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レッスンを終えて、汗だくになった運動着を脱いでシャワーを浴び終えたところで、携帯が鳴った。見ると、ユリさんからのメッセージだった。
「お化粧しないで、そのまま向かいのビルの1Fにあるカフェに来てね」
(どういうこと?)私はよくわからないまま、言われた通りに、向かいのビルの1Fにある、テラスカフェへ行った。そこには、面接で見た、もっさりした女性が端のテーブルでコーヒーを飲んでいた。私を見つけると、顔の横で小さく手を振った。
「ユリさん、お待たせしました。やっぱり、外では目立たないようにその恰好なんですか?」
「うふふふ、そうね。今年のガールズコレクション以来、私を見つけると声をかけてくる人が増えちゃったので、気を付けないと、と思って」
臙脂色のメガネの奥で、いたずらっ子のような笑顔が可愛かった。私は突然そんなことを思った自分にびっくりして、それを隠すようにあわてて聞いた。
「ランチを一緒にってことでしたけど・・・」
「ああ、そうね、沙耶ちゃん、何食べたい?」
「私はなんでも良いです。普段はお金が無いので、家に帰ってから食べてますから」
「高校生だもんね、良いわ、今日は私がおごるから、なんでも言ってちょうだい」
そんなことを言われても、何が食べたいって想像もつかないし、モデルのレッスンの為に食事もいろいろ気を付けている手前、ファーストフードっていう選択肢もないし。
そう考えてじっと黙っていると、
「そんな困った顔して見つめられたら、いじめているみたいで切なくなっちゃうわ。じゃあ、私のおすすめの店に行きましょ?」
そう言って、カフェの会計をすませ、私の手をとって、ずんずん歩き始めた。
私は突然のことに訳も分からず引かれるがままについて行くしかなかった。こんな感じで手をつないで引かれるのは何年ぶりだろう?
(ユリさんの手・・・あたたかい)
十二月の寒空の下、手をつないで歩くのがこんなに幸せに感じるなんて・・・
私はなんだか恥ずかしくなって、おずおずと聞いてみた。
「ユリさん・・あの、手・・・」
「手がどうしたの?」
「手、つないで歩くのって好きなんですか?」
ユリさんは突然の私の質問が、想像の外側だと言わんばかりに、わたしのほうを向いて目をまん丸くして、次の瞬間笑い転げた
「あはははははははは・・・・沙耶ちゃん、面白い・・・・」
私は、何を笑われたのか見当もつかずに、きょとんとするしかなかった。
「だって、沙耶ちゃん、このあたり知らないでしょ?しかもこの人込みじゃ、はぐれちゃ大変じゃない?女子高生を迷子にしちゃったら、私が困るから、手をつないでるのよ?」
「ああ・・・」
なんだか、残念な、安心したような、複雑な気持ちになった。
「さ、着いたわよ」
「え?ここって・・・」
「そう、ヘアーサロン」
「食事じゃなかったんですか?」
「食事よ?」
私は何がなんだかわからずに、とりあえずユリさんに引かれてサロンへ入った。
「いらっしゃいませー」
数人が声をあげた。ユリさんは受付の女性に何か耳打ちすると、「しばらくお待ちください」と言って彼女は電話で誰かと話しをした。
その間も、ユリさんは私の手を握ったまま、受付の女性と世間話をしていた。
すると、奥からちょっと小太りの優し気な顔をした中年のおじさんが出て来た。なぜか、シェフのような恰好をしていた。
「飯島さん、お久しぶりですー」
「ユリちゃんか!久しぶりーって言っても、先月じゃなかったっけ?」
「あははは、そうでした?それでも十分久しぶりですよぉ」
「その娘ね、こないだ言ってた事務所の新人って」
「そうです。」
「あ、小林沙耶と言います」
「飯島です。この店でオーナーをやってます」
「あ、あのぅ、美容師さん・・・ですか?」
私が聞くと、飯島さんは自分の服を見て、
「あっはっは、こんな格好じゃ疑うのも無理もないよね、ここの2階のレストランのオーナーシェフでもあるんですよ」
「ああ、それでその恰好なんですね?」
「その通り」
飯島さんはちょっと得意げに胸を張った。
「沙耶ちゃん、この人の料理は美味しいのよー、美容師さんでもあるから、美容の観点からの食材と調理法で、ある一部ではとっても有名なの」
「ユリちゃん、ある一部って、それはあんまりだなー、業界では、くらいにしておいてよー」
がはははと笑う顔がくしゃっとつぶれて、愛嬌のある顔になった。
「飯島さん、この娘にとっておきのをご馳走してあげて?」
「オッケイ!お嬢さん、好き嫌いは無いかね?」
