第2章「エリート崩れの叫び」ー早坂 杏理①ー

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「“ハイエナ”さん、俺、この間見ましたよ。確か、“後藤さん”でしたっけ?」  カシスオレンジをカウンター越しに置きながら、まあさんが、さりげなく話に入ってきた。 「アハハッ! 惜しいよ、まあさん。“後藤”じゃなくて“後藤田”ね。苗字までめんどくさい感じでしょ? 後藤でいいじゃんね。後藤田って何だよ?“田”いらないじゃん、みたいな。まあさん、一体どこでヤツのこと見たの?」 「1週間くらい前かな? うちの嫁さんが『J&Y』に行きたいって言うんで、行って来たんですよ。早坂さんはお休みだったみたいで、店頭には、店長っぽい男の方と、ショートカットで細身の女の方がいました。女の店員さんが、かなり積極的にうちの嫁さんの接客に付きまして……けっこう強引な接客なさる方なんで、もしかしたらこの方が、早坂さんがいつも話している“ハイエナ”さんかなと思いまして……」 「マジで? ごめんねえ。あの女ターゲット決めるとハイエナのように食い付いて行くからさ。で、奥さんは何か買わされちゃった?」 「残念ながら、嫁が狙っていたジャケットは置いてなかったみたいで、何も買わず仕舞いでした。売上に貢献できなくて申し訳なかったです」 「いいよ、いいよ。そんなの気にしないで。大して欲しくもない物買わされちゃったら、それこそ申し訳ないもん。で、まあさんはどう思った? “ハイエナ”のこと」 「何と言うか、目がギラギラした方ですね。商品知識も詳しいようですし、熱心なのはすごいなと思うんですけど、“お客様”というよりは“売上の数字”として見られているような気がして、いたたまれなくなって逃げ出したくなっちゃいました。うちの嫁さんは、気が強い方なんでサクッとお断りして店出ちゃいましたけど……気が弱い方だと、押しに負けて買っちゃうかもしれないですね。自分で決められない人とか、商品について詳しく知りたい人にとっては良い店員さんかもしれないですけどね……もしも、同じ職場の仲間だったら、ちょっと付き合うのが難しい方なのかな、という印象は受けましたね」  まあさんは、いつも“中立”の立場を取る。ここで、まあさんが一緒になって“ハイエナ”の悪口をガーっと言ってくれれば、スカッとするんだろうなあとは思う。それでも、まあさんは不用意な発言は決してしない。言葉は慎重に選ぶ。どんな常連のお客さんに対しても、お客さんと店員の間にある壁を蹴り崩して、ズカズカと土足でお客さんのプライベートゾーンに立ち入ることは絶対にしない。バンドの追っかけの女の子や、まあさんを狙っている女の子たちは、そんなまあさんにやきもきしたりしているらしいけれど、それ以外のお客さんたちは、まあさんのことを信用できる人物として高く評価している。  まあさんも、二十代の若い頃は、バンドの追っかけの子に手を出したり、何股もかけて女の子を泣かせたり、恨みを買われて殺されかけたり、派手に女遊びしていたらしいけれど、今の奥さんと結婚して子供が産まれてからは、嘘のように人が変わったと噂で聞いた。元々がイケメンのうえに大人の男の落ち着いた雰囲気がプラスされた今、まあさんのモテ男ぶりはとどまることを知らない。それでも、まあさんは、どんな美人に言い寄られても、奥さん以外の女に手を出すようなことは絶対にしない。 「まあさん、杏理のお店だけ行ってずるーい。マユリに会いに来てくれたっていいじゃん!」  マユリは、十八番(おはこ)の上目遣いで、シェーカーを振るまあさんをじっとみつめながら甘ったるいブリブリボイスで、ぷうっと頬を膨らませた。馬鹿な男だったら99パーセント位の確率で堕ちるのだろう。自分のことを“マユリ”と呼ぶ彼女を見るたびに、杏理は、いつも心の中で「死ねばいいのに」と思っている。しかし、そんな、マユリのあざとい作戦も、まあさんくらいのハイレベルな男には通用しない。 「えっ、俺、“ma couleur(マ クールール)”にも行きましたよ」  “ma couleur(マ クールール)”というのは、マユリが働いているショップの名前だ。お洒落なルームウェアと雑貨を豊富に取り揃えているお店で、アウトレット内で1、2位を争う売上と店舗面積を持つショップだ。 「マジで? いつ来てくれたのぉ? マユリ、まあさんに会えなかったじゃんっ!」  杏理と喋る時より1オクターブくらいマユリの声が、杏理の耳に障った。 「先週の火曜日ですよ。お昼ちょっと過ぎくらいに行ったら、三条さん店頭に見当たらなくって。丁度近くに居た背の高い女性のスタッフさんに尋ねたら、三条さんお昼休憩に出たばかりだって言われました。その方、なんか、モデルさんみたいな方でしたよ。顔立ちも……ハーフかクウォーターなのかなって感じで……」  マユリのぶりっ子フェイスが一瞬凍てつくのが、薄暗い店内にあってもはっきりと分かった。まあさんも気付いたらしく「しまった!」という表情をしているのを見て、杏理は思わず、可愛いと思ってしまった。 「ああ、その人、“クリステル”ですよ」  杏理は、マユリの心情を理解した上で、わざと彼女が触れられたくない話題に触れた。 「クリステル?」  まあさんは、不思議そうに訊き返し、マユリはセッターメンソールに火を点ける。 「滝川クリステルだよ」 「アナウンサーの?」 「そう、そう。けっこう似てるでしょ? 彼女、高嶺(たかみね)アリサっていうんだけど、イギリス人と日本人のハーフなんだよ。“ma couleur(マ クールール)”の店長で、美人で頭が良いんだ。うちの店長なんて、店長会に行くたびに鼻の下伸ばして帰って来て、デレデレしてるよ。子持ちのオッサンが何言ってるんだよって感じでキモイんだけど、そんな店長見て、不機嫌になるハイエナ見るのも面白っちゃあ面白くてさ……でも、そのあと、必ずハイエナに八つ当たりされるのが面倒くさいんだけどね。まあさんが知らないってことは、“クリステル”、まあさんがアウトレット辞めた後に配属されたのかな? 彼女元々は本社の人で、何年か現場経験したら本社に戻るみたいだけどね。ねっ? マユリ?」 「ああ、そうみたいね。早く本社でもどこへでも帰ればいいのに……あっ! ちょっと私電話かけなきゃだから、ごめん……席外すね」  マユリは、不機嫌を隠すことなく席を立った。可愛くてモテる女は我が儘で在るべきというのが、彼女のセオリーらしい。
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