無力だった。
呪の詠唱は身体に違和感を生じさせる。
それは身体を構成する部品のひとつひとつがずれて軋むような嫌な感覚だ。
崩れる、とカシュカイはとっさに思った。
この肉体は法術士たちの手で、多くの法術や薬物によって実験をくりかえしながら、緻密に組みあげられている。
わずかでもその均衡が揺らげば、あっという間に心身とも崩壊してしまう。
「く、あッ」
カシュカイはかすれたうめき声をあげてうずくまった。
ばきん、と音をたてながら身体じゅうに亀裂がはしる。
細かな破片がはがれ落ちていく。
――もちろん実際にそんなことはおこらなかったが、あまりにも生々しい感覚は、カシュカイの精神をばらばらに砕こうとしていた。
身体をひきつらせてうめく青年の異常な反応を見て、エフェスはさすがに詠唱を中断すると法術への干渉をやめる。
しかしひどく呼吸が浅くなっているのに気づき、子供を放りだしてカシュカイを抱きよせあおむけにさせた。
「瘴気が足りなさすぎるのか」
男は右手で青年の口をふさぎ、意識を集中させる。
細い身体がびくんと反って、拒絶するように顔をそむけられそうになったが、彼は強い力で口をふさいだまま逃がさなかった。
手のひらに熱が集まりカシュカイへそそぎこまれていく。
魔属の瘴気がスィナンのもつ瘴気と同じものなのか男は知らなかったが、配慮する気はなかった。
カシュカイの身体が受けつけないというなら、それまでのことだ。
どれくらいのあいだそうしていたのか、青年は気を失っていたが、いつの間にか呼吸は穏やかに安定している。
からの杯に水をそそぐように、カシュカイの内に瘴気が満たされていた。
拒絶反応もなく、呪による法術への干渉も影響は抑えられたようだ。
エフェスはあらためて、稀有なスィナンのマラティヤを見おろした。
青白い顔はまったく同胞の身体的特徴と一致している。
しかしどれだけ外見が同じだろうと、存在の本質とでもいうべきものが、スィナンの一族である事実をこれ以上ないほどあきらかにしていた。
手をのばしてかすかに上下する胸の上へおしあてると、鼓動が小さく伝わってくる。
魔属に心臓という器官はなく、核と呼ばれる部位が肉体を司っているが、人間のように鼓動を刻んで血液と気流を身体の隅々までいきわたらせるといった役割をもっているわけではない。
そもそも魔族は体温すらある程度自由に制御でき、たいていの者はよけいな気流の消耗を避けるために、普段は人間が触れれば違和感を覚えるほどの低い体温を保っている。
その性質はスィナンにも受け継がれており、心臓が脈打つなどおかしな話だ。
エフェスがさらに観察してみると、規則正しく響く鼓動は心臓が担っているわけではなく、心臓に擬態した核が模倣しているのに気づいた。
スィナンの一族は魔属と同じく人間とは敵対する立場だが、同時にいがみ合いながらも人間と接触を続け生存してきた長い歴史がある。
人間との切れない関係性のなかで、彼らに適応しようと自らを変化させるのは、合理的な生存戦略といえた。
エフェスは初めて、珍しいマラティヤではなく、スィナンとしてのカシュカイに興味をもちはじめた。
少し探っただけでも垣間見える、肉体に相当な負担をかけ複雑に絡みあった法術の影も気にかかる。
もっと詳しく法術のことを調べようとエフェスが身をのりだしたのと、カシュカイが意識をとり戻したのが同時だった。
一瞬正面からまともに目が合い、直後にはカシュカイが攻撃術をくりだす。
そして間合いをとるため後ろへさがろうとしたが、束縛の呪のせいで足がもつれて膝をくずし、法術は不自然に収縮して手のなかではじけ散ってしまった。
衝撃で火傷を負った手にもかまわず、カシュカイは魔族の男をにらみつける。
「不屈の闘争心だな」
エフェスは呆れと感嘆の混じった感想を口にした。
彼の顔の左側面はこめかみからあごまでひどい傷あとに覆われていて、耳もなかば削りとられている。
傷そのものはすべてふさがっていたが、冴えざえとした肌の白さのなかで、肉の薄桃色や赤黒さでむきだしになった傷あとは異様な鮮烈さを放っている。
魔族の力をもってしても完治できない重傷を与えたのは、目の前のスィナンの青年だ。
しかしその事実は、エフェスに怒りも憎悪ももたらさなかった。
幸い眼球は傷ついておらず耳の機能も問題ない。
自らの行動を制限する足枷にさえならなければ、外見の良し悪しなどとるに足らないことなのだ。
永く生きすぎたエフェスにとっては、ただの暇つぶしであれ遊びであれ、危険をともなう刺激のひとつもなければ、なんの満足感も得られない。
「ところで、その左腕は自分で再生したのか」
スィナンの青年と再会して以来の疑問を、エフェスは投げかけた。
「すばらしい再現力だな。治癒と回生の能力に関して、スィナンはあらゆる種族のなかで群を抜いている」
カシュカイはなにも答えなかったが、その目はいぶかしさにかすかに細められている。
彼の反応で、エフェスは直感的にもうひとりのマラティヤを思いだした。
鮮やかな湖緑色の髪の人間。
琥珀の目がもつ不快なほどの意志の強さを。
理由もなく、あの青年がすべてを処理したのだと悟った。
エフェスがたわむれに接いだアーシャーの腕を落とし、完全に失われた左腕を再生させたのだ。
なぜそれを本人が知らないのか、エフェスにはわからない。
「その様子では、ぼくに左腕をとられたことすら覚えていない?」
カシュカイは今度は目にみえて表情をこわばらせた。
「なんだ、それは残念だったな。せっかくおまえにアーシャーの腕をやったのに、大地のマラティヤはすぐにとりのぞいてしまったのか」
エフェスは本当に残念そうに言った。
スィナンと魔族の身体を混ぜたらどうなるのか興味があったからだ。
しかしカシュカイの腕を接いだアーシャーには適合しなかったので、カシュカイも同じ結果だったかもしれない。
いや、アーシャーの身体が崩壊しはじめたのは、神のしるしのせいだという可能性もある。
いずれにせよ、エフェスの試みは満足できるものにはならなかったのだ。
黙して顔を伏せたカシュカイを観察しながら、エフェスはふとした思いつきに口の端を上げた。
「そうだ、おまえはまったく拒絶反応もなく、ぼくの瘴気を受容したんだ。もしかすると中央大陸へ渡れるかもしれないね」
魔属誕生の地といわれる中央大陸エシュメ。
かの地を踏めるのはエシュメで生まれたものだけだという。
それが可能なのは、彼らがもつ瘴気のなかに特有の精が含まれるからだ。
自らの瘴気で満たしたカシュカイも中央大陸を渡れるのではないかと、エフェスは考えたのだった。
「ちょうどいい、一度郷へ戻ろうと思っていたところだ。おまえを共に連れていこう」
男の楽しげな口ぶりにもカシュカイは反応しなかった。
その行為が失敗すればどうなるか、二人ともわかっていただろう。
しかし男は当然頓着などしなかったし、カシュカイも抗わなかった。
最初のコメントを投稿しよう!