「あ、は、はい。大丈夫です」
「じゃあ、ユリちゃん、いつものところで待っててね」
「はい。飯島さんよろしくねー」
そう言ってユリさんはまた私の手を引いて、ヘアーサロンの奥に行き、扉の中に進んでいった。
そこは、ネイル用のカウンターがあり、さらにその奥に、エステ用と思われる個室がならんでいた。
そのうちの一つに入ると、そこは、なぜかレストランの個室のようなしつらえになっていた。
「ここはね、私みたいにモデルで有名な人とか、芸能人とかが、人目をはばかって食事するための個室なの。私も先輩から教わって、その時からの付き合いなのよ、飯島さんは」
私は感心する一方で、あるとは予想してたけど、実際にこうして目の当たりにするとは思ってなくて、驚いて何も言えなかった。
「驚いた?私も最初はそうだったわ・・・」
そう言って、ウィッグとメガネを外した。
頭を振って、髪をくしゃくしゃっとして、手櫛でかき上げて顔があらわれるまでの動作があまりに美しく、それに見とれてしまっていたところに、目が合って、私は恥ずかしくなってうつむいた。
「とりあえず座って。」
そう言ってテーブルの向こう側を指し示した。
私は言われるがままに、その場所の椅子を引いて腰かけた。
「今日は飯島さんがお任せで作ってきてくれると思うわ」
私は、メニューもなく、ウェイターさんも来ない部屋でどうやって頼むのだろうとふと気になった、と思った矢先に、そう説明されて、この人は人の心が読めるのだろうかと疑ってしまった。
「どんな料理なんですか?あ、えっと、中華とか和食とかって意味ですけど・・・」
「ああ、飯島さんはイタリアンの職人さんなの」
「イタリアンですか。私、本格的なイタリアンって、おそらく食べたことないです」
「そう、それなら良かった。初めてのイタリアン、ぞんぶんに楽しんでね?」
「はい。ありがとうございます」
すると、ドアをノックして、ウェイターらしき人が入ってきた。
「お飲み物はいかがいたしますか?」
「沙耶ちゃん、何飲みたい?ジュースでもコーラでもなんでもあるわよ?」
「あ、イタリアンですよね?もしかして、キノットってありませんか?」
「はい、ごさいます。ではお客様はキノットで。そちらのお客様は?」
「えっと、私は生ビールもらっちゃおうかな?いいよね?」
私は、もちろん、うなずくしかなかった。
ウェイターさんが「少々お待ちください」と言って出て行ったあとに、ユリさんは私を見て興奮したように聞いてきた。
「ねえ、キノットって何?沙耶ちゃん、すごいわ!初めてのイタリアンって言って、実は通なんじゃないのぉ?」
「あ、キノットって柑橘系の果物のジュースで、イタリアでは普通に売られているんですって。実は友人にイタリア旅行に行った人がいて、綺麗な海を見ながら飲むキノットが最高なのーって言ってたを覚えていたんです。もちろん、飲んだことは無いです」
「へぇ、そのお友達、お嬢様なのねぇ・・・」
「うーん、どうなんでしょう?それなりのお金持ちなのは確かだと思いますけど」
「まあいいわ、ところで、レッスンのほうはどう?順調?」
「はい。普段鍛えてなかったので、最初は筋肉痛でしたけど、今はもう大丈夫です」
そんな話をしていると、ウェイターが飲み物を持って入ってきた。
「お待たせしました。キノットと生ビールです」
そう言って私の前に、臙脂(えんじ)色の液体が入った瓶と、氷の入ったグラスを置いた。ユリさんの前には中ジョッキっていうのだろうか、テレビで見た居酒屋のシーンのジョッキより小さいものに、たっぷり泡の乗ったビールが置かれた。
「ごゆっくりどうぞ」
「沙耶ちゃん、それ?キノットって」
興味津々にユリさんが聞いてきた。
「はい・・・多分そうです。私も実物見るのは初めてです」
「ね、早く飲んでみて」
「は、はい・・・」
そう言って私は瓶の中の液体をコップに注いだ。と、しゅわーっと音を立てて炭酸の泡がコップ一杯にせりあがってきた。
「うわぁ、炭酸、きつそう」
ユリさんが言った。
「そうですね。でも色が綺麗・・・臙脂と琥珀の中間のような色合いですね」
そう言って、色を眺めていると、ユリさんが急かすように「どんな味かな?」と言うので、炭酸が収まるのを待って、一口飲んだ。
「!」一瞬止まった。さわやかな酸味と甘み、それに少し苦い・・・
「私にも飲ませて」
そう言ってユリさんは私の手からグラスを取って、一口くいっと飲んだ。(あ、間接キッス・・・って私は中学生か!)と思った。
微妙な表情をした。そのあと、ふっと微笑んで、
