06 - 中央大陸に国としての区分はない

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06 - 中央大陸に国としての区分はない

 中央大陸に国としての区分はないが、ごく少数の魔族がそれぞれ〈郷〉と呼ばれるなわばりを持ち、都市国家としての構造を保っている。  エシュメには魔属や人間と異なるいくつかの亜種族がおり、領民として主人である魔族の支配下にある。  亜種族によっては特定の分野への優れた技術を持ち、その優れた技を主人へ提供する代わりに、外地の魔族や魔獣の襲撃から守護してもらう契約を結んでいた。  エフェスが自分の郷に戻ったのはちょうど日没の頃合いで、赤紫の美しい光が海の水平線に消えようとしている。  それをしばらくながめてから住み処へ帰りつくと、屋敷の管理を任されている所従が、いつもそうしているように各部屋の燭台に明かりをともしてまわっていた。  屋敷といっても、人間が住むような木材や煉瓦でつくられたものとはまったく違う。  エフェスもそうだが、魔族には独特の美的価値観があり、過度に人工的なものを好まない。  家ひとつとっても岩壁と樹木から直接彫刻したような、遠目には建物とわからない自然に溶けこんだつくりになっており、建築を得手とする種族に建てさせたものだ。  ただし例外的に、魔族の多くは緻密にカットし磨きあげられた鉱石に強い執着をみせる。  美しく光を反射させる貴石には彼らを惹きつける稀有な気流があり、自らの装いに使うことはないが、その香気に触れるとこの上ない心地よさで酩酊するのだという。  サリフィアが執着の強い男と評したエフェスは、貴石に対しても多くを収集しており、屋敷内のどこにでも無造作に置かれていた。  郷の内でもめったに姿を見ない主人の久しぶりの帰還に所従らは慣れたふうだったが、あきらかにエシュメの民ではない異質な存在である主人の同行者には、不審と警戒の目が向けられた。  「領主に似た姿なのに、まったく違う(・・)。何者なんだ」  「外界に住むスィナンという少数種族さ。ぼくら魔族の遠い兄弟のようなものかな」  所従のとまどいに、エフェスはおかしげに答える。  「領主が母親の胎から生まれたなど聞いたこともない話だ。魔族に血縁なんてものがあるとしたら、母なるエシュメの闇から生まれた魔属は皆兄弟かもしれないが」  皮肉を含んだ所従の揶揄に、魔族の男はとうとう声をもらして笑った。  彼らの会話に耳をかたむける余裕もなく、カシュカイは身体の違和感に耐えていた。  空気の質が外界とは違っていて、息を吸いこむたびに意識がぐにゃりと揺れて形を失いそうになる。  この地に上陸してからずっと悪酔いしたような感覚が続いていた。  しかし、そんな不具合は中央大陸にいるという事実に比べれば実に些末なことだった。  従来の手順を必要とせず単身エシュメへ入れるなど、信じられない話だ。  エフェスは喜々として試そうと言ったが、カシュカイ自身はとうてい成功するとは思っていなかった。  エフェスも確信があってやったわけではなく、たんなる思いつきだったはずだ。  エシュメの魔族の瘴気で身の内を満たせばエシュメへ上陸できるなどと、いったい誰が考えるだろうか。  この事実はあまりにも信じがたい偶然の産物だった。  まず、気流に加えて瘴気をもつスィナンがマラティヤとなったのが奇跡的なことである。  そして他者に自らの瘴気を分け与えるという奇特な行為を実行に移す魔族が現れ、気まぐれな実験とはいえ魔族が忌み嫌うスィナンに対してそれを行った。  さらにはエシュメへ連れ去ろうとしたすべてが人知をこえためぐりあわせだった。  カシュカイにとって、これはマラティヤの務めを果たす好機に他ならない。  ひとりで事が済むならこれ以上の機会はない。  過去マラティヤが命を落とした例はひとつやふたつではないからだ。  中央大陸の中心には、大地の神カースと大気の神セネの祭壇があるはずである。  二柱の神ははるか昔から、この地を解放するためマラティヤである人間を使って浄化をこころみてきた。  直接干渉できないエシュメにかろうじて残した爪痕ともいうべき祭壇へマラティヤの力を捧げることで、わだかまる闇をしりぞけ、エフェスのような特殊な魔族の誕生をついえさせようとしている。  しかし神々の力はいまだ大陸全土に行き届かず、暗黒(カラバー)期は変わらずくりかえされた。  カシュカイにとっては、神の思惑などどうでもいいことだ。  いまマラティヤの務めを果たして暗黒期の永久の終焉が得られなかったとしても、なんの失望も感じない。  ただアイディーンの身の安全が守られ、彼が生きているあいだの平穏が保たれることだけが、カシュカイの願いであり目的だった。  そのとき、自身もようやく忌まわしい人間たちの支配から自由になる――。  「久しぶりの郷だ、ぼくは少し休む。