第1章 「1時間35分36秒」ー後藤田 真美 ①ー

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真美が、店長の本田透(ほんだ とおる)に取り入るのは、予想以上に容易かった。本田は、38歳で妻子持ちだが、夫婦仲がうまくいっておらず家庭内で孤立していると、スタッフたちの間ではもっぱらの噂になっていた。それに加え、“上永(かみなが)さん”という元副店長の女性スタッフとの対立により、本田は店でも孤立した存在だったらしい。上永は「J&Y outlet」オープン当初からのスタッフであり、正社員だった。年齢と性別の兼ね合いで店長の座は本田に明け渡したものの、実力が本田より上であることは、誰の目から見ても一目瞭然だった。スタッフからの人望も皆無で人間としての器が小さい本田は、そのことを面白く思っておらず、事あるごとに本田と上永は衝突し、店の雰囲気は最悪だった。上永は、現状を改善しようと懸命に本田に歩み寄る努力をしたが、本田は、そんな状況を楽しむかのように、故意に不穏な空気を作り出していたと言われている。その年、「J&Y outlet」は、オープン以来達成してきた年間売り上げ予算を初めて落としたという。本田は、その責任全てを上永に押し付け、上永は、退職せざるを得ない状況に追い込まれたという話だ。当時のスタッフは、そんな本田のやり方を猛烈に非難し、嫌気が差して辞めるスタッフも相次いだ。上永と同期で上永の右腕的存在だった津田衣里(つだ えり)という契約社員は、上永を慕っていた早坂らのアルバイトスタッフを従えて、本田に果敢に抗議活動をしたが、その努力も虚しく、本田の陰謀で「madam shelly(マダム・シェリー)」という、同じアウトレットモール内にあるミセスを対象にした店舗に飛ばされてしまった。このようにして、自らの保身のために、ありとあらゆる汚い手を使って邪魔者を排除した本田は、完全に孤立した。本田にとって、邪魔な人間を消したということは、同時に、有能で使える人間を消し去ったことも意味する。残ったのは、反本田派の反抗的でやる気のない使えないアルバイトスタッフ数名だった。本田以外店を任せられるスタッフがいないという悲惨な状況が続き、本田は休みを取ることができなくなった。休憩時間の間も何が起こるか分からないので、店の外に出ることが出来ず、薄暗いバックヤードで休憩を取らざるを得なくなった。そして、家を空ければ空けるほど、家庭における本田の立場は益々弱くなり、愛犬ムッフィーよりも下の身分に成り下がっていた。  本田が、心身ともに疲弊していたであろう最悪の時期に、真美はアルバイトスタッフとして入社した。頭数さえ揃えば誰でも良かったのだろう。面接は実に適当な感じで、ものの5分で終了した。その場で採用決定を告げられ、明日から来て欲しいと言われた。このことからも、店の内部の状態が異常であることは、簡単に予想することができた。入社後、早坂らに話を聞き出してその経緯を知った真美は、行動を始めた。“取り入り”は、真美の十八番(おはこ)だ。権力ある者に取り入り味方に付け、力を持たない者たちを切り捨て敵に回す。力の無い者と群れ馴れ合ったところで何の得にもなりやしない。 「私、本田店長が、スタッフからあまり良く思われていないこと知ってるんです……」  真美は、本田と一緒に休憩に入った時に話を切り出した。 「そう……だから?」  本田は、眉間に皺を寄せ不快感を全面に押し出す表情をした。 「私、店長のやり方が間違っているとは思いません。だって、私が店長と同じ立場だったら、きっと同じことをしたと思うし、仕事もできないくせに、文句ばっかり言ってる人たちって許せないんです。私は……本田店長の味方です」  その瞬間、本田の中で、真美に対する見方が一変するのが手に取るように分かった。孤独の只中にいる人間に対して“味方”という言葉は最も効果的だ。 「本当に、そう思う?」  本田は、何かに縋るかのような弱々しい声で、真美に訊ねた。 「はい。店長は仕事もおできになるし、何より“J&Yブランド”に対して愛着を持っていらっしゃいます。誰よりも尊敬できる方だと思っています」  本田と真美の間にあった分厚い壁は一瞬にして崩れ落ちた。その後の真美の行動は抜かりなかった。積極的に仕事に取り組み、わからないことは、何でも本田に質問した。真美のような若い女から慕われ頼りにされているという思いは、本田を強気にさせるエネルギーとなった。更に、家庭の愛情に飢えている本田に対し、手作り弁当を作ってくるという女ならではの攻撃は、男としての自信を喪失していた本田に「俺だって、まだまだ捨てたもんじゃないんだ!」という自信を回復させるのに充分だった。本田の真美に対するあからさまな依怙贔屓は、たちまち早坂たちアルバイトスタッフの非難の的となり、あの2人は怪しい……という噂にまで発展している。 「さすがに、店長のご寵愛を受けていらっしゃる方は強気ですよねえ」  真美の厭味に対し、早坂は生意気にも厭味で返してきた。唇の右端をキュッと歪ませ、今にもレーザービームが飛び出してきそうな両目はそのままに、笑みのような表情を繕う。自分より格下の者を見下すかのようなその気味の悪い表情は、この女の並々ならぬプライドの高さを物語っていた。おそらく、この女は、自分と同種の人間なのだろうな、と思った。 ――「同族嫌悪」 真美が早坂を忌み嫌うのと同じように、きっと、この女も真美のことを忌み嫌っているのだろう……。 (だったら、完膚なきまでに叩き潰すのみだ!)  真美は、早坂を睨みつけた。この瞬間、2人の女の決闘は始まったのだ。
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