百官の王

4/8
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 伊勢へ入る前、顕家は黒川地において、高師泰(こうの もろやす)率いる足利軍約1万騎と相対していた。諸国の大名53名が連なる決死の構えである。  もしここで顕家の軍勢に敗れることがあるならば、越前への北上を許し、敵方である武将新田義貞(にった よしさだ)との合流によって都の奪還は免れない由々しき事態へ結びつく。そして、それが逃れようのない定めであると、思わずにはいられない光景を目にするのである。  見上げれば七星が並ぶ夜空であった。奇怪なのはそれが池の水面に映すように、黒川地にも星空が広がっていることである。その明かりは揺らめいている。まるで波紋のようであった。  それが顕家の率いる軍勢の持つかがり火であることは明白。それでも受け入れられないのは、その広がり方。池に映る水面程度では収まらない。湖だって収まらない。これは海である。  それほど誇張して恐れるほど、今の顕家には勢いがあり、勝ち続けたここまでの道のりで膨れ上がった軍勢は、何と10万騎を越えていた。 「なに故、勝てる戦を避けたのだ。その訳を申し上げよ。お上にもまかり通る智略あってのことを示してみよ」  父の言葉はいつだって静かである。都で生まれ育った公家の戦は屋敷の中で行われる。人を殺める手段は刀よりも言葉である。同じ言葉でも声色を変え、間を作り、表情から立ち居振る舞いによって意味は異なる。すべてが戦略である。  刀傷のように文字として残る言葉は避け、相手の視覚にのみ記録される立ち居振る舞いに重きを置き、意図を含めることを好むのが父である。  その父が立ち上がっている。公務にでも出向くような正装の束帯姿。腰には反りあがった太刀を帯び、その柄に左手が添えられている。  これは尋問である。顕家の返答次第で裁量が決まるのだ。  父はひとつ足を前へ踏み出した。床板を打ち付けるように踵(かかと)から踏み降ろした一歩は、座禅における警策(けいさく)の棒で叩かれるように、顕家の背筋を伸ばさせた。 「顕家よ。まさか、そなたは新田殿に功を奪われるなどと、私欲に溺れたのではあるまいな」  新田は顕家と同じく、後醍醐天皇方に与する武家の一門。左近衛中将の官職を与えられ、武家を統べることを求めらた武将。  とはいえ、官位は従四位上である。従二位である顕家に比べれば、二つも下の下級官僚。功を奪われるなどと恐れを抱くはずのない相手である。だが、父がそれを問うたということは、その恐れがあるという証。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!