ジャジュク、しばらく世話をしてくれ」  エフェスは所従にカシュカイの面倒を任せると、彼の腕に呪文が刻まれた鉱石の環をはめさせ、いままで行動を制限していた呪を解いた。  「ぼくの監視からのがれられないが、これで自由に動けるようになる。ぼくがいないあいだは好きなように過ごすといい」  返事も待たずに、エフェスはさっさと奥の間へ行ってしまった。  自分の思いどおりに動く手足を確かめたカシュカイは腕環をつかんだが、案の定無理にははずせないわかって、手を離す。  その様子を所従は興味深そうに見ていた。  「外界の者がエシュメを訪れるのは本当に珍しい。しかもうちの領主が同胞以外にかまうなんてな。おまえ、名はなんていうんだ」  カシュカイは一度所従へ目をやりはしたが、返事もせず扉へ歩きだす。  「おいっ」  慌てて青年の後を追った所従は呆れて言った。  「不遜な奴だな。実は魔族なんじゃないのか。まあいい、名を渡したくないなら種族の名でスィナンと呼ぶからな。おれのことはジャジュクと呼べよ。……それから、そこの扉はおれの持っている鍵がないとあかないぞ」  ちょうど扉の取手に手をかけたところだったカシュカイは、そこで初めて所従に関心を向けた。  「あけろ」  「どこへ行く気なんだ。領主が逃げられないと言っただろう。それにおまえ、ずいぶん顔色が悪い。腹が減っているのか? おれらが食べるような普通の食事でいいならだしてやれるが」  「私にかまうな。おまえは扉をあけるだけでいい」  青白い顔をしながら感情の鱗片もなく平坦に言葉を発する青年は、幽鬼的で生ある者にはみえなかった。  魔族のような覇気もなく、ジャジュクたち亜種族のように血のかよった熱も感じられない。  魔族ではなく精霊のたぐいではないかと、ジャジュクはなかば本気で疑った。  「わかったよ。出たいならあけてやるが、領主から命じられたんだ、おれはおまえについていくからな」  懐から鍵束をとりだし、それぞれ違う呪の刻まれた鍵のなかからひとつをつかむと、大きな二枚扉の鍵穴にさしこむ。  カシュカイはもはや所従を見もせず外へ出た。  魔族生誕の地とはいえ、大陸全土に瘴気が満ちあふれているわけではない。  普通の気の流れがあり、場所によっては瘴気が混じっていたり、もっと濃密に瘴気がわだかまっているといった具合だ。  領民であるジャジュクたちの種族も気流がなくては生きられない。  エフェスの住み処の外は森に近い緑の多さで、樹々のあいだに領民の住居が点在しているという不思議な集落だった。  いや、一見集落ほどの規模にみえたが、どこまでも飛び地のように住居が続いているので、民の数は多いのかもしれない。  ジャジュクはちょっと誇らしげに「どうだ」と言った。  「おれの種族は森を切りひらかない生活を好むし、鉱石の加工に長けている。森向こうの山に住む採掘の得意な連中ともうまくやっているから、うちの領主みたいな上級格の魔族と守護契約を交わせるんだ」  力の強い支配者の庇護下に入ることが、この地で平穏に過ごすすべなのだった。  しかし、スィナンの青年は感銘をうけたはずもなく、森の奥へ視線を向けている。  「少しは感心するとか、反応しろよな」  口をとがらせて文句を言うジャジュクをよそに、カシュカイは気流のより澄んだ場所を探って意識を集中させた。  周辺にただよう瘴気と体内の自分のものではない瘴気が邪魔をして、うまく気流をたどれない。  もっと身の内に気流が必要だった。  清浄な気流の保たれた場所に神々の祭壇はあるはずなのだ。  カシュカイは住居が建てられていない草生えの険しいほうへ歩きだす。  ふと濃厚な気流の気配に歩を進めると、規模は小さいが勢いよく水のふりそそぐ滝が現れた。  カシュカイが水しぶきにけむる滝つぼに躊躇なく入っていくのを見て、ジャジュクは驚いた声をあげたが、かまわず身を沈め水底を目指す。  滝のもっとも深く冷たい場所には、自然気流が潤沢にたくわえられていた。  ひき寄せられるようにカシュカイに流れこんできた気流は身体を心地よく満たすものだったが、上陸してからずっと感じていた悪酔いのような意識の混濁が次第にひどくなっていく。  体内のエフェスの瘴気の相対量が減ったせいだ。  急に呼吸が詰まりそうになって、カシュカイは水面から顔をだした。  なんとか岸までたどりついて滝つぼから上がったものの足が立たず、膝と手を草地についたまま荒い呼吸をくりかえす。  エフェスの瘴気はあとどれくらい身の内にとどまっているだろうか。  あまり時間が残されていないのは確かで、完全に尽きるまでにやるべきことを終えなければならない。  「いったいなにをしていたんだ。少しはおれに説明しろよ」  驚きと呆れがないまぜになった顔でそばにしゃがんだジャジュクに、カシュカイは一度目をやり、あらためて正面から強く視線をあてて口をひらいた。  