第一章

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 かろうじて立っているような状態だった。エントランスのドアが閉まる僅かな空気の流れにも風圧を感じてよろけそうになる。僕の今のこの哀れな姿が見たくて管理人はユズルの部屋に僕を入れたのかもしれない。おそらく彼は僕がユズルの兄でないことも頻繁に訪ねてくるボディービルダー体躯の男が弟でないことも承知しているのだろう。そっと振り返ると、管理人がエントランスで狂ったように電動車椅子を回転させていた。  何のために馬酔木通りにやって来たのか分からなくなってきた。他の男を平気で部屋に入れるような人のことを心配して早朝から駆け付ける僕はあまりに滑稽過ぎるし哀れ過ぎないか。商店街の景色が揺れて見えるのは、涼しいマンション内から急に蒸し暑いところに出たせいなのか、それとも僕の心が怒りで震えているせいだろうか。  心の中でユズルのことをひとしきり罵倒し続けると、今度は未練で心が押し潰されそうになる。ゆっくりと振り返ってユズルの部屋を見上げた。ユズルはディズニーのキャラクターがプリントされたブリーフを二枚常備していてベランダにいつも干していた。一人暮らしの女性がよくやる防犯対策だが、ユズルの部屋に泊まった翌日はそのブリーフを穿いて帰ったものだ。  ボディービルダー体格の男も穿いて帰ったのだろうか。僕は力一杯拳を握り締めていた。その握った拳で何をしようと言うのか。男を殴りたいのか、それともユズルを殴りたいのか。いずれにしても暴力とは無縁の筈の僕が拳を震わせているのは異常な状況だ。頭を冷やさないと本当におかしくなってしまいそうだった。  マンションの隣の喫茶店は木の扉が常に開けっ放しの状態で何度か中を覗き見たことがあるが、昭和レトロで落ち着いた印象の店内だった。とりあえず僕はシェルターに逃げ込むかのように「憩い」というその喫茶店に入った。
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