これはひどく不毛な恋の気がした。

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これはひどく不毛な恋の気がした。

 あのウィンドウショッピングのような、散歩のような、デート……のようなものから、一週間経った。  テストが近付いてきたせいだろう、普段は閑散としている図書館の閲覧席も人で埋まっていく。さすがに勉強しないとやばいって空気になるし、だからといって家に帰っても誘惑が多すぎてついつい遊んでしまうから、人の視線があって、適度に静かな場所を求めて、ここまで来るのだ。  さすがにテスト期間が近付いたら、図書委員の当番もお休みになるんだけれど、それでもわたしは図書館のカウンターに座っていた。  図書館の利用者は増えても、テスト前になったら貸出申請の作業はほとんどゼロになってしまうから、はっきり言ってここで勉強してしまったほうが安心感があるんだ。  司書さんは苦笑したようにこちらを見てくる。 「間宮さん、今年もここで勉強するのね」 「だって、せっかくの特権ですから。わたし、図書館の閲覧席に向かおうとしたら最後、適当な本棚から本をさらってきて読みふけってしまいますから、勉強になりません。今はカウンターに座っていても、本がないですから気が散りませんし」 「そうねー、夏休み前になったら一気に増えるけど、今はないもんね」  去年もそう言い訳してカウンターで勉強させてもらっていたから、今年もわたしはそれで勉強していた。  暗記ものは単語帳を使って勉強するから、カウンターでやるのは専ら数学とか英語とかの反復練習するものばかりだ。  沙羅ちゃんは勉強は家でするタイプだし、絵美ちゃんは新聞部の部室のほうで勉強しているから、わたしはもっぱらここで勉強するわけなんだけれど。 「なあなあ、間宮は日本史どこまで覚えた?」  ひとりで文章題を解いているところで、唐突に声をかけられて、わたしは思わず顔を真っ赤にする。  現金なもので、レンくんのプリントシール以降、レンくんに声をかけられると、途端にわたしの肩が強張るようになってしまった。わたしが顔を火照らせようと、レンくんは本当にいつものペースのままだっていうのに。 「い、一応、室町時代まではなんとか……」 「えー、そこまで覚えたのかよ。年号とかって、どうやって覚えんのかさっぱりだ」  レンくんはどちらかというとアウトドアタイプみたいだから、日本史は丸暗記したあとで忘れるタイプなんだろうなあ。  わたしは本が好きで、好きな歴史小説のことは覚えておこうと思って、小説の元ネタとして覚えるから、わたしの暗記方法は全然参考にならない。  そう思っていたら、レンくんはあっさりと「でも間宮は暗記得意じゃん、どうやってんの?」とか聞いてきて、思わずむせた。  わたしは現国以外の成績は赤点を取ってないだけでそこまでよくない。そもそも、レンくんはテスト受けるんだろうか。聞いてみたいような気がしたけれど、同時に聞いてはいけないような気もする。  わたしが口元をむずむずさせていると「どうなの?」と返してくるものだから、疑問はひとまず打ち止めだ。 「えっと……その時代に興味持てるような小説を一冊読んで、それに沿って暗記する……とか?」 「え? 例えば?」 「室町時代だったら、一休さんの伝記を読むとか」 「ええっと……あれってトンチで物事解決するっていうのしか知らないんだけど」  絵本やアニメで知られているのは、もっぱらトンチで和尚さんや周りの人をやり込める小坊主の一休さんだけれど、伝記を読んでみれば、意外とシビアな背景が知れたりする。  そもそも室町時代って、いくら本を読んでみてもどうして終わったのかがよくわからないし、歴史の教科書にも室町時代のあとに戦国時代に入って、そのあとの織田信長とか豊臣秀吉の話に移行しちゃうから、自分で本を読まないと、間の歴史がどうなっているのかなんて把握できないんだ。  興味ない人にどうやって教えればいいんだろうと思いながら、わたしは「うーんと」と髪の毛を揺らした。 「絵本やアニメだったら、子供用にわかりやすい話ばかり並べられてるから。実は偉い人のご落胤だったとか、仏教で禁じられていることを次々と行って、宗教が形骸化していることに対して警鐘を鳴らした人だとかは知られてないのかも」 「えー、じゃあトンチはフィクション?」 