浮気相手の金

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浮気相手の金

 彼は運ばれてきた魚料理にフォークを突き刺すと、一口どう、と言ってこちらに差し出してきた。料理のシェアはフランス料理ではマナー違反なのだが、もとよりこの男がそこまで気を配れるとは思っていない。  ナプキンは普通ではありえないくらいぼろぼろになっていて、もはや膝の上に紙くずを置いているだけとしか思えない。口に料理を入れたまま喋るのには閉口した。わざとやっているのかと思うほど、ナイフとフォークでかちゃかちゃ音を鳴らし、そのくせ席につくなり『ナイフとフォークは外側から使うんだぜ』と自慢げに教えてきた。  その後も私は、彼の大したこともないうんちくに、いちいち大げさな反応を示さなければいけなかった。そうしないと、途端に機嫌が悪くなるのだ。  だが逆に私がオーバーに持て囃して、ちょっと『愛してる』なんて言えば、勝手に何でもしてくれるのだから便利だ。  そうして適当に話を合わせていると、デザートが運ばれてきた。彼もフランス料理のうんちくはもう尽きたらしく、別の話題に切り替えた。  それは、競馬場にいたホームレスを脅して金を奪ったという話だった。今回の料理代もそこから出ているらしい。一体そのホームレスはどれだけの金を持っていたのか。  私はそれとなくその質問をしてみた。彼は胸を張って、一万円だと答えた。  嫌な予感がしてきた。まさかこれで足りると思っているのか。しかも彼は、食事中にウエイターに勧められたワインを一瓶貰っていた。これをドリンクバーみたいなものだと思っているのではないか。  そんな私の心中も知らず、彼は胸を張ったまま財布からその一万円札を取り出した。  私はその万札を見てふと違和感を覚えた。どこかでこれを見たような気がする。どこかで、全く同じものを・・・。  私はとりあえず歓声を上げながらも、その紙幣を観察した。そして福沢諭吉と目が合った瞬間、私はその違和感の正体を理解した。  私はごく自然に、もう帰ろうという風に話を持っていった。彼は満足げに頷くと、後ろを振り返ってウエイターを呼んだ。  その瞬間、私は静かに席を立つと、足早に店の出口へと向かった。ウエイターに呼び止められたが、あの人が払いますと言って彼を指さした。  彼が伝票らしきものを見て青ざめているのが見える。まあ、私の食事代は彼に何とかして貰おう。今は、彼の会計よりも重要な事故が発生している。    私は大通りに出ると、タクシーを止めた。行き先は、大見橋駅だ。 
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