百官の王

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「弓と矢を用意致せ」  草木がこすれ合うような聴き取りづらい親房のささやく声である。智略を巡らすことに天賦の才を持つ親房らしい声が妻は嫌だった。何を企んでいるのか見当もつかないし、親房の望む通りに物事が運んでしまうからである。  親房は我が子を呼び寄せ、家臣に用意させた弓と矢を持たせた。 「母に向かって、構えてみよ」  弓は子供用ではあるが、背丈と変わらない大きさ。構えたところで妻まで矢は届くはずもない。けれど、妻はじりじりと立ち位置を下げていく。  言われたとおりに構える我が子の姿に恐れを抱いていた。弓の持つ殺める力を知らないが故か、子供だからこその好奇心であるのか。ためらうことなく母に向けて弓を構える我が子の心理が見えてこない。その瞳に無邪気さの欠片もなく、切れ長で一重の瞼は親房と瓜二つである。  とうとう妻は白い石の池に足を踏みいれた。溺れるように尻をつき、恐れが染み渡った体は立ち上がることを許さない。親房が言った。 「この子はまだ、矢を放つことは出来ぬ。それでも弓を構えたその姿は、威を放つ。資質があるのだ。数多の役人の上に立ち、変わりゆく時代を先導する力が」  何を言われるでもなく自ら弓をおろす我が子。よれた着物を正すと、返すべき家臣に弓を差し出した。この子はすべてを理解しているのだ。 「母上。私が父上の跡を継ぎたいと思っておりまする。お上に生涯の忠義を捧げたいと思いまする」 「忠義・・・跡を継ぐ? 何を言うておる」  意味わかっている。わからないのは、3つの子供がそんな言葉を使えること。これまで母の前では口にしなかった。あえて使わなかったのでは? そんなありえない答えに思考が止まる。 「家督を継ぐつもりでおりまする」 「そなたは女。継ぐことなど出来ないのですよ」 「母上。私は女です。されど、私は男なのです」  後に、顕家(あきいえ)の名を賜るこの童。肉体は女として生まれても、その心は間違いなく男であった。父を凌ぐ智略の片鱗は、この時すでに現れていた。それに父は希望を抱き、母は恐れを抱く。 「この子は男である」  それが手を取ってくれた父の言葉。 「憑りついておる。狐じゃ、返せ、我が子を返せ」  それが今生の別れとなる母の言葉であった。
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