「そういう話って割とあるよね。江戸時代の人が、一休さんの話をモチーフに御伽噺をつくったのが、今知られている話。ほら、真田幸村っていう有名な武将さんがいるじゃない。あの人は、徳川幕府を転覆させようとした人だから、フルネームの話を語るのは御法度だったから、違う名前を付けて、あと一歩まで徳川を追い詰めたって話がつくられたの。元の話よりも、史実を下敷きにしたフィクションのほうが有名になっちゃうってことはあるから」  そこまで語って、わたしは口の中で「しまった……」とつぶやいた。  興味のない人には、語り過ぎたら変人呼ばわりされてしまう。本や物語が好きじゃない人には、できるだけ端的に語らないと伝わらないのに。  わたしが思わず押し黙ってしまったけれど、レンくんは「はあ~」と声を上げる。 「本当、間宮って詳しいなあ、なんでも」 「な、なんでもって、わけじゃないかな。だって、こういうのは、調べたら調べるほど、わたしって本当になんにも知らないなあって思うわけで……」 「でも俺が知ってる中で、一番博識なのは間宮だと思ったけどなあ」 「…………!!」  喉を詰まらせそうになる。  なんで彼は、こんなにおだて上手なんだろう。レンくんはわかってないような口ぶりで「間宮?」と聞くけれど、わたしは「なんでもない!」としか答えられず、「とりあえず、せめてわかりやすい話だけでも知ってたら、そこから暗記できるよ!」とだけ教えておいた。  本当にやったのかどうかは、わたしも知らない。 ****  家に帰ってから勉強しようとしても、なかなか勉強することに集中できなかった。  暑いし、蒸して汗ばむし、おかげで前髪が貼りつくし、ついでにTシャツだって背中に貼りつく。  扇風機は頑張ってくれるけれど、問題集がぱさぱさとめくれ上がってしまうから、どうしても集中することができなかった。  どうにか化学の記号を覚えようとしたけれど、どこまで覚えたのかもわからないまま、わたしはとうとう根を上げてしまった。 「はあ……休憩」  仕方がなく、机から離れてゴロンとベッドに転がった。  そして何気なく生徒手帳を広げて、前に撮ったプリントシールを見る。そのプリントシールに写っている満面の笑みのレンくんを見ていると、どっと熱が上がるし、どうにも落ち着かなくなる。  こんな格好いい子と手を繋いだり、プリントシールを撮ったのかと思うと、気恥ずかしいし、第一に「なんで?」って思ってしまう。  わたしは特に目立たない普通の女子だ。文学少女といえば聞こえはいいけれど、実のところ友達以外に本好きがいないために、マイナーな趣味にはまってしまっているマイノリティーってだけだ。今流行のアイドルソングの区別もつかないし、アイドルのグループとメンバーをシャッフルされてしまったらもう誰が誰かわからないくらいには興味がない。俳優さんだって、ドラマの役だとわかるのに、インタビューに出ていても誰が誰だかわかっていないことがほとんどだ。  わたしはそのプリントシールをまじまじと見る。  レンくんは、どうしてわたしに関わってくるのかがわからない。わたしは彼が見えないのに。触れないのに。向こうにはわたしが見えている、触れるというのは理不尽だと思ってしまうし、なによりも彼はわたしと住んでいる世界が違うような気がする。それこそ、沙羅ちゃんが片思いしている滝くんみたいに、サッカーしてグラウンドで活躍している男子には、ちょっとしたハプニングでもない限り声をかけるのだって、地味な女子からはためらわれてしまうんだ。  ぐちぐち考えても仕方ないもんなあ……。  勉強する気にならなくって、結局は晩ご飯を食べたあとは、すぐに眠ってしまった。  馬鹿だなあ。現国以外、そこまでいい点取れないくせにね。 ****  結局悶々としたまま、学校に着いてしまった。いつもの癖で早めに学校に来てしまったけれど、部活はテスト休みのせいで、サッカー部の朝練だって当然なしだ。グラウンドは閑散としてしまっていて、普段はキャーキャー言っているファンの子たちも、コンクールに提出するための新聞を作成している子たちも、今はいない。  わたしはガランとしたグラウンドを眺めていたとき、「あれ、間宮?」