第一章

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 たくさんの人たちがこちらに向かって歩いてくる。開店時間に合わせて商店街に流れ込んできた人々だ。サケの遡上の如く人の流れに逆らって進む。怖くて後ろは振り返れなかったが、少なくとも商店街を出るところまでは監視されていると考えるべきだろう。  アーケードが途切れると突然、頭上から夏の日差しが降ってきた。やっと商店街を抜けたのだと思うと自然に口角が緩んで締まりのない顔をしているのが鏡を見なくても分かる。一旦は此処を離れる以外に選択肢はないので、僕は「馬酔木通りアーケード前」の停留所から今まさに発車しようとしている「豊山高校」行きのバスに跳び乗った。  窓越しにアーケードからバス停までを見渡したが男の姿は無かった。ホッとして緊張を解そうとしたそのとき、けたたましいクラクションの音が響き渡った。バスの真正面にあの男が仁王立ちして、僕のことを見据え、可愛らしく手を振っている。いつまでも手を振り続けているものだから業を煮やした運転手がバスから降りようとすると、バンダナ眼帯男は跳ねるような軽快な足取りでアーケードの方へ戻って行った。  次に再び此の停留所に降り立つときには、綿密な下準備とそうとうな覚悟が必要だということを、僕はあらためて肝に銘じた。そうは言っても、何をどう準備すればよいのか、どうすれば覚悟を決められるのか、ノーアイディアというのが本当のところだ。  車窓の千龍川を眺めながら途方に暮れていると、胸ポケットの携帯電話が振動した。受信したのは差出人不明のメールで本文は無く動画ファイルが添付されている。ファイルを開いたらウイルスに感染する類の悪質メールだろうから、さっさと削除しようと思ったのだが、ファイル名を見直して手が止まった。  YUZUTOKAZU。ユズルが僕に渡すファイルに使う名前だ。  僕は何故か周囲の乗客の顔を見回してから動画を再生した。最初に飛び込んできたのは獣の雄叫びにも似た怒声のような音だった。少し遅れて表示された映像は、ニカーブを被った人々の姿で、目の前で展開されている何かに熱狂している風だ。人々の声が折り重なって分かり難いが、応援と罵声が入り混じっているように聴こえる。高知を旅したときに立ち寄った闘犬の熱狂が丁度こんな感じだった。  カメラはずっとニカーブの人々に向けられていて彼らを熱狂させているものの正体は勿体を付けるかのように明かされない。聴覚に神経を集中させていると、包丁の背で肉を叩くような不気味な音が聴こえたりもする。  豆苗橋を渡り終えて豊山市に戻ってきたのとほぼ同時に画面が半回転して、ニカーブの人々が熱狂しているものの正体が映し出された。僕は武者震いして携帯電話を落としそうになった。 (第二章に続く)
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