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   湿った風が、夜の埠頭をぬめるように吹き抜けてゆく。海風なのに、潮の匂いはしなかった。打ち付ける波もコールタールのように黒く、ところどころに発泡スチロールらしいゴミが浮かんでいる。  僕はそれをぼんやりと見下ろしながら、青い海なんてものを最後に見たのはいつだったろうなどと考えた。たぶんもう十年以上、学生時代にまでさかのぼるのではないか。もちろん、だからと言って別段嘆くようなことではない。この町で暮らす僕たちにとって、海というのはこういうものだった。白い砂浜の向こうにどこまでも広がる青々とした大海原などというものは、非番の日に斜め見するテレビの中にあるものでしかない。 「おい、占部。何をしてる」  背後から田崎班長の押し殺した声が聞こえた。僕は振り返ると、「いえ、別に何も」と首を振る。 「ボケっとしてるんじゃない。本庁の連中が到着したぞ、そろそろだ」  僕は同じく低い声で「はい」と答えて、気を引き締め直す。そう、のんびり海など眺めている場合じゃない。これからはじまるのは、三か月に亘った長い捜査の総仕上げ。関東最大の組織暴力団・三沢会系列の浜口組と、蛇頭と呼ばれる中国マフィアによる、大規模な銃器と覚醒剤密輸の一斉摘発だ。最後の最後で本庁の組対に手柄を取り上げられ、所轄は側面支援という形になってしまったのは残念といえば残念だが、首謀者たちを一網打尽にして密輸組織を壊滅させることこそが大事なのだ。そのためには湾岸署単独では心許ない。本庁とそのマンパワーを頼らざるを得ないのは致し方のないことだった。 「行くぞ。全員配置に着け」  そう言って音もなく走り出した班長に続いて、僕も先輩刑事たちとともに移動する。すっかり人気のなくなった工場街を縫うように進み、やがて目指す廃倉庫にたどり着いた。裏口のシャッターの前で足を止め、中の様子を耳で探る。物音がかすかに聞こえてくることからして、すでに取引ははじまっているらしい。おそらく浜口組も、また中国人たちも揃っているのだろう。あとは正面から本庁組が突入するのをじっと待つだけだった。  そこからの時間は、ほんの数分が数時間にも感じるほど長かった。全員でじっと黙ったまま、石になったように息を殺し続ける。やがて勢いよく正面のシャッターが開けられる音が響き、待ちわびた瞬間が訪れた。 「……突入したぞ」  班長が囁いてきた。その通り、本庁の捜査一係長の大声が聞こえてきた。よく通る甲高い声で、令状を読み上げている。しかしその声も、すぐに日本語と中国語の怒号にかき消された。  
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