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「……光子、光子!大丈夫か!」
ん……誰?
あたしは目を開ける。
目の前に、五分刈りくらいの髪の毛だが、あたし好みの超絶イケメンがいた。年齢は二十代半ば、というところか。カーキ色の、なんかちょっと軍服っぽい服を着ている。思い出した。国民服、ってヤツだ。
「だ、誰……?」
「ええっ?」
イケメンの顔が歪む。
「頭打って忘れちまったがか? "なべ屋"の大造だねっかね!」
なべ屋……って、雪絵ばあちゃんちの屋号だ。昔は鍋を売っていたらしい。田舎では名字よりも屋号で言った方が通じることの方が多い。
ちょっと待って。
"なべ屋"の大造、ってことは……もしかして……ひいじいちゃん? このイケメンが?
嘘……
「ああ……大造さん……」
「良かった」イケメンが、大きく安堵のため息をつく。「怪我はないかね?……いきなり転んだもんで、どうしたがか、と思ったけど……転んだ先が草むらで良かったこて」
「……」
見ると、あたしが乗っていたらしい自転車が、砂利道の上に転がっている。えらく古めかしい形だ。
立ち上がって、周りを見渡す。
青い空。セミの鳴き声。目の前の、車がギリギリ一台通れるくらいの細い砂利道の右側には草むらが、左側には緑の稲が揺れる水田が広がっていた。左側に転ばなくて本当に良かった。そうだったら今頃は泥まみれだ。
あたしが着ているのは、いわゆるモンペだ。初めて見た。少し痛みを感じたので、その上から右肩を押さえる。木綿っぽい生地は破れていないし、怪我もしていない。軽い打ち身、と言った程度だろう。道から見ると草むらが若干下り気味の傾斜になっていて、そこで転がったのが良かったようだ。
「ま、ここからは押していくか。大分道も悪くなってるすけな」
そう言ってイケメン……というか、ひいじいちゃん……というのも年齢的に違和感があるか……大造さんは、自分の自転車のハンドルを持ってスタンドを上げ、歩き始める。あたしも自分の自転車を持ち上げて押しながら、彼に続く。
「しかし、杉田上飛曹はやっぱりすげえよなあ」と、大造さん。
「え?」
「だって、山本長官の護衛に付いていた戦闘機乗りは、あの後みな出撃に次ぐ出撃を命じられて、死んでいったってがよ。だけど杉田上飛曹は、それでも未だに生き残って、撃墜王として名を馳せてるんだすけさ。もう一〇〇機も撃墜したんだって」
……。
あたしは古い記憶を必死でたぐり寄せる。
そう言えば、伯父から聞いたことがある。
あたしの実家がある上越市大島区の隣の安塚区が、遥か昔まだ東頸城郡安塚村だった頃、そこ出身の有名な戦闘機乗りがいて、戦時中にひいじいちゃんはその人と会ったことがあり、それを自慢していたらしい。1980年代にその人をモデルにした映画が作られて、内孫である伯父は一緒にそれを見に行かされたのだ、という。だけど、その映画の中で主人公が里帰りするシーンを見て、ひいじいちゃんはブツブツ文句を言っていたらしい。
"浦川原の駅にあんな立派な蒸気機関車なんて来てなかった。軽便鉄道だったんだすけな"
と……
って、ことは……
ここは、戦時中の世界なの? あたしは戦時中の旧大島村にタイムスリップしてしまった、と言うことなの?
なぜ?
分からない……けど、もしかして……
あたしは以前、突拍子もない考えを抱いたことがある。
実はアルツハイマー病の患者は、時間を遡る能力に目覚めていて、本当に過去に戻っているのではないか、と。
まさか……それが正しかった?
だとしたら、ひいじいちゃんは今、本当に戦時中の世界に生きているのかもしれない。そして、それに引きずられて、あたしも戦時中の世界にタイムスリップしてしまったのでは……
そうなると、もうSFの領域だ。あたしのはとこで彼氏……と言えるかどうかまだ微妙なところだが……の「翔ちゃん」こと梶原翔太なら、物理学科の学生だから、もっともらしい理屈を付けて説明してくれるかもしれないが、残念ながら彼はここにはいない。ここは彼が生まれるよりも半世紀以上前の世界なのだ。
だけど、よく考えたら、大造さんは翔ちゃんにとっても曾祖父だ。そう思って見ると、確かにどことなく翔ちゃんの面影がある。好みのタイプ、と思ってしまうのも無理はない。やはり DNA には逆らえない。
「まったく、俺よりも五つも年下なのに、かなわねえよなあ。俺も戦闘機乗りになれば良かったかなあ。なまじ教員なんてものになっちまったおかげで、赤紙も来ねえすけなあ」
大造さんが、空を見上げながら言う。
「ダメ!」
思わず大声が出てしまった。
「え?」大造さんがあたしを振り返る。
「あ、いや、だって……大造さんみたいなぶきっちょな人が、戦闘機の操縦なんか、ちゃんとできるとはとても思えませんよ……」
本当はそうは思っていない。だけど、話を聞く限り、今は山本五十六連合艦隊長官機が撃墜された後らしい。ということは、少なくとも昭和十八年以降。戦局が悪化している頃だ。今から戦闘機乗りを目指せば、おそらく特攻隊員になってしまう。終戦まで生き残れる可能性は、ゼロに等しい。そうなれば……あたしも翔ちゃんも、生まれてこなくなってしまう。だから、この人を死なせるわけにはいかない。
「はっはっは!」大造さんは破顔一笑する。
「まったく、光子は手厳しいなあ。それが婚約者に言う言葉かよ……だけど、確かにおまんの言う通りだて。俺はぶきっちょだすけなあ。自転車だって乗れるようになるまで半年くらいかかったすけな。おまんの方がよっぽど早く乗れるようになったぐれえだし。飛行機だったら、乗れるようになる頃には戦争も終わっちまってるかもな。でも、なぁ……」
そこで大造さんは、少し悲しげな表情になる。
「俺の教え子ももう、次々に出征しているすけな。あいつらに最前線で戦わせて、俺は内地で戦わずに生き延びている、ってのも……なんだか、な」
「いいじゃないですか。銃後を守るのも、国民の務めですから」
「そうだな。確かに、俺の任務は国民を立派に育てることだな。天皇陛下のために」
「……」
わずか二~三年後、この人は、生徒と一緒にそれまで使っていた教科書を墨で黒く塗りつぶすことになるのだ。その時彼はどう思うのだろうか。
「なあ、光子」
大造さんが、真顔になる。
「なんですか?」
「早く、結婚しような。そして……たくさん子供を作ろう。そうしないと……日本はダメになる……そんな気がするんだ」
「……」
あたしは顔が赤らむのを感じる。随分ストレートな物言いだ。グループホームではいつも歯が浮くような口説き文句を言ってくるのに……でも、これが本当のこの人なのかも……
だけど。
その方が、何故かあたしの心に刺さるようだ。あたしも、この人の子供が欲しい……なんて思ってしまっている。ヤバい。
やっぱり、おじいちゃんの美辞麗句より、若いイケメンの直球ストレートの方が効果的、ってことか……あたしもつくづく現金なものだ。
「お互い、長生きしような。俺はできれば一〇〇歳まで生きたい。おまんと一緒に、さ。そして、無事一〇〇歳まで生きられたら、たぶん俺はおまんに言うよ……」
突然、あたしの視界はホワイトアウトしていった。
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