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「上月ユズルという女性、ご存知ありませんか? 隣のマンションの八階に住んでいるんですけど」
僕は意を決して訊いた。男の表情を注意深く窺っていたが、眼帯の存在感に邪魔されて上手く読み取れなかった。ただ口元に笑みが浮かんで一瞬、頷いたようにも見えた。
「ご存知なんですね?」
柄でも無く迫るような口調で畳み掛ける。
「多分・・・・」と、男は呟くように答えた。
「多分って、どういうことですか?」
「いやね・・・・付き合いのある人間は偽名使う人が多いから」
男の風貌が急に悪党面に見えてくる。偽名を使わなければならないような業種が次々と頭に浮かんで、そのどれもがユズルと全く結び付かないので僕の頭は星雲状態になってしまった。
「八階でしょう? あの派手な・・・・あの女性だと思うんだけどなあ」
僕はこの男と誰について話しているのだろう。幾ら捜しても僕の知っているユズルは見つからないような気がする。僕の知っているユズルは、もうずっと前から存在していなかったのかもしれない。
男は唐突にスマホを取り出した。人差し指で画面をどんどんスクロールしていく。
「この人ですよね?」
男は億劫そうに言って画面を僕の方に向けた。変わり果てたユズルの顔を見た瞬間に僕の身体は氷像と化した。
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