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俺とミノは幼稚園からの仲良しで、小学校でもほとんど一緒に過ごしてきた。二人とも勉強だけでなく運動も得意で、大人たちからは『神童ふたり』とチヤホヤされた。テストは俺が全て満点、ミノは九十五点から百点までをバラバラと取った。
幼いながらも自分が他より秀でている事を理解していたが、そんな俺でも唯一、絶対に勝てないと悟ったものがあった。ミノの歌だ。クラシック好きの叔母に影響されたようで、年中の頃からアメージング・グレイスを見事に歌い上げていた。ただ音を外さない、歌詞を間違えないといった次元ではなく、聴く者の魂に指を差し込んで撫で回すような力があった。鼓膜から血液まで震わされ、このまま光の向こうへ連れていってもらえるのではないか、そんな風に思わされた。彼は間違いなく天才だった。
けれど、彼の家族は恐ろしいほどに理解が無かった。将来は歌手になりたいと意気込むミノを、馬鹿な事を言うなと叱った。歌を習いたいと強請る彼の要望を、何度も何度も跳ね退けた。
あれは、二年生の冬だった。ランドセルに雪を載せ合って、笑いながら帰った日。ミノは嬉しそうに教えてくれた。
「次の音楽のテストで百点取ったら、歌のレッスンに行ってもいいって、母さんが」
テストの内容は、童謡の『ゆき』を一人ずつ歌う、というものだった。ミノにしてみれば簡単に飛び越えられる障壁。それに当時の音楽の先生はミノの才能を認めていて、歌うたびに褒めてくれた。絶対に大丈夫だろう。俺たちは約束された勝利に喜び、スキップしながら帰路を急いだ。そこで出会ってしまったのだ、ミノの母親と。
「いやあね、うちの子ったら面倒臭くて」
ミノの母親は、誰かの母親と立ち話をしていた。俺たちには気が付いていなかったと思うが、もし分かっていても会話を止めなかっただろう。
「あんまりレッスンに行かせろってうるさいから、テストで百点取れって言ったの。けど、あの子にいい点が取れる訳無いしねえ。余計なお金は掛けたくないし、普通に大学を出て普通の会社に入ってくれさえすればいいのに、いつまでも幼稚園児みたいに駄々捏ねて」
呆れたように眉を寄せて、苦々しく吐き捨てるその姿が、その言葉が、俺たちに冷たく突き刺さる。
「まあ、もし百点取ったとしても、寝坊やら口答えやら、『無し』にする理由は幾らでも作れるからねえ…」
なんだって?
あまりの事に、俺は声が出なかった。つまり、初めから約束を守る気なんてなかったのか?
俺は自分の事のように傷付いた。そして隣に立つ当事者を思い出し、慌てて顔を覗き込んだ。
ミノの表情は、無かった。そしてポツリと呟いた。
「だよね」
それからは、何も話せなかった。無言のまま、ミノの母親が立っていた三叉路を避けて、二つ目の信号で別れた。バイバイ、また明日。それすらも言えなかった。
翌日、ミノは普段通りの様子で登校してきた。笑顔で、元気で、何事もなかったかのように。
それを見て、昨日の出来事はただの悪夢だったんじゃないかと俺は思った。大丈夫。実の母親があんな酷い事を考えるはずがないもんな。そう自分に言い聞かせ、俺は嫌に騒ぐ胸を押さえた。
ああ、けれど、音楽のテストが始まった時、それは紛れもなく現実だったと理解した。
ミノは歌わなかった。ただ、歌詞を暗唱しただけ。先生も驚いて、何度かやり直しをさせたけど、それでも結果は変わらなかった。先生は、満点をミノにあげることが出来なくなった。先週まであんなに大きな声で、上手に、愉し気に歌っていたというのに。クラスの誰もが異変に驚いたけれど、どうすることもできなかった。
その無力な観衆の中には、俺も含まれていた。解っていたのに、励ましも説明も出来なかった。彼の歌が永遠に失われてしまったのではないか、その不吉な予感にただ独りで怯えていた。
その日、帰りの会で担任はいつものように俺たちに訊ねた。
「今日は、音楽の授業のテストがありましたね。どうでしたか?」
競わせたかったのだろうか。当時の担任は、テストが行われた日には必ず帰りの会で結果を問うて、こんな風に続けるのだ。
「満点取ったの、だーれだ?」
この言葉で、該当者は元気よく挙手する。それが俺たちのクラスの慣例だった。そして、俺は毎回必ず手を上げるのだ。半々の確率で、ミノも。
音楽のテストなら、普段は俺とミノが同時に腕を伸ばす。そして二人揃って拍手を受けた。
けれども、今日は。
「あら、満点の子はいないのかな?お歌の上手な子は…」
そう言ってわざとらしく首を傾げた担任に、俺は喉元までせり上がった叫びをぶつけたかった。ミノです、本当はミノが満点だったはずなんです、あんな事さえ聞かなかったら!
俺はミノを見た。しかし、どんなに見つめても目が合わない。いつもなら、ちょっと見るだけで気付いて反応してくれるのに。
無表情。無言。無反応。それが彼の答えだった。
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