百官の王

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 父は柄に添えていた左手を下げると、右手で力むほど握りしめた。仁王立ちの足元は、右足を半歩前へ。腰を落とし、肩も下げ、刀を収めた鞘は腰よりも高く反りあがり、その切っ先は風に弄ばれた稲穂のように所在なく揺れている。 「忠義」  父の怒号は聞きなれた言葉だからこそ聞き取れた。求められた答えも理解している。それでも言葉に表せないのが、顕家の答え。 「なぜ言わん。幾度も父が教えてきたであろう」  忠義とは、主君に真心を尽くして仕えること。だが、それは言葉に置き換えただけに過ぎず、北畠家における忠義とは行為よって示されるもの。  都に生まれし公家において、席次を決める官位こそが武士における領地と言えた。屋敷の一部屋のどこに座るのかが人の価値を決めるのだ。  北畠家はこれまで仕えてきた天皇の出家に依って、共に出家の道を選んできた。領地を放棄することで忠義を示してきたのだ。言葉で斬り合う公家だからこそ、その行為には重みがある。  人払いをし、顕家を迎え入れた父。誰にも見られていない状況において、何を言ったかなんて意味を持たない。これまで父に付き従ってきた者は、貫いてきた忠義を見てきた。顕家に対し目に見える裁量を与えることが出来なければ、それは裏切りであり、その代償は背信へと繋がる。 「顕家」  人は駒であると教えてきたのは父自身。我が子であっても駒でなくてはならない。情は綻びを与えると自ら定めた真理が、説くべく言葉を縛り付け、名前を呼ぶ術しか持ちえなかった。  敵か味方か。その境目は多くの言葉を用いるほど曖昧になる。これ以上、言葉を多用することで、親心と果たすべき忠義が混ざり合うこと恐れていた。 「申し開きもありませぬ」 「顕家」 「もう忠義を」 「顕家」 「忠義を信じられないのです」 「顕家・・・」  顕家が流したもの。それは涙ではなかった。伊勢までたどり着く月日の中で、鎧に付着した土埃や雨のすべてを紅く染めたもの。顕家の股から足元にかけて、幾度も流れて染め続けた血の跡である。 「傷を負ったのか」 「いいえ、傷では」 「されど、それは血であろう」 「はい」 「そなたの血なのか」 「はい」  顕家は唇を噛んだ。幼き日によく見た泣くのを堪える仕草。おなごの様だと、幾度もたしなめた遠い記憶。父は悟った。顕家は此度の挙兵のさなかで、初潮を迎えたのだ。
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