第一章

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 いきなり殺虫剤の臭いが鼻をついた。ディズニーのキャラクターがプリントされたエプロンの男が一心不乱にスプレーを撒き散らしている。僕が踵を返して引き返そうとしたのと同時に「すみません。大丈夫ですよ」という低くてくぐもった声がした。声を掛けられたのに黙殺して出て行くのは失礼過ぎると思って僕は仕方なく立ち止まった。  この喫茶店は鰻の寝床構造で一番奥が屋外のテラス席になっているので助かった。迷わずそのテラス席に向かったのだが、エプロンの男が露骨に怪訝そうな顔をする。僕の何処が間違っていると言うのか。間違っているのは飲食店内に殺虫剤を撒き散らしているあんたの方だろう。それとも怪訝そうな表情の理由は僕の行動ではなく僕自身にあるということなのか。  男はアームレスリングでよく見る類の異常なほどに筋肉の付いた上腕をしている。エプロンで隠れている胸周りも相当なものだろう。しかもエプロンのプリントはユズルが選んだブリーフとお揃いだ。もしかして目の前の男がユズルの相手ということなのか。許せない。 「あの? 何か?」  男は不思議そうに僕のことを眺めて訊いてきた。 「何かって?」 「いや。何だか睨まれているみたいだから、どうなさったのかなと思いまして」  僕はかろうじて頭を振ってから表情を隠すためにメニューを見るふりをして俯いた。
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