05 - ヨルク最南端の港アイナール

1/1
前へ
/7ページ
次へ

05 - ヨルク最南端の港アイナール

 ヨルク最南端の港アイナールから首都タトゥーリヤまで、徒歩や馬では途方もない距離だが、転移法術陣を使えば二度の中継地を介して数日の行程である。  マラティヤであるアイディーンは優先的に使用できたため、カプラン大陸へ着いて四日後にはタトゥーリヤの王宮前広場に立っていた。  串焼きや揚げ菓子、青果のほか日用品などあらゆるものを売る屋台が広場にところ狭しと並んでおり、首都らしいにぎわいをみせている。  周囲にマラティヤと知れればビジャールのときのように王宮まで噂が届き、召喚され大仰に歓迎の宴を開催されてしまうので、アイディーンは額はもちろん顔もなかば隠し、自ら王宮を訪ねるつもりもなかった。  身上があかされる危険をおかして王宮近くまで来たのは、アイナール港でクシュル子爵からある人物を紹介されたからだ。  その人物は、首都郊外に住むスィナンをよく知る法術士だという。  高名な研究者で宮にほど近い高級住宅区に居を与えられているため、アイディーンは足を運んできたのだった。  広場から細い裏通りを進んだ先に大きな邸宅が並ぶ閑静な住宅街があり、そのうちの一軒が目的の屋敷である。  アイディーンが訪ねると、クシュルから先に知らせをうけていたらしく、屋敷の家僕はすんなりと彼を迎えいれた。  通されたのは応接間ではなく奥の蔵書室だった。  戸を叩いて入室する家僕に続いたアイディーンは、予想外に広い部屋に限界まで並べられた書架と、そこからもはみださんばかりに詰めこまれた膨大な量の本に、押しつぶされそうな錯覚をおぼえた。  「旦那様、シャルキスラ様がいらっしゃいました」  家僕が声をかけると、二つ向こうの書架から老人が顔をのぞかせ、両手に本の山をかかえてよろよろと近づいてくる。  「よくいらっしゃった。この歳になってマラティヤにお目にかかろうとは」  アイディーンは短くあいさつを返して老人の手から本をとりあげると「どこへ運びましょうか」と尋ねた。  「いやはや、すみませんな。どうぞこちらへ」  頭をかきながら申し訳なさそうに言って、老人は二階の自室へ案内する。  そこは彼の仕事部屋らしく、蔵書室に負けず劣らず紙束と本の山で埋まっていた。  昔ほど紙が貴重品でなくなったとはいえ、平民にとって本はまだ貸本屋や図書館で借りて読むことも多く、個人でこれほどの量を所有しているとなるとひと財産になるだろう。  「これはすべてあなたが集めたのですか」  部屋を見渡してアイディーンが尋ねると、老人はうなずいて言った。  「クシュル卿からお聞きになっているかもしれませんが、わしはスィナン研究に力をいれておりましてな。ありがたいことに国から補助金がでていて、在野の研究者から論文や資料を買いとるのにつぎこんでいるのです」  大きな机にかろうじてあった隙間に本を置くアイディーンの隣に立って、老人は手をさしだした。  「わしはエムリ・ユーヌスと申します。法術士をやっとりますが、もっぱら研究にばかり没頭しておりまして」  アイディーンもあらためて名乗ると老人の手をにぎりかえす。  「スィナンの一族を専門的に研究しているとは珍しいですね」  「いまとり組んでいるのは、正確には『法術における精霊とスィナンの一族の関係性』です。知りあいにスィナンがいるせいか、かの一族への興味が尽きませんでな。マラティヤに選ばれるとは、本当に興味深い話です。彼女にもぜひ会っていただきたい」  「クシュル卿の知人という人ですね。郊外に住んでいるとか」  放っておくと延々としゃべり続けそうなユーヌスへ言外に本来の用事を思いださせると、老人ははっとして机のひきだしから紙をとりだし、簡単な地図を描いてアイディーンへ渡した。  「タトゥーリヤの東にあるミレットという街です。役所からすぐのところに住んでいます」  「人間の子供と二人でですか」  「いえ、住みこみの家僕がひとりおりまして、二人の世話をしています」  子供の身内はどうしているのかと疑問がわいたが、アイディーンは別のことを尋ねた。  「スィナンが街なかで人間と共に生活するのを許されたのは、あなたの口添えがあったからですか」  「なぜそう思われます」  ユーヌスは軽い調子で聞きかえしたが、声音にわずかに警戒がにじんだのをアイディーンは感じた。  「スィナンには人間の知らない一族固有の文化や習慣が多くあります。もしあなたがスィナンの秘事にも通じているなら、おそらく特別(・・)な関係にある二人を引き離す危険性をご存知でしょうから」  青年もまた慎重に答えると、老人は今度こそ驚愕して言った。  「おお……! まさかアイディーン殿がそのことを知っていらっしゃるとは。大気のマラティヤが自らあかしたというのですか」  「ええ……」  アイディーンの消極的な同意をよそに、ユーヌスはしきりに感嘆の声をあげる。  「大気のマラティヤはよほどあなたを信頼しているのですね。お察しのとおり、ミレットの二人は契約を交わしています。しかし誰彼かまわずこのことを言うわけにはいかないので、スィナンが万一問題をおこしたときはわしが責任を負うという条件で、上役から許可を得ました。スィナンはその事情を知っているので、つつましい暮らしぶりで、わしの研究にも協力してくれているのです」  老法術士は純粋にスィナンの一族への知的好奇心を追及するだけの悪意のない研究者だとわかり、アイディーンは内心安堵した。  周知するべき情報と公開するべきではない事情をわきまえた理性的な研究者だった。  「俺もそのスィナンに力を借りたいと思っています。これからすぐに会いにいってもかまいませんか」  「ええ、前もって連絡はすませてあります。馬車を使えば、明日の夜までには着けるでしょう」  アイディーンがデニズリを発ってからすでに五日以上が過ぎている。  ここへ来るまで手あたりしだいに探索して歩いたが、魔族の男の足どりはつかめず、クシュル卿から聞いた以上の情報は得られなかった。  カシュカイははたして無事なのだろうか。  エフェスのそばにいる以上、わずかも楽観できる状況ではない。  スィナンの女が魔族について有用な情報をもっているのを祈るしかなかった。  ――馬屋へ行くとちょうど東へ行くという老夫婦が馬車を借りるところで、アイディーンが同乗させてもらえたのは幸いだった。  その晩は宿場に泊まり、馬の継ぎ立てをして翌日の昼下がりにはミレットに到着した。  夏の日はまだまだ高く、日暮れの気配はない。  さらに東方へ向かう夫婦へ礼を告げて、馬車を見送った。  ミレットは首都の喧騒が嘘のようなこじんまりとした街だ。  農村というほどひなびているわけではないが、街じゅうに安閑とした空気が流れている。  ユーヌスに描いてもらった地図を頼りにみつけた家は、意外にも屋敷と呼んでもさしつかえない立派なものだった。  ひと昔前に流行した建築技法が用いられており、壁や柱に相応の年季が入っているところをみると、当時成功した商人がそのときの最先端の邸宅を建てたといった趣がある。  家そのものはところどころ修繕されて、庭も美しく整えられていた。  この街の家はどこも塀はあっても門扉で閉じられてはおらず、中へ入れるようになっていたので、アイディーンはいまの季節が盛りのジャスミンの花をながめながら庭を通り、扉の呼び鈴を鳴らした。  しばらくして出てきた家僕らしき若い女は言葉を失い、目を大きくひらいてアイディーンを見上げる。  「こんにちは、ご主人はご在宅かな」  家僕の無作法な態度にかまわず尋ねると、彼女は我にかえって顔を赤らめつつ慌てて客人を迎えいれた。  応接間に通され女が退室すると、アイディーンはよく手入れされた室内を見まわす。  置かれた家具は少なく装飾的でもないが、古い良いものを品よく配置してあり、すべて磨きあげられている。  主人の好みだろうか。  しつらえを見ているうちに、家僕が戻ってきて扉をあけた。  「どうぞ、リジ」  「ありがとう」  子供らしい声に、アイディーンはソファから立ちあがりあいさつをしようとしたが、予想外の姿に一瞬口上が遅れた。  入ってきたのはアイナール港でクシュルが言っていたとおり十歳を過ぎたばかりの少年だが、彼は左右に大きな車輪のついた機械式車いすに乗っていたのだ。  そして両目は完全に閉じており、顔の左側を中心にいくつもの裂傷の痕が刻まれている。  「初めまして、リジ・アシュディと申します。お目にかかれて光栄です、大地のマラティヤ」  「時間をつくってくれてありがとう、アシュディ。俺はアイディーン・シャルキスラ、アイディーンと呼んでくれ」  アイディーンは車いすの前まで行って片膝をついた。  音と声で彼との距離がわかったらしい少年は右手をさしだし、アイディーンはしっかりとにぎりかえす。  「ぼくのこともリジと呼んでください、アイディーン」  少年はにこりと笑って少し顔を上気させた。  マラティヤに会えて興奮しているようだ。  実に子供らしいほほえましい反応だが、リジの姿の衝撃はまだ去らなかった。  「大気のマラティヤはスィナンなんでしょう? ぜひぼくのスィナンにも会ってください」  無邪気な少年にアイディーンが答えようとしたとき、ドアのあたりに高濃度の瘴気と気流のかたまりが突如出現した。  青年が反射的に身がまえて顔をあげると、女が立っている。  圧倒的な存在感と、濃密な空気。  実際にはなにも匂いはしないのに、女から麝香が放たれて脳の芯まで溶かされるような錯覚におちいる。  それほど美しく妖艶なスィナンだった。  造作だけでいえば同胞であるカシュカイとよく似ていたが、まとう存在の確かさが――自我の在りようとでもいうべきものが、カシュカイの儚さとは対極の強烈さをもっている。  「さっきからここにいたよ」  女はゆっくりと歩いてきた。  動くたびに、腿下まで流れる結わないままの長い髪が万華鏡のように輝いて揺れている。  ひとつの宝飾品もつけずあまりにも簡素な黒の衣を身に着けただけの姿でありながら、その髪だけで極上の宝石にも勝るということを本人はじゅうぶん知っているのだ。  「リジ、今日は上機嫌だね」  女は車いすの横にかがんで、少年の頬にキスをする。  リジも彼女の頬にキスをかえして「だってマラティヤだよ!」と声をうわずらせた。  女が身をおこしまっすぐにアイディーンを見つめてきたとき、彼は強く自制して奪われそうになる意志をおさえこまなければならなかった。  彼女の目も髪と同じきらめきをもっている。  カシュカイとちがうのは、彼女のほうが紫の色彩が少し濃いところだ。  スィナンの青年を思いださざるを得ない姿に、アイディーンは苦々しく目を細める。  早く彼を連れ戻したいと強く思った。  女は鷹揚に微笑んで目を伏せる。  「若き同胞の主に心からの祝福を。(われ)はサリフィア、リジは我の主だ」  少し低くなめらかな声は、蒸留酒のようにかぐわしく酩酊をもたらす甘さに満ちていた。  一見カシュカイの姉といってもまったく違和感のない若い女が口にした『我』という自称に、アイディーンはスィナンの一族封印以前から生きていると言ったクシュルの言葉を実感する。  それは、もはやいにしえの文献のなかでしか使われない古い言葉だった。  「会っていただきありがとうございます。俺からも浅からぬスィナンとの縁に感謝します」  アイディーンがサリフィアの手をとって甲へ口づけるのを見て、彼女はおかしそうに微笑する。  「噂にたがわぬ紳士ぶりだ。だが同胞の主であるそなたは我に敬語を使う必要はないし、淑女のように扱ってくれずともよい。――さあ、みな席について話をしよう。あまり時間はないのだろう」  アイディーンの事情をどこまで聞いているのか、サリフィアは彼の焦心を察しているようだった。  リジは二人のほうが話が早いだろうと気をきかせ退室しようとしたが、サリフィアがそれを許さずおしとどめる。  「だって、サリフィアがずっと気にかけていたスィナンでしょう。今回のことはサリフィアのやりたいようにしてほしいんだ。ぼくがいたら、きみは思うままに動けない」  「リジ」  サリフィアは少年の手をとって額を軽く触れあわせた。  「そなたが案じることなど、なにもありはしない。だからそばにいておくれ」  「わかった……」  リジがうなずいたので、サリフィアは彼の顔をあげさせて閉じられた目をまっすぐに見つめ、まつ毛にかかった前髪を整えてやった。  その仕草には慈しみがあふれている。  リジがおちつくのを見計らって、サリフィアが客人へ席につくようすすめると、少年は目の前にアイディーンがいるのを思いだしたらしく、はにかんで言った。  「あの、アイディーンはきっとぼくの姿にびっくりしたでしょう。――ぼくは、ヨルクの北海に広がるパラサ群島のひとつで生まれました。ぼくが二歳のとき、村が戦争に巻きこまれて両親が死に、ぼくも法術弾の爆発で右足と視力を失いました。サリフィアは瀕死のぼくと契約してくれて、真眼の機能をすべて失ってまで、その力で一命をとりとめてくれたんです」  左足は残ったものの腰から下は麻痺していて歩けず、右耳も少し聞こえにくいのだと少年は説明する。  「でも幼かったのでそのときのことをあまりおぼえていないし、ずっとサリフィアが一緒だからなにも不安はありません」  すさまじい経験をしていながら、リジには本当に陰鬱な暗さがなく、前向きで憂いのない雰囲気をもっている。  そしてサリフィアは、彼をそれこそ宝物のように大切に守っているのだ。  スィナンの情の深さの一端をアイディーンはまざまざと感じていた。  彼らは定められた唯一の主にすべてを捧げて惜しまない。  「サリフィアはなぜそんな場所にいたんだ。そもそも、オブルックの封印からどうやって脱出を?」  百年前に行われたスィナンの一族封印の際にのがれた者が少なからずいたのは事実だが、封じられた地から脱したという話はついぞ聞かない。  アイディーンの疑問に、少年の手をにぎったままいとおしげに髪をなでていたサリフィアは、こともなげに言った。  「我は少々放浪癖があってな、当時何十年もオブリックには戻っていなかった。パラサ群島にいたのは個人的に興味があったゆえ」  「何十年……?」  アイディーンは怪訝に問いかえした。  一族が封印されて、もうすぐ百年を数える。  それよりさらに以前から数十年にわたる旅にでていたとすると、すでに人間の寿命を超える年齢である。  青年の疑問を正確に読みとったサリフィアは、実にスィナンらしい蠱惑に満ちた微笑をみせた。  「我が見たマラティヤはアイディーンでたしか四代目となる。そなたは四代のうちで群を抜いて美しい男子(おのこ)だな」  からかいを含んだ賛辞に反応するより、このスィナンの女が四百年以上の時を生きてきたという事実に、アイディーンはさすがに言葉を失った。  通説ではスィナンの一族は二百年から四百年の寿命をもつといわれるが、それを凌駕してなおその容貌は若々しい。  しかしアイディーンは彼女と対面したときからあった違和感の理由がわかって、納得もしていた。  サリフィアは二十代なかばを過ぎたほどの一分の隙もない美貌だが、瑞々しさよりも爛熟した果実のような凝縮した甘さと他を圧する濃密な気配をただよわせている。  それは冷たく澄んだ薄氷を思わせるカシュカイとはまったく異なる存在感だった。  たしかにこれほどの長命で何度も暗黒期を経験してきたなら、魔族に対して人間の知り得ない有用な情報をもっているかもしれない。  「スィナンの一族は神の紋章を嫌忌すると聞くが、サリフィアの知識と知恵を貸してもらうことはできるだろうか」  「同胞らはかたくなに神々を排斥しようとするが、我は神に対してわだかまりも関心もない。もとより、そなたには協力するつもりだったゆえ」  「ではカシュカイを受けいれてくれるのか」  アイディーンが安堵したのとは逆に、スィナンの女はそのとき初めて笑みではない不快げな表情を垣間見せた。  「カシュカイ、と言ったか」  「大気のマラティヤの名だ。俺はカシウと呼んでいるが……」  不意にうまれた不穏な空気に、アイディーンは虚をつかれながらも慎重に答えた。  サリフィアが柳眉を寄せたのはほんのいっときで、青年の言に表情をやわらげると、最初に会ったときと同じように心内を読ませないかすかな微笑をたたえる。  「愛称というのは良い考えだ。主に親しく呼ばれるのは同胞にとっても喜ばしいこと。我もそなたにならって、若き同胞をカシウと呼ぼう。――それで、魔族がさらっていった状況というのは」  あきらかに不自然な話の転換だったが、彼女が有無をいわせないかったというより、アイディーンがあえて問うのをひかえた。  この場では話しにくいのだろう含みがあるのを察したからだ。  青年はバズルリングの一件でカシュカイが魔族に目をつけられたこと、デニズリの王宮から拉致され、カシュカイに王族殺しの濡れ衣が着せられていることなどを説明する。  「ただカシウを救出するだけでは事足らぬというわけか。しかし、魔族を生け捕りにして人間殺しを証言させるのは容易ではない」  「魔族がカシウを連れ去ったのを目撃したビジャールの間者を、ビジャール王が証言者として立ててくるか確信がもてない。エフェスを捕らえて交渉に使えるようにしておきたい」  ビジャール王タトゥルスは、スィナンの一族が弱者として貶められた現状を良く思っていない。  いまのままでは、人々は欲望のままにスィナンを扱うことができるからだ。  王はスィナンと人間とは一定の距離を保ち、交わるべきではないと考えている。  カシュカイの人間殺しの容疑を否定しなければ、デニズリが騒ぎたてればたてるほどスィナンの非道を人々は思いだすだろう。  大気のマラティヤが人間殺しだろうと王族殺しだろうと、暗黒期を終結させるという大義の前では任務の致命的なさまたげにはならない。  だとしたら、ビジャールは表立って大気のマラティヤを擁護せず放置するのではないかと、アイディーンは危惧していた。  彼に魔族を目撃したと告げた間者が、カシュカイの弁護のためデニズリ王宮へ向かわずそのままビジャールへ帰国したことも、疑惑を確信に近づけている。  密偵を潜りこませていたのを認めるわけにはいかない事情もあるに違いない。  「エフェスとは、聞き覚えのある名だな。ずいぶん昔に会った記憶がある。旧世代と呼ばれる、魔族のなかでも古い時代からの生き残りだ」  魔族は神々と同じく寿命がないといわれているが、他者を殺し能力を自分にとりこむことで格を上げ同属の頂点を目指す、種族としての本能があるとサリフィアは言う。  そのため、実際には永遠に生き続けている者はおらずゆるやかに世代交代は進んでおり、長く生きる者でもせいぜい数百歳ほどだと。  「我の見立てでは、エフェスとやらも三百に届くかどうかというところだった。魔族は力を蓄えるほど同族の標的になりやすい」  「だとすれば、奴が中央大陸へ戻る可能性は低いか」  あえて競争相手が多く命の危険にさらされる場所に身をおく理由がないとアイディーンは考えたが、サリフィアは首を振った。  「ところがそうともいえない。エシュメ出生の魔族は生まれながらに強い呪力をもち、大陸間を容易に渡り歩くゆえ放浪する者は多いが、長くエシュメを離れることができない。郷里の闇があの種族の生命の核だからだ。アイディーンの話から数えると、少なくともひと月以上は外界に出たままだろう。そろそろエシュメへ戻ってもおかしくない」  彼女は至極あっさりと、魔属研究の第一人者でさえも知らないような魔族の性質をあきらかにして、エフェスの行動を予測した。  「だが、カシウを連れて上陸するのは無理だ」  中央大陸へ渡るために必要な紫玉はまだじゅうぶん集まっていない。  「なにか方法をみつけたか、もうすでに手もとに置いていないかどちらかだろう。あの男は執着の強いたちでな、連れていけないから手放そうなどとは考えない。それならば最悪の事態になっているか、もっとむごい(・・・・・・)事態になっているかだ」  最悪――殺されるよりも悪い状況というのがどんなものか、アイディーンにはたやすく想像できた。  エフェスが魔族の腕をカシュカイに接いで観察を楽しむような、狂気じみた男だと知っているからだ。  どちらにせよ時間の猶予はあまりにも少ない。  「魔族は長距離を移動するのに『夜の道』という(くう)の狭間を通って千里を一里に縮めると聞く。エフェスが中央大陸へ向かうとすれば、オルルッサ大陸からわざわざカプラン大陸へ渡った理由がわからない」  魔族の男の不可解な行動から手がかりをつかめないかとアイディーンが疑問を呈すると、サリフィアは明快に答えた。  「夜の道を使うにも条件がある。海にへだてられた場所へ移動するには、互いにもっとも強く引きあう――つまり一番近い陸地を経由しなければならない。エシュメへ戻るには必ず次にケレス大陸を通るというわけだ。そして、エシュメと外界が夜の道で結ばれているのはリステムだけ」  「リステム……」  アイディーンは、ある意味では有名すぎる街の名をつぶやいた。  中央大陸エシュメにもっとも近く、世界のもっとも北に位置する大陸ケレス。  その極北の地オブルックにはスィナンの一族が封印されており、最南端へ細長く突きだした半島がリステムと呼ばれる地域だった。  魔族の男の行方の目途がついた以上、一刻も早く行かなければならなかった。  供された茶を飲むことなく立ちあがったアイディーンを見て、サリフィアも腰をあげる。  「我も同行しよう。あやつに関しては役にたてるすべもあろうゆえ」  彼女は二人の会話に一度も口をはさまず静観していた少年のそばに膝をつくと、傷跡だらけの小さな顔を両手で包んでじっと見つめたあと「すぐに戻る」と言って頬に長いキスをした。  リジはただ黙ってうなずく。  「アイディーン、少しだけ待っていておくれ。家人に留守のあいだのことを伝えておかねばならない」  サリフィアが退室してから、客間に残されたアイディーンは「いいのか」と少年へ尋ねた。  カシュカイもそうだが、終の契約を交わしたスィナンは主のそばを離れるのをひどく嫌がる。  もちろんカシュカイがあからさまに態度にだしたことは一度もなかったが、アイディーンが指示しないかぎり気配を感じられないほど遠くへ行こうとはしない。  現にサリフィアもリジを置いていくのが心配でたまらない様子だった。  スィナンでありながら主に対して自らの意志を通す彼女を見て、アイディーンは内心驚きもあった。  カシュカイがなにかを願ったり主張したりしたことは過去一度としてない。  彼はあまりにも契約に従属的だった。  しばらくうつむいていた少年は、気持ちを整理するようにぽつぽつと答える。  「サリフィアは、スィナンの一族の仲間をとても愛しているんです。大気のマラティヤにスィナンが選ばれたのも最初から知っていて、ずっと気にしていたようでした。数日前に大地のマラティヤが面会を望んでいるという連絡を受けたとき、ぼくは彼女に自分の望むように行動してほしいと言ったんです」  その言葉に強い覚悟を感じとって、アイディーンはそっと少年の肩に触れた。  「サリフィアがきみのそばを離れるのを許してくれてありがとう。彼女の協力は俺にとって、なにものにも代えられない幸運だ」  「アイディーンも大気のマラティヤのことが心配でしょう。彼もきっと、あなたのもとへ帰りたがっていると思います」  リジから深い気遣いが伝わってくる。  カシュカイを人として思いやってくれる言葉を、アイディーンは初めて聞いたのだった。  こみあげてくる感情の正体がつかめないまま、彼はその波があふれてしまわないようにただ目を閉じた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加