プロローグ

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プロローグ

 千龍川という名前の由来は千匹の龍が此の川で躰を癒したという伝承らしい。確かに千龍川の北側に聳える犬駒山から眺望すると細かく枝分かれした支流の一本一本が龍の姿に見えないこともない。  この千龍川を挟んで東側が僕の住んでいる豊山市で西側には国際空港を擁する丹沢市が広がっている。  丹沢市にはかつて米軍の整備基地が在って、祖父の話では戦争の度に米国と戦った相手国の女性たちが米兵を追って丹沢市にやって来たそうだ。所々で見掛けるハングルやベトナム語の色褪せた看板はそういう市史の証人なのかもしれない。  丹沢市は空港周辺を主として今日的な印象が強いが、意外に名所旧跡が多く歴史探訪の穴場として知る人ぞ知る存在でもある。何の変哲もないローカルな神社に国の重要文化財に指定されている襖絵や天井画が在ったりもするのだ。  恋人の上月ユズルが実家を出て丹沢市に移住したのは半年ほど前のことだ。同棲はしない主義のユズルにとって塩梅の良い距離感だし、何よりも「馬酔木通り」のカオス的な雰囲気が気に入って引っ越しを決めたらしい。  人情味溢れる地元密着の商店街だった一昔前の馬酔木通りは、大型スーパーの進出によって瀕死の状態に陥ったのだが、市外からやって来た若い商売人たちが建ち並ぶ歴史的建造物に惚れ込み店舗を丸ごと買い取って自分たちの商売を始めたことによって蘇生した。  通りの景趣は僕が生まれる以前から殆ど変わっていないが、商売人の顔や商売の中身は目まぐるしく変化している。ユズルがカオスと表現したのは、商店街の概念を逸脱した商売や相応しくない商売も含めて千差万別の営みが一本の通りに混在している状況のことで、ユズルはそんな馬酔木通りに魅かれたのだ。
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