第一章

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 管理人の計らいでユズルの部屋に入れることになったのだが、ドアを開けた瞬間、僕は部屋を間違えたのかと思った。以前とは全く違う生活臭が鼻先に漂ってきたのと垣間見えたリビングが洗濯物や食器などでごった返していたからだ。整理整頓好きのユズルの部屋とはとても思えなかった。  強烈な勢いで目に飛び込んできたものがあった。テーブルに無造作に置かれているものはニカーブのようだった。摘まみ上げて広げてみると、やはりニカーブに間違いない。ユズルがニカーブを被っている姿など勿論、全く見たこともないし想像も出来ないので僕の頭の中は混乱の極みだ。  畳まずに積まれている洗濯物の中には男性用のものが混じっている。トランクスやユズルの身体には大き過ぎるTシャツ、コバルトブルーのジャケットもある。僕はコバルトブルーなんて絶対に選ばないしブリーフ派だ。体温が徐々に下がって今にも震え出しそうになる。  バスルームを覗くのは抵抗があった。もしバスルームに純然たる男性の痕跡が残されていたら僕は発狂するかもしれない。カーテンドアに手を触れたが、勇気が無くて結局、僅かに開けて隙間から覗くことすら出来なかった。  書斎兼寝室は純粋な男性の痕跡があっても手前勝手に解釈する余地があるので扉を開けられた。いつも肌身離さず携帯しているパソコンとタブレットが無くなっていることを除けば見慣れた景色だったので僕はホッとした。ベッドも整頓されている。女性なら他の女の髪の毛を探したりするのかもしれないが、僕にはそういうきめ細かな探査能力が備わっていない。  一つだけ気になったのは、壁の一部がペットボトルの蓋くらい刳り貫かれていて、其処から引き出され勉強机まで伸びているケーブルの存在だった。備え付けの配線にしては全てが素人っぽいところが気になる。ユズルがやったのだとしたら一体、何の目的でどんな信号を引っ張り出そうとしたのか見当もつかない。  勉強机の上にはチケットの半券らしきものがあった。随分と年季が入っているらしく表面が色褪せている。リターンマッチという意味不明の印刷。二千円という価格設定からするとリターンマッチというバンド名の演奏会かリターンマッチという題名の演劇だろうか。ユズルは芸術や演芸全般に疎い筈なので大きな違和感があった。  部屋の空気を吸い込んでみると、ユズルのものでも僕のでもない体臭が漂っている。段々と息苦しくなってきて、これ以上この空間に居たらどうにかなってしまいそうだった。僕は見知らぬ誰かの痕跡から逃れるようにして部屋を出た。  男のことを訊くべきかどうか迷っていると、管理人は狭い踊り場で器用に車椅子を一回転させてから含み笑いしてこう言った。 「弟さんがよく来ていましたけど。お兄さんと全然似てないんですね?」  管理人がボディービルダーのようなポーズを決めたものだから頭の中にアロハブリーズの男の姿が思い浮かんでゾッとした。
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