第一章

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 バッテンの意味は注文したコーヒーをキャンセルするということだと僕は当然のようにそう理解していたのだが、カウンターのコーヒーサイホンを見たときに使用された形跡が無かったので、もしかするとマスターはコーヒーの注文がキャンセルされることを予め知っていたのかもしれない。  偶然の成り行きだと思っているのは僕だけで、確かに店に入ったのは偶々だが、それ以外のこと、例えば、バンダナ男が僕の隣に座って話し掛けてきたこと、しかも彼が体臭を遠慮なく撒き散らしていたこと、訊かれもしないのに馬酔木通り商店街に存在する対立軸について説明したこと、話の流れでマスターがアロハブリーズに対する憎悪を剥き出しにしたこと、それはもしかすると僕がアロハブリーズの連中と親しそうに―テラス席から眺めた印象の通りに―語り合っているところを目撃して僕に対して憎悪を剥き出しにしたのかもしれないが、いずれにしてもそれら全てが偶然ではなく僕が馬酔木通りにやって来てユズルの部屋を訪ねたことに対する必然的な反応のような気がしてくる。  ユズルは僕の前から姿を消したのではなく僕の知らないユズルが属していた社会から逃避したのかもしれない。そうだとしたら、動機はおそらく全く違っているだろうが、ユズルを捜し出すという点で彼らとは利害が一致しているのではないだろうか。少なくとも、多少の危険は覚悟するとしても彼らはユズルを捜す上で有効活用すべき相手だろう。 「リターンマッチって聞いたことないですか?」  ズボンのポケットを探りながら唐突に訊くと、余裕綽々だった男の表情が変面の如く切り替わり、人を小ばかにするような薄ら笑いもすっかり消え去った。怯えているような表情のマスターとバツが悪そうに顔を見合わせる。 「ユズルの部屋で半券みたいなものを見つけたんです」  カウンターに置いたそれを彼らは全く見ようとしなかった。おそらく彼らはそれが何を意味するのか十分承知していて、それをユズルの部屋で見つけたことは彼らにとって由々しき事態なのだろうと僕は推理した。
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