という声が聞こえたのに、わたしは思わず肩を跳ねさせる。  恐る恐るスマホのカメラ機能をオンにして見てみると、たしかにその向こうにはレンくんがいた。わたしのいきなりスマホを出したのを見て、スマホ越しのレンくんはきょとんと黒目がちな目を瞬かせる。 「なんで? 写メ撮ればいいのか?」 「そ、うじゃなくって! わたし、知らなかったから。スマホ越しだったら、レンくんが見えるんだよ?」 「あー……それは盲点だったなあ……」  レンくんは口元を抑えて、明後日の方向を見る。あれ、それは駄目だったの? わたしは恐る恐る手を伸ばしてみる。レンくんの腕を引っ張ってみようと思ったけれど、触れない。 「あーあーあーあー」と声を上げたかと思ったら、レンくんはずっぱりと言う。 「そういうこと、あんまりやるなよ」 「え? どうして? やっぱり……変だから?」  そりゃそうだ。  レンくんが格好いいからと舞い上がってしまっているのはわたしのほうだけで、レンくんはわたしに顔が割れる前も今も、態度が一律なんだ。なにも思っていなかったら、こんな態度になんてならない。  調子に乗ってしまったんだなと、わたしはしゅんとしてスマホをケースごと鞄に突っ込んだ。 「ごめん……ただレンくんはわたしのことを見えるし触れるのに、フェアじゃないと思ったの。わたしは、しゃべらないとレンくんがどこにいるのかわからないし、触ってもなにも感じないから……」 「いや、怒ったんじゃないんだ。本当に」  レンくんの声には、少しだけ焦りが入り混じっているように聞こえた。なんでそこで慌てるんだろう。散歩と称して遊びに誘ったのはレンくんのほうなのに。  少しだけ押し黙っていると、いよいよいるのかどうかもわからなくて不安になる。そのとき、レンくんはやっと言葉を吐き出してくれた。 「……勘違いしそうになるからさ。俺」 「なにを?」 「別に、俺たち。付き合ってもないよなあと」  そのぼそぼそとした言葉に、わたしは思わず鞄の柄をぎゅっと掴んだ。  当たり前だ。わたしとレンくんは、ただわたしにしか声が聞こえないだけの人。何故かかまってくる人ってだけの間柄で、友達というには互いが気の置けない存在とは程遠い。彼氏彼女かと聞かれたら友達よりももっと遠い。  レンくんさえ黙ってしまったら、わたしは彼がどこにいるのかもわからない、全くの赤の他人だ。  わたしは鞄を持って、そのまま逃げ出した。 「おい、間宮!」 「教室入ってテスト勉強する!」  根性なしは、本当にとことん根性なしだ。 ****  教室に着いたけれど、日直ですらまだいない時間なんだから、やることがない。  黒板だって綺麗だし、花瓶の水だって変わっているから、せいぜい冷房を付けてテスト勉強をするしかできない。  わたしはのろのろと昨日覚えきれなかった化学の問題集を取り出して、暗記に戻ろうとしたとき。 「なあ、間宮!」 「ひゃっ!?」  思わず隣からの声に、わたしは悲鳴を上げてしまった。  レンくんに教室で声をかけられたことなんて今までなく、わたしはそんな馬鹿な反応しかすることができなかった。  思わず問題集を閉じそうになったけれど、無視してどうにか暗記をこなそうとするけれど、隣から聞こえてくる声が気になって、覚えられるものも覚えられない。 「あのさ、なんで逃げたんだよ」 「……たんぱく質の分子構造……」 「俺、本当に全然気が利かなくって、すぐ怒られるから、間宮が全然怒らないから調子に乗ったのかもしれない」  待って。わたし、レンくんに出会ってから、悲鳴ばかり上げているし最初のほうは困惑ばかりしてたと思うけれど。  まるでレンくんの中じゃ、女神のように心が広くなっているみたいだ。わたしは思わず見えない方向に、目を瞬かせる。  やがて、レンくんはすっと息を吸うと、一気に吐き出した。 「ごめん! 調子に乘って怒らせた!」 「……待って、謝らないで。そもそもなんでレンくんが謝るの? わたしが根性なしだから謝ることでは」 「はあ? 根性? どこら辺に必要?」  ……わたしが言ったことも、意味もなにひとつ伝わってないみたいだけれど、まあいいや。  わたしはできるだけ笑顔を浮かべて頷いた。 「本当の本当に、全然怒ってないから。