「うわ、これ、結構苦いね」と言って私の顔を見た。
その表情が、なんともおかしくて、私はつい笑ってしまった。
つられてユリさんも笑った。
「ふふふふ・・・」
「あははは・・・」
二人同時に笑い終えたところで、また顔を見合わせてふふっと微笑んだ。
なんだか、一緒の時間と感情を共有できたのが、すごく幸せな時間だと感じた。
そのあとの料理は、もちろん美味しく、二人別々の料理だったのもあって、少しずつ分け合って、そっちが美味しいとか彩りはそっちがいいとか、本当に楽しかった。仲のいい姉妹っていうのはこんな感じかなと思った。
デザートまでいただいて、すっかりお腹いっぱいになったところで、ユリさんが言った。
「さて、次行こうか!」
「え?次ですか?」
「そ。次は隣の部屋!」
私は何のことかわからずに、そそくさと立ち上がって出て行くユリさんの後を追った。
ユリさんは今いた部屋の隣の部屋のドアを開けて、隣の部屋に入っていった。
そこには大きな鏡と、その前に椅子が2脚。美容院の椅子のようだった。
「ここって、もしかしてヘアサロンの別室ですか?」
「あたり。沙耶ちゃん、勘が良いね?」
「あ、それじゃ、私はこれで・・・」
私は、ユリさんが自分のヘアをセットするんだと思い、それだと居ても迷惑になると考えたので、そう言った。
すると、
「え、駄目よ、今日はあなたの髪をセットするんだから」
「私のですか?でも、今日はそんなにお金持ってきてないです」
「いいのよ、今日のは全部私のおごり。気にしないで」
「いえ、でも、それじゃ悪いです」
「うーん、沙耶ちゃん、律儀ねぇ。分かったわ、とりあえず、今日のは貸しってことにするわね?今度仕事でお手当が入ったら返してもらうってことでどう?」
「・・・は、はい。それなら・・・」
私はなんとなく腑に落ちないまま、言う通りにした。
今日はどうやらユリさんは私を一人前のモデルに仕立てたいらしい。可愛がってもらえるのはとてもありがたいけど、やっぱり少し悪い気がする。
そんなことを考えている間にも、ユリさんは私を椅子に座らせると、どこかに電話して、手際よく端においてある道具のワゴンを椅子の近くに持ってきた。ドアを開けて入ってきたのは、先ほどの飯島さんだった。服は、シェフの服ではなく、ダンディな白シャツに黒ベスト、腰にハサミや櫛の入った道具バックを下げていた。一緒にアシスタントの女性も入ってきた。
「はい、お待たせー。ユリちゃん、今日はこの娘、どういう感じにする?」
「んー、彼女、おとなしい感じだけど、顔立ちがはっきりしているから、前髪をアップにしても映える髪型にして?」
「了解。じゃあ、始めよう」
そう言って私の首にタオルをかけ、ケープを羽織らせ、飯島さんは手際よく私の髪を櫛でといたり、ピンで留めたり、せわしなく動き始めた。その間、ユリさんはもう一つの椅子に座って、私がいろいろ変わっていくのを嬉しそうに眺めていた。
「沙耶ちゃんって、綺麗な顔してるわよね?面接のときにも思ったけど」
「え?そ、そうですか?」
突然、そんなことを言われて、私は顔があつくなるのを止められなかった。
「いえ、あの、ユリさんのほうがずっときれいだと私は思います。」
「あははは、ありがとう」
「はい、こんな感じでどうかな?あとは顔をすこし仕上げようか」
と、今切ったところの髪をくいっと後ろに束ね、タオルで巻いた。
すると、アシスタントの女性が、「こっちに来てくださいね」と言ったので、立ち上がって振り向くと、洗面台のほうに座るよう言われた。
「顔を剃りますね。あと眉も切りそろえますよ」
そう言って、蒸しタオルが顔に押し当てられた。私はとにかく、されるがまま、言われた通りにするしかなかった。
もとの椅子に戻って、ケープを外され、髪を整えられて出来上がった私は、いっぱしのモデルのようなすっきりした顔と髪型になっていた。
「すごい。ちょっとしか切ってないように見えたのに、こんなに雰囲気変わるんですね?」
「でしょう?飯島さん、すごいんだから」
「いや、それが仕事だからね」
飯島さんの謙遜する姿が、妙にかわいかった。ユリさんはほんとにみんなを巻き込んで幸せにするのがうまいと思った。
「さて、それじゃ、最後にお化粧のレッスンかな!これは私が教えてあげるね。飯島さん、ありがとうね」
そう言うと、さっさと化粧道具を椅子の前のカウンターに並べ始めた。飯島さんは、「じゃあまた」と言ってアシスタントの女性と一緒に出て行った。
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