泥棒の金

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泥棒の金

  俺は静かに二階の窓を閉めると、裏路地に飛び降りた。ビジネスバッグを握る右手から、汗が噴き出す。もう片方の手でネクタイを弄りながら、俺は心臓の鼓動を体中で感じていた。  入社初日、俺の胸は希望に溢れていた。この一日が出世の第一歩になると、立派な社会人としての幸せな人生の始まりだと、本気で思っていた。  ところが、現実は過酷だった。どれだけ仕事をこなしても、どれだけアイデアを絞っても、やり直しの繰り返し。  何をやっても結局残るのは、なけなしの給料と、それに見合わない長時間のサービス残業だけだ。社内には友人と言えるような人間はおらず、家に帰っても俺を暖かく迎えてくれる家庭はない。もはや、俺は何のために働いているのかも分からなくなっていた。  しかし、そんな地獄も今日でおさらばだ。俺はニ、三年しか出勤していない会社を辞めた。それは、今日から泥棒として生きていくのだという決意の表れだった。  手始めに選んだのがこの築何十年の汚い家だ。真っ昼間だったが人のいる気配もなく、いとも簡単に侵入できた。その時は、数千円ほど手に入れば万々歳だと思っていた。  だが、二階の小さな日当たりの悪い部屋に入ったとき、俺は思わず目をむいた。なんと、畳に裸の一万円札が二枚落ちていたのだ。  こんなことが本当にあるのか。信じられない思いだった。俺は自分の頬をつねると、即座に手を伸ばし、それらを乱雑にバッグの中に入れたのだった。  とにかく、一発目は大成功だ。俺は言いようのない達成感に浮かれていた。裏路地を抜け出すと、俺は何事もなかったかのように国道沿いの道へ出た。傍から見たら、ただのサラリーマンにしか見えないだろう。  俺はバッグの中身をもう一度確認する。バッグは少しの間しか使っていなかったので、傷一つついていない。余りにも軽すぎるのもおかしいと思い、あらかじめ重りとして新品のノートを五冊入れている。そしてノートの上では、二人の福沢諭吉がこちらを見つめていた。俺は彼らに向かって微笑むと、丁寧にバッグを閉じた。  横断歩道を渡ろうとしたが、丁度赤信号になったところだった。ワンテンポおいて、目の前を車の列が通り過ぎる。今までなら、日々のストレスで、こういう些細なことにも苛々していただろう。しかし今は違う。俺は棒立ちのまま、穏やかな日差しを浴び、ゆったりとリラックスしていた。  文字通り心が洗われたようだった。金というものは、本当に人間の心を豊かにするらしい。俺はどうして、あんな腐った職場にいたのだろうか。他人の家という最高の職場があったではないか。この調子で、明日からは本格的な泥棒活動を始めよう。楽して金を稼ぐという夢が叶うのだ。唯一の心残りは、もっと早くに実行していればよかった、ということである。  突然体に衝撃を感じ、俺は妄想の世界から強制的に現実世界に引き戻された。次の瞬間、俺は地面に倒れこんでいた。一体何が起こったのだろう。数秒考えてから、とんでもないことに気が付いた。    ビジネスバッグがない。  金がない。  顔を上げると、猛スピードで逃げ去るバイクが見えた。俺はバイクに向かって、大声で怒鳴り散らした。          
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