だからお願いだから謝らないで」 「えー、そうか。そうかあ……よかったあ……」  レンくんはひとりで納得してくれたみたいなことに、わたしは心底ほっとした。  やがて、クラスメイトがパラパラ来たので、わたしはレンくんのことをスルーして、今度こそ科学の暗記に戻っていった。  不思議なことに、さっきまでざわついたりしていた気持ちが落ち着いたし、同時にふわふわした気持ちがまとわりついている、妙な心地になっている。  気持ちがジェットコースターのように沈んだり、上昇したりを繰り返している。  わたしは、やっぱりレンくんのことが好きなのかもしれない。  そう自分の気持ちと向き合うのが、何故か怖かった。 ****  授業が終わり、図書館で勉強するか、そのまま家で勉強するかで考え込む。  相変わらず絵美ちゃんは部室で勉強しているし、沙羅ちゃんはさっさと家に帰ってしまうし。  でもなあ……図書館のカウンターで勉強していたら、レンくんに会うのかもしれない。いるのかどうかわからないけれど、一緒にいると落ち着かないし、いるのかもしれないしいないのかもしれないとそわそわしていたら、勉強に集中できない。  仕方ないから家に帰ろうかなあ。そう思って廊下に出ていたとき。  意外な組み合わせが立ち話しているのが見えて、思わず角に身を寄せてしまった。  しゃべっているのは、沙羅ちゃんと滝くんだ。  沙羅ちゃんは滝くんに気があるけれど、滝くんがなにを考えているのかはいまいちわからない。  ふたりの接点なんて、せいぜい同級生くらいだ。何故か事故に遭ったあとからわたしに対してはいろいろ声をかけてくれるときもあるけれど、沙羅ちゃんとなにかあったのかなんて、はじめて知った。  いつの間にふたりは世間話するくらいの関係になったんだろう? 思い返してみても、沙羅ちゃんは滝くんと話をする際にわたしを盾にしてしゃべっていて、まともにふたりだけでしゃべることはなかったと思うんだけれど。 「それで、間宮は大丈夫そうか?」  滝くんはいつものぼそぼそとした口調で言う。何故わたしの話題なんだろう。テスト前なんだから、テストの話でもすればいいのに、自分に気のある女子の前で他の子の話をしなくってもいいのに。  思わずむっとしてしまったけれど、対する沙羅ちゃんはショックを受けている様子もなく、返事をしている。 「うん……相変わらず、だけどね」  沙羅ちゃんはいつものおっとりとした声で、そう言う。  滝くんは形のいい眉にあからさまに皺を寄せる。 「一応聞くけど、具合は本当になんにもないんだな? ときどき保健室に行っていたみたいだが」 「うん、最初は声が聞こえ過ぎてパニック起こしてたみたいだけれど、ひと月経ってからは落ち着いてる」 「そうか」  ふたりの話を聞いていると、どうにも落ち着かない。どうしてわたしの体調の話題をしているんだろう。わたしをネタにせずとも、他に話題はあると思うんだけどなあ。  立ち聞きしているのも難だから、このまま立ち去ろうと思って踵を返したところで、滝くんの声がボソリと聞こえた。 「あいつのこともか?」 「……滝くんには悪いけれど、私は許せそうもないよ」  そこであからさまに沙羅ちゃんの声に棘が入り混じったことに、わたしは思わず足を止めた。  前にもそんなときがあったと思い返す……そうだ、沙羅ちゃんが誰かとしゃべっているとき、あからさまにしゃべってた相手に対して怒っていたんだ。  ちょっと待って。その怒っている誰かとわたしが、どうして結びつくの。  思わずそのまま聞き耳を立てていたけれど、沙羅ちゃんの言葉に対して、あからさまにしょげたような滝くんの声が聞こえるだけだ。 「すまん……」 「あ、本当に滝くんには怒ってないんだよ? 本当だよ」 「だが、あいつは人がよすぎるから」 「人がいいのと、調子がいいっていうのは全然違うよ……ごめん、ちょっと言い過ぎた気がするね」 「いや、すまん。本当に」 「滝くんは、本当に謝らなくっていいと思うの……!」  沙羅ちゃんが吐いた毒にショックを受けているらしい滝くんを、沙羅ちゃんは必死でフォローしようとする会話に切り替わったところで、わたしはようやく廊下をあとにした。  いったい、どういうことなんだろう……? なにかを隠されているような気がするけれど、今までは気付かないふりをしていた。