第3章「オバハン哀歌」ー坂東 悦子①ー

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第3章「オバハン哀歌」ー坂東 悦子①ー

「今年もうちがトップだわね」  坂東悦子(ばんどうえつこ)は、日本に7店舗ある "MadamShelly(マダム・シェリー)”のアウトレットショップの今年のゴールデンウィークの売上げ結果を見てほくそ笑んだ。 怒涛のゴールデンウィークは、目の廻るような忙しさで、あっという間に終わった。特にゴールデンウィーク後半の連休の忙しさは尋常でなく、後半4日間だけで、5月の月予算の48パーセント。ほぼ半分を達成した。 「この地に異動させられて8年、か……月日が経つのは早いわねえ……」  生まれも育ちも東京。高校卒業後、ずっと銀座や新宿などの老舗デパートで販売員の仕事をしてきた超ベテランの悦子に、“猫柳アウトレットモール”への人事異動があったのが、8年前。悦子が40歳の時だった。都会しか知らない悦子が、何の刺激もない田舎町での暮らしを強いられることは、苦痛以外の何物でもなかった。過剰なストレスから暴飲暴食に走った悦子の体重は増え続け、8年前の時点で50キロジャストだった体重は、あっという間に、15キロ増の65キロにまで増えた。 悦子が店長を務めるショップ、 "Madam Shelly(マダム・シェリー)"は、通称“シェリー”で親しまれている世界的ファッションデザイナー中村志寿恵(なかむら しずえ)のプレタポルテ(高級既製服)ブランド“Mode Shelly(モード・シェリー)”のカジュアルブランドとして、アウトレットモールを中心に北は北海道から南は沖縄まで展開されている。デザイン性が高く奇抜であり、商品単価も高い“Mode Shelly(モード・シェリー)”より商品単価がかなり低めに設定されているため、庶民階級の主婦層を中心に根強い人気を誇っている。 実のところ、“Madam Shelly(マダム・シェリー)”というカジュアルブランドは、悦子が“猫柳アウトレット”に就任した当初は、存在していなかった。店頭に陳列されていた商品は、都内の高級デパートなどで販売されていた“Mode Shelly(モード・シェリー)”の売れ残ってしまった商品や、前期ものの商品、サンプル商品や、“B品”という、汚れや傷、綻び等の不良箇所があるために、プロパー店で商品として店頭に出すことができなくなってしまった商品だった。しかし、“Mode Shelly(モード・シェリー)”の本来の価格がかなり高いために、30パーセントから50パーセントオフにして販売したところで、万単位を切るような安価な商品は1点もなかった。 (そもそも“Mode Shelly(モード・シェリー)”をアウトレットモールで販売したところで、お客様のニーズはあるのだろうか?)  “Madam Shelly(マダム・シェリー)”の店舗に足を踏み入れるお客様の大半が庶民階級層で、上流階級のお客様がこんな辺鄙な田舎町にまで足を運んで、売れ残った商品を漁ったりするなんてことは、まず、ない。 (このままでは、この店は撤退を余儀なくされることになるだろう)  悦子はこの店の行く末を危惧し、悦子の不安は、見事に的中した。 オープン当初こそ勢いでそこそこ売上を伸ばすことができたものの、時が経ち、グランドオープン当初の熱気が冷めていくのに比例して、店の売上も下降していった。  嫌々引き受けた辞令ではあるが、自分の力量不足で店を潰すことだけは悦子のプライドが許さなかった。この道30年のベテランとしてのプライドが! 悦子は、何度も何度ももっと安価で一般受けするブランド、大きめサイズの展開を本社に訴えた。しかし、高級ブランドのイメージを崩したくない本社は、断固として悦子の要求を受け入れてはくれなかった。 (現場を知らない、腐れボスざるめが!)  悦子は、悔しさから、ますます暴飲暴食に走った。そんな悦子の努力が報われ始めたのは、オープンから1年後。担当スーパーバイザーが御国麻里夫(みくに まりお)に替わってからだった。悦子の体重が大台に乗る直前のことだった。
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