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少女はポシェットに筆箱やメモ帳をしまうと、のけぞり気味の俺の体の方へ、一歩近付いた。
「百円玉の、ギザギザの数は……」
少女が俺の目を凝視しながら言い始めた。俺はもう随分前から無言のままで、喉は渇ききって舌も動かせないでいた。
「103本! どう? さあ!」
少女は目を爛々とさせている。俺は天を仰いだ。今すぐ地面にへたり込みたかった。こんな小学生に出会ったのが運の尽きだったんだ。
俺は黙ったまま、鉛の様に重い右手を持ち上げ、手を開いて、百円玉を少女に差し出した。
「やったッ! 正解ね! 私の勝ち! それじゃあ遠慮なくッ!」
彼女は素早く俺の手から百円玉を奪うと、それに付着した俺の汗をスカートの裾で拭い、固く握りしめて、早足で去っていった。
もはやカジノのゲート周りに、俺に見向きする者はなく、大音量の音楽だけが、敗者の体に注がれていた。
「それにしても……」
俺は思わずつぶやいてから、考えた。あの子はいったい、あの百円で何をしようというのだろう。この自販機には、用はなかったみたいだし……。
「気になる……」
ただの小遣い稼ぎか? だがあの様子だと多分、必要な物にしか金を出してもらえないルールの家なのだろう。親にも黙って百円が欲しかった……。なぜ?
後をつけてみよう。
幸い既に、俺とあの子の関係を誰も気にしていなかったし、カジノの前の通りはしばらく一本道で、すぐにあの少女は見つかった。
彼女は心なしか浮かれた足取りで、真っ直ぐコンビニに入っていった。それからレジで何か頼むと、イートインコーナーに座って、何やら作業に没頭し始めた。俺はコンビニの外の壁際で、何気ないふりをして様子をうかがった。
やがて、少女は再び浮かれた足取りで出てきた。俺のほとんどすぐ脇を通ったのに気付きもしない。その時――。
「危ねえ!」
車が、駐車場内とは思えない程の猛スピードで迫ってきた。俺は叫びながら少女の腕を引き寄せる。
「キャッ!」
紙が一枚、少女の手から離れ、地面に落ちてタイヤに轢かれた。
「馬鹿野郎! 危ねえだろ!」
言ったのは、車の運転手だ。デカイ男が車から出てきて、殺意を抑えるのに必死な俺と、黙ってうなだれている少女にガンを飛ばした。そいつはコンビニに入ると、タバコを買ってすぐに車に乗り込み、発進していった。
視線を落とすと、地面に、タイヤに轢かれて無残な姿をした、一枚の紙切れがあった。
葉書だ。少女はあの百円で、この一枚の葉書を買ったのだ。
少女が動こうとしなかったので、俺がそれを拾い上げた。文面の方はタイヤの土で汚れきっていたが、一部は読む事ができた。いや、読もうとしなくても、最初の一文が目に入れば充分だった。
「パパへ……」
俺は思わず口に出して読んでしまった。少女は俺のかたわらで、ぴくりと体を動かしたが、うなだれたまま何も言わなかった。
「そうか……、これを出したくて……」
少女は小さく溜め息をつくと、黙ったまま歩き出そうとした。
「待てよ」
俺は言った。少女は不機嫌そうに振り返ったが、俺の手に差し出されたスマホを見ると、ちょっと不思議そうな顔をした。
「スマホ、貸してやるよ。電話できるんだろ? 他人のじゃ、すぐ出てもらえないかもしれねえけど、この後予定もねえからさ」
「……それより百円ちょうだいよ。その方が早いじゃない」
「フッ。外したな。俺の手持ちは残り八円だ」
少女は苦笑いをすると、俺の手からスマホを取って、番号をタップした。少女は顔をこわばらせていたが、数十秒後、にわかに満面の笑みになって喋りだした。
「パパ? … そう、私! パパ元気? … うん、私も元気。 … 頑張ってるよ。私ね、今日、中学三年の数学まで終わらせたんだよ! それでね……」
二十五年後……。一人の日本人女性数学者が、何やら数学の大きな賞を獲ったとのニュースが流れた。ニュース記事の写真を見て、俺は思わず声を上げた。
お分かりだろうが、それは百円を巡って俺と勝負した、あのお嬢さんの成長した姿に間違いなかった。
写真の中のその数学者は、賞状を手にして、今の俺と似たような壮年の男と腕を組み、子供の様に笑っていた。
俺? 俺のことはどうでもいいんだよ。
ただ、あの勝負以来、ギャンブルからは足を洗ったとだけ言っておこう。
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