でも、そろそろ向き合わないといけないのかもしれない。  学校を出るまで、不定期に声をかけてくるレンくんの声は、聞こえなかった。何気なくスマホをかざして辺りを見てみたけれど、やっぱりいなかった。  ……うん、レンくんがいつもわたしの近くにいるわけじゃない。でもそのことについては、もうちょっと考えたほうがいいのかもしれない。 ****  テスト勉強をどうしようと考えあぐねて、遅れてしまった化学の暗記をしないといけないと、心を鬼にしてやってきたのは、近所の市立図書館に設置されている自習室だった。  そこは大学受験生や試験勉強に使っている人しかいないし、図書館の中にあるものだから、コンビニやハンバーガー屋みたいにしゃべりまくる人もいない。  わたしはそこで化学の暗記に躍起になり、問題集をひとつひとつ解いていく。  問題集の答え合わせをして、どうにか赤点は免れそうだなとほっとひと息ついたところで、隣の女の子が本を読んでいることに気が付いた。どうもその子もテスト勉強のために自習室に来たけれど、ノルマが終わったから図書館のほうから本を借りてきたみたいだ。  自分へのご褒美として、本を借りに行くのもいいなあ。そうゆるゆるとしたご褒美を求めて、わたしも図書館に行く。  夕方で、人が程よくはけた図書館で、新刊コーナーを漁る。面白そうな本はないかなと思ってあれこれ手に取っては読み、手に取っては読みを繰り返していたところで、司書さんが返却本を積んで本棚に立てているのが目に留まった。  その本の一冊を見て、思わず目を見張る。 【脳の全て】  普段だったらわたしは物語以外の本にはあまり興味がなく、スルーしているものだったけれど、どうしても目が離せなくなった。 「あの、この本って読んでも大丈夫ですか?」  わたしは作業をしている司書さんに声をかけて、本を指さすと、当然ながら司書さんは不思議そうな顔をした。 「もちろんかまいませんが……こちらで大丈夫ですか?」 「はい!」 「もし返却する場合はカウンターまでお持ちくださいね」  司書さんが差し出してくれたのにわたしは頭を下げてから、いそいそと閲覧席へと持っていった。  その本は生物の授業で見たような脳の構造からはじまって、脳の機能の低下によって起こる病気や現象によってあれこれと書かれている。  授業でちょっとだけ先生が触れたことあるなあと思いながらパラパラとめくっていたところで、【記憶喪失によって起こる現象】とタイトルの付けられた章に、目が留まった。  これだと思って、わたしは慌てて文に上から下まで順番に目を通す。  脳が衝撃を受けた際に、保存していた記憶を失うことがある。怖いものだったら脳に損傷が起こって、人生を送っていく中で覚えていく人間的活動の方法まで忘れてしまうという恐ろしいものもあったけれど、他にも見逃され勝ちな問題として挙げられているものがあった。  記憶を失っていても、それに全く気付かないものというのが書かれている。  人間の脳というものは本当に人間にとって都合よくできていて、忘れていて矛盾が発生しても、無自覚の内にそれのつじつまを合わせてしまうことで、忘れていることに気付かないということがあると。  わたしは今自分の身の上で起こっていることを思い返しながら、ようやくわたしは図書館を出る決心をした。  カウンターに本を返し、貸してくれた司書さんにお礼を言うと、わたしは図書館をあとにした。  病院で行っても、やっぱりわたしの後遺症らしいものは見つからない。先生もわたしの体にはなにも問題ないとしか言わない。  でも……未だに思い出せない事故当時の記憶。  わたし、本当に大事なことを忘れてない?  なにも忘れてないんだったら問題ないけれど、なにか忘れているのかもしれないというのは、ずるずるとわたしの影にくっついてくる。後ろめたいと思ってしまうのは、大事なことを見落としていないかと不安に駆られてしまうからだ。  わたしは、いい加減このことについて向き直らないといけないんじゃないだろうか。  それが正しいのかなんて、わからないけれど。
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