「ジャジュク(・・・・・)」  呼びかけられた瞬間、所従は目を見開いて硬直する。  「お、まえ……名ひとつで相手を縛るほど力が強いなんて、聞いてないぞ……!」  悲鳴のような抗議を無視して、青年は静かに言った。  「この大陸のどこかに、魔属も亜種族も近づけない場所があるはずだ。それはどこだ」  「ち、近づけないって、ほかの魔族が支配する郷には許可なく侵入することはできない」  「違う。瘴気になじんだ者を受け入れない、清浄な気流が保たれた場所だ」  「禁域って皆が呼ぶ不浄(・・)の地なら、エシュメの中心の山にある。闇が濃すぎておれたちどころか魔属すら近づけないところだ……おい、いい加減拘束を解けよっ」  ジャジュクが我慢の限界だというようにわめいた。  問答無用で相手の名を使って心身を縛るやりかたは明確な敵対行為で、彼が怒るのも無理はない。  もとはといえば、カシュカイこそがエフェスに力づくで拉致された被害者で責められる筋合いはないはずだったが、ジャジュクはこみいった事情など知らなかった。  彼の訴えを完全に放置したまま、カシュカイは風の精霊を呼び寄せようとして、精霊がまったくいないのに気づく。  しかたなく自分の指を切って血をだすとそれで手のひらに術陣を描き、等質法術によって自分の身体を上空へ浮かせる。  あっという間に小さくなっていくのを見上げて所従が地上でさらになにか怒鳴っていたが、もはやカシュカイには聞こえなかった。  高度が上がるにつれて、どんどん気温が下がっていく。  スィナンの青年にとってはまったく体に影響をおよぼすものではなかったが、吐く息だけが白く濁って外気の寒さをうかがわせた。  ちぎれたわたあめのようにただよう雲を越えて高みに達したところでようやくとどまり、眼下を見渡す。  エシュメは本当に自然の多い大陸だ。  どこまでも続く緑の絨毯のところどころに山や谷の起伏があり、糸のように大小の河がはりめぐらされている。  右手のはるかかなた、海の向こうにかすかに陸地が見える――ケレス大陸の最南端リステムの地だろう。  だとすると、エシュメの中心はケレス大陸とはほぼ逆方向だ。  見れば、ほかとは比べものにならないほど高く天へ突きでた鋭い頂きの山が、すそ野を大きく広げて座していた。  その周りを紫闇色のもやがまとわりついており、所従の言が正しかったことを示している。  あのなかに、神の聖域はあるだろう。  カシュカイは混濁しそうな意識をかろうじてひきとめながら、そこを目指す。  一見近くに感じられた大山は、実際にたどり着こうとするとそうとうな距離があった。  等質法術での飛行は楽ではないし、ジャジュクが言っていたように、ほかの魔族の郷があれば面倒な事態にもなりかねない。  カシュカイはふと、左腕に目をやった。  面倒な事態といえば、やはりエフェスにはめられた環をはずしておくべきかもしれない。  腕ごと切断して始末してしまえば、あとはどうとでもなる。  左手がないからといってさしたる不便など感じないだろう。  ――いや、と自分のなかで別の声がした。  左手の甲の紋章が失われて、なんの影響もないといえるだろうか。  大地のマラティヤがカシュカイに施された魔族の腕を落とし、もとの腕を再生させたと語ったエフェスの言葉を思いだし、とっさに右手で左腕をつかんだ。  完全になくなった体の一部をもとに戻すのは、さまざまな観点から非常に困難だ。  もちろん技術的にも高い力量を求められ、術者に危険もある。  アイディーンほどの力があれば不可能ではないだろうが、決して生半可に試せる法術ではない。  その危険をおかしてわざわざ左腕を再生させた理由を、カシュカイは考えずにはいられなかった。  紋章の喪失が大気のマラティヤとしての存在意義をゆるがすのではないか、という危機感をアイディーンももったのだとしたら、契約の僕などのために力を尽くしたのも納得できる。  ただでさえ不完全なマラティヤだというのに、これ以上の欠損は許容できないと考えるのは当然のことだ。  紋章はただのしるしであり、なくなったからといって神の守護や力まで失われるはずはないが、万一の危惧はぬぐえず、カシュカイも躊躇せざるを得なかった。  左腕をつかんだ手に力をこめる。  いったいどれだけの負担をアイディーンに強いてきたのだろう。  腕の再生のことをカシュカイに言わなかったのは、話すまでもないと思ったのか、カシュカイの弱さへの失望の表れだったのか。  ぐうっと臓腑がひき絞られるような苦しさを覚えて、つかんだ腕に爪をたてた。  くりかえし自らの無能さを思い知らされてきたが、いまこそなんとしても主のために役にたたなくてはならない。  カシュカイは不調を訴え続ける自分の肉体すらわずらわしく邪魔だと感じながら、焦燥に追いたてられるように山の峰